摩天楼
走れメロスのパロディ、パラレルです。
ご了承の上お読みください。
メロスは激怒した。かの邪智暴虐の王を倒さねばならぬと決意した。
メロスの生まれは小さな村だ。進歩した科学も届かない、昔ながらの伝統を大切にする人たちが細々と暮らしている。メロスはそこの羊飼いだった。科学や機械の知識はとんと無かったが、正義感と怪力にかけては町の誰にも負けないと噂の、真面目で純朴な青年だ。
その日メロスは、大都市メトロポリスに買い出しにきていた。村ではほとんどのものが自給自足できているが、機械に関してはどうしても都市で買い求めるしかない。
ガラクタ市と呼ばれる、街の一角がすべてジャンクなどを売る区域がある。メロスはそこで草を刈る機械の修理に必要な部品を物色していた。市場はお目当てのものを探す人間でごった返している。ビニールシートに無造作に広げられた商品の中に、メタンガラスでできた花の髪飾りを見つけた。
メロスにはまだ幼い妹がいる。親を早くに亡くしたあとは、兄であるメロスを頼りに生きてきた可愛い妹である。明日には六つになる。誕生日の贈り物として、メロスはわずかな所持金をはたいてそれを買った。髪飾りは日光を吸ってきらきらと光の粒子を振りまいた。これならば冬の間も、花が好きな妹は楽しめるだろう。
上機嫌なメロスがのしのしと市場を歩いていると、商人同士の話が飛び込んできた。
「アーリエももうおしまいだな。あそこの羊毛は質が良くてよく売れたんだが」
「区画整理じゃ手の打ちようがないものな」
メロスは全身の毛が逆立つのを感じた。アーリエとはメロスの暮らす村の名だ。商人の襟を掴んで、鼻息荒く聞きただした。
「アーリエが終わりとはどういうことだ!」
地面から十センチは浮いた商人は縮み上がって口をもごもごさせた。鬼の形相のメロスに気圧されたのだ。慌てたもう一人の商人が答える。
「さっき政府の公式ネット掲示板で公開されたんだ。リゾートを兼ねたリニアの調整場になるらしい」
「なんだと……? では今いる住民はどうなるんだ!」
メロスは語気を荒げて問い詰めるが、商人は首を振った。
「そ、そこまでは知らねえよ。詳しくは書かれてなかった」
もどかしさにメロスは地団駄を踏んだ。そして商人から役場の位置を聞き出し、一目散に向かった。
白くのっぺりとした塔が、曇りがちな天にまっすぐそびえている。この塔が都市の中心であり世界の情報と統治の全てを担うエネタワーである。中には政府関係者しか入ることができない。塔の内部は膨大な量の情報を管理するための装置で満ちているともっぱらの噂だ。メロスは塔を直に見るのは初めてだった。威圧するような大きさに思わずたじろぐ。
このエネタワーをコの字に囲んだ白い建物が、一般市民も立ち入ることのできる役場になっている。息を吸い込み気を取り直したところで、メロスは役場めがけて文字通り殴り込んでいった。
「王はどこだ! アーリエを取り壊すことは許さんぞ!」
突然入ってきた男を見て役人たちはぎょっとしたが、同時に王などという単語を口にしたメロスを嘲笑った。この時代に王はもういない。あえて王に等しい地位があるとするなら、政府の最高責任者たる情報指揮官のみだ。指揮官は滅多に人前に姿を現さない。メディアに向けてはたいてい代理を立てている。
嘲笑も気にせず、メロスは喚き散らす。
「利便や利益だけを考えて他の人間を犠牲にする非道な王よ、貴様に人の上に立つ資格があるのか? 情報がなんだ、政府がなんだ!貴様らは羊の温かさや草の香りを知らないだろう! そんな奴らにアーリエを渡してたまるものか!」
暴れるメロスを役人五人がかりでようやく抑えつける。指揮官代理の腕章をつけた男が、擦り切れた服を身につけたメロスを、汚いものでも見るかのように見下ろした。
「調整場の件はもう決定したことだ。住民には移住地を用意してある」
するとメロスは五人の役人を振りほどき指揮官代行を殴り飛ばした。男は三メートルほど向こうに吹っ飛んでいき、そのまま意識を失った。役場にいた一般市民は何事かと声を失い、メロスを遠巻きに見ている。肩で息をするメロスをどう扱っていいかわからず右往左往する役人たちの前に、ある男が静かに現れた。
「アーリエの羊飼いメロスか。ならば、王よりはお前の方が人の上に立つ資格があると言うのだな?」
神経質な厳しい顔立ちの、初老の男である。場は騒然となった。この人物こそ、世界の頂点に立つ情報指揮官その人だったからだ。ただメロスだけはそれを知らず、食ってかかった。
「人を思いやれない人間は孤独だ。王もいつかたったひとりになって寂しく死んでいくことだろう」
なんてことを! と周りから声が上がる。情報指揮官に逆らうことは即死刑の重罪だ。男は微かに唇を歪ませて笑ったように見えた。
「私は情報指揮官、お前の言うところの孤独な王だ。さて、挨拶もなしに罵声を浴びせるような人間には然るべき罰を与えねばな」
指揮官の言葉にも怯まず、メロスは毅然として言った。
「おれを殺すなら殺せ。命乞いなどしない。だが——」
メロスはふと視線を落とした。
「三日だけ待ってほしいのだ。明日は妹の誕生日、それに間に合えさえすればあとは煮るなり焼くなり好きにするがいい」
「とんでもないことを言う。逃がした小鳥が戻ってくるとでも?」
「おれは約束を守る。そんなに信じられないならば、この街にいる親友のセリヌンティウスをおれの代わりに人質として置いていこう。おれが逃げてしまって、三日目の日暮れまでに帰ってこなければ、あいつを絞め殺してしまっていい」
指揮官は瞬時に検索用のウインドウを立ち上げ、空中にいくつかの画面が展開させた。わずか三秒にも満たない時間でセリヌンティウスの住民データを表示させた。
「ウェブクリエイターのセリヌンティウスか。いいだろう、願いを聞いた。ただし、三日後にお前が戻ってこなければその者を殺す。——少し遅れてくるがいい。お前の罪は永遠に許してやろう」
最後の一言にメロスはかっとなって言い返そうとしたが、答えを聞く前に指揮官の姿は消えた。空中に投影されたホログラムだったのだ。
そのうちにセリヌンティウスが役所へ連れてこられた。久方ぶりの再会がこんな形になるとは思っていなかった、と彼は笑った。すまない、必ず戻ってくるとだけ言ったメロスの背中を、彼は軽く叩いた。
セリヌンティウスの両手足に電子錠がかけられた。政府のみ使用を許されているものだ。役所の中はまだ騒然としていたが、こうしてはいられないとメロスは立ち上がった。自分を信じてくれた友のためにも、時間を無駄にするわけにはいかない。わき目もふらず飛び出していき、弾丸のように来た道を駆け戻る。反重力スクーターが行き交うのより早く走るメロスの姿にぎょっとした人々が左右に避けた。
生まれ故郷アーリエに着いた頃には、空は満天の星で埋め尽くされていた。メトロポリスのスモッグで薄ぼんやりした空とは違う。澄んだ空気を吸って、吐き出した。走り詰めだった脚はすでに棒のようで、よろよろと家に入ってきた兄を見て妹は目を丸くした。
「どうしたのお兄ちゃん! すごく疲れてるみたい」
心配して駆け寄ってくる妹の頭を撫でながら、メロスは笑顔を作った。
「いや、なんでもない。明日はおまえの誕生日だろう? パーティーをしよう」
妹はもろ手をあげて喜び、優しい兄の腰元にまとわりつく。はしゃぐ妹をなだめて寝かしつけると、メロスもそのままベッドに突っ伏して眠りについた。
兄妹が目を覚ましたのは、祝いの品や食べ物を持ち寄った村人たちが訪ねてきた、日も高くなってからだった。家の外には大きなテーブルが据えられ、焼き菓子や果物が並べられている。村で一番年下であるメロスの妹は村人全員にかわいがられていた。メロスも利口で純粋な妹のことを誇りに思っていた。しばらくすると村人たちは各々歌を歌い音楽を演奏し始め、にぎやかになってきた。二つ年上の少年が妹の手をとって、輪の中で踊り出す。この姿も明日になれば二度と見ることはできなくなってしまう。そう思うとメロスは、手拍子を打ちながらも涙ぐむのを止められなかった。
宴会が盛り上がるにつれて、雲行きは怪しくなってきた。一時は持ちこたえるかと思われたが、湿気を身体いっぱいに含んだ雲はとうとう大粒の雨を落とし始めた。仕方なく村人たちは家の中で宴の続きを楽しんだ。熱気でむんむんとする室内だったが、誰の顔も晴れやかであった。メロスはにこにこと手を打っている妹を呼び寄せた。ポケットに入れたままだった花飾りを小さな手に握らせる。部屋のダイオードの灯りに反応して、細かい光が花びらの中で弾ける。ガラスのひんやりとした感触に驚きながらも、妹は大きな瞳をさらに大きくして手のひらで咲いた花をじっと見つめた。
「誕生日おめでとう。おまえがおれの妹でよかった」
妹の手から花を受け取り、柔らかい羊の毛のような髪にそっとさしてやる。妹はがばりとメロスに抱きついて離れなくなった。いつまでもこうしていたかったが、明日は早くにアーリエを発たなければセリヌンティウスの命がない。もう自分はベッドに行くのだと妹をなだめるが、きつくメロスを抱きしめて離しそうもない。と、そのうちに妹の目からぽろぽろと澄んだ涙がこぼれた。どうしたことだとメロスが狼狽すると、彼女は言った。
「どこか遠くへ行ってしまうの? もう会えないの?」
兄の微かな変化を見逃さなかった妹は、何か恐ろしいことが起こるのではないかと心配しているのだ。メロスは内心とても驚きながらも、あたたかい心持ちになった。これではどちらが年長者なのかわからないではないか。
「そんなことはない。明日はメトロポリスへ出かけるがすぐ戻るさ」
そして、向こうでこちらの様子を窺っていた少年を手招きした。先刻妹と踊っていた少年はおずおずと近寄ってくる。その頭をくしゃりと撫でてメロスは耳打ちした。
「おれは大事な用がある。もしおれに何かあったときは妹をよろしく頼むぞ」
少年はぱっと顔を赤く染めた。妹に気があることをメロスは知っていたのだ。少年はいっぱしの男の顔つきになって頷くと、まだ少しぐずっている妹の手を引いて宴へ戻っていった。それを見届けたあと、メロスは家を抜け出し羊小屋で寝た。不思議と明日が怖くなかった。むしろ、満たされた気持ちで深く深く眠った。
ふと目が覚めた頃には、空は薄ら明るくなっていた。しまった寝過ごしたか、いやまだ間に合うはずだ、とものすごい勢いで考えているうちに、小屋の中のあるものに目が留まった。飼い葉と埃にまみれた二輪駆動車が、じっと身動きせずに主を待っていた。スクーターでさえ反重力や電磁力サーヴを搭載しているのが当然の今、モーターで動くものは骨董品扱いである。しかしメロスが汚れを拭ってやると、車体は鈍く光り存在感を放った。祖父だが曾祖父だかが遺したものであったか、幼い頃に一度乗せてもらったきりだった。キーは挿さったままだ。軽くひねろうとするが錆びついて動かない。ガソリンも酸化して駄目になってしまっているかもしれない。折れないように祈りながらキーを回す手に力を込めると、鍵は軋みながら回った。排気筒からため息のようなガスが出て、黙る。もう一度——メロスの願いが通じたか、車体はぶるんと震えて唸り始めた。むかし丁寧に整備されていたおかげだろう。塗装は剥げ落ち錆びだらけだが、まだ生きている。大きなエンジン音に怯える羊たちをのけて、小屋を出た。これに乗っていけば、昼には向こうに着けるに違いない。メロスは持ち前の呑気さを取り戻し、鼻歌を歌いながら明けていく空へバイクを走らせた。
頬に当たる風が心地よい。モーターの規則正しい振動が車体から伝わってくる。そろそろ道程の半分ばかり来たところだろうか。今までメロスが運転したことがあるものといえば耕運機ぐらいであり、初めての、しかも旧型車を操れるかはいささか不安だったのだが、案外乗りこなせるものだとメロスは感心していた。
だが、そう上手くいくわけではなかった。メロスはバイクを止め、呆然と目の前の光景を見つめた。普段は小川程度の川が、昨日の大雨で増水し氾濫している。ごうごうと音をたてて流れる水になすすべなくメロスは立ち尽くした。まさかこんなところで足止めを食らうことになろうとは。こうしている間にも、セリヌンティウスは自分を信じて待ってくれているだろうに。メロスは歯噛みした。太陽はすでに昇りきって、メロスの頭をじりじりと焼いている。水の勢いはいっこうに収まる気配がない。
ここでぐずぐずしていては日暮れまでにメトロポリスに辿り着けぬ。メロスは心を決めて、エンジンをふかし直した。五十メートルほど来た道を戻ってから、川の方へ一気に加速する。前輪が水に突っ込む直前でハンドルを思い切り上へ引き上げた。車体は弧を描いて、川の向こう岸へ着地した。しかし後輪が砂利にとられ、横に滑ったバイクが瞬く間に濁流に絡め取られる。メロスは慌てて飛び降り事なきを得たが、バイクはみるみる波に呑まれ、下流へと流されていってしまった。相棒を失ったメロスはしばらくそこを動けなかったが、こうなってしまっては自分の足を頼るしかない。ひとり頷き、駆け出した。
土が踏み固められた道だったのが、だんだんと整備された道へと変わってきた。確実にメトロポリスへ近付いている。メロスはそれを心の支えにひた走った。すると、前方から同じく走ってくる者が見えた。履いているブーツに電磁ポートがついているらしい、地面を滑るように走ってきた青年は、軽蔑の色をを込めた眼差しでメロスを睨みつけながら、頭突きをせんばかりの位置で止まった。セリヌンティウスの弟子で、ハッカーを目指しているフィロストラトスだ。青年といえども、ハンチング帽を被ったその風貌や、感情の表し方にはまだ少年じみたあどけなさがある。
「最低だな!」
開口一番、フィロストラトスはメロスを罵った。
「アンタのせいで、先生は今の御時世で磔にされてる。これから走っても間に合うかどうかわからないギリギリじゃないか! 先生はアンタを信じて待ってるってのに、今までどこで道草食ってたんだよ!」
一気にまくしたてるフィロストラトスを追い越して、メロスは走った。青年は憤慨しながらついてくる。動くのに合わせて、つなぎに括りつけられた工具やコード類が騒々しく鳴る。
「お前の師匠を人質にしたのは悪かった。だがこうするしかなかった。セリヌンティウスの信頼に応えるためにも、こうして走っているのだ」
流れる汗も拭わないメロスを見て、フィロストラトスは沈黙した。そして再び口を開く。
「さっき、役所のデータバンクにアクセスしたんだ。五番街の請負人数名の口座宛に金が振り込まれてた」
「それがおれたちに関係あるのか?」
フィロストラトスの言う『アクセス』とは、もちろん違法行為なのだが、電脳世界のことに疎いメロスは知る由もない。鈍いメロスにやきもきした様子で、フィロストラトスは語気を強めた。
「五番街って言えば、盗みから殺しまで何でも請け負う奴らで溢れる暗黒街じゃないか。知らないのか? 役所は約束なんて守るつもりないのさ」
ようやく事態を飲み込んだメロスは、王——情報指揮官のことを尚更許しておけぬと思った。処刑される前に、一回だけでも殴っておかねば気が済まない。
そこに、けたたましい排気音とともに四気筒の大型バギーがドリフト駐車した。鋼や真鍮をほうぼうに当てて武装した車体は、刺々しく攻撃的だ。
三人の男がバギーから降りる。そのうちの一人がフィロストラトスに目をやって言った。
「おい、ターゲットは二人だったっけかあ?」
禍々しい塗装を施したチェーンソーを担いだ男が、にやにやした笑いを顔に浮かべて答える。
「別にかまやしねえよ。料金を上乗せできる」
それもそうだな、と残りの二人もめいめい得物を構えてメロスたちと向き合った。どろりとした瞳はドラッグ常用者のそれである。メロスはフィロストラトスを庇って前に出た。
合成麻薬の管を咥えた男が、家屋解体用のハンマーを振り下ろす。メロスがそれを躱し、ハンマーは埋まった石ころごと砕いて地面を抉った。もう一人はチェーンソーの紐を引き、ジグザグの刃が回りだす。
「どけ。お前らのようなチンピラに構っている暇はないのだ」
吼えるメロスに怯むことなく、むしろ馬鹿にしたような様子で男たちは武器を持ち直した。メロスの眉間のしわはますます深く刻まれた。
「天下の指揮官サマにたてつく反逆者にはおしおきしなきゃなァ!」
下品な笑い声を上げ、チェーンソーが横薙ぎにメロスを狙う。刃は服を裂いたが、肉に届くすんでのところでよけることができた。フィロストラトスも、電磁ブーツと小回りの利く体を活かして二人の男を翻弄している。メロスはハンマーを持った男をむんずと掴み、頭突きを食らわせた。鉄板を思い切り叩いたような音がして、男は白目を剥いて気を失った。ナイフを持った三人目の男が舌打ちし、フィロストラトスに襲いかかるが、軽やかな上段の蹴りで敢え無く返り討ちに遭う。
すると、
「どいていろ、フィロストラトス!」
メロスの声に振り返ると、メロスがあの大型のバギーを持ち上げているのが目に飛び込んできた。焦って男たちから離れると、間髪入れずそこにバギーが降ってきた。男たちの情けない叫び声があがる。フィロストラトスは怒鳴った。
「危ないじゃないか! しかも乗り物も壊したら結局また走ることになるぞ!」
メロスは一瞬ばつの悪い顔をしたが、素知らぬふりをして走り始めた。苛立ちつつ、青年もその後を追う。
日は傾き始め、影が斜めに伸びてゆく。遠くに、夕陽を受けてきらきらと光るエネタワーが見える。
——もうすぐ、もうすぐだ。
メロスは無二の友のことを思ってひた走った。癖のある髪が額にへばりついている。あとは街に入るのみである。
「なあ、あれなんだ?」
フィロストラトスが訝しげに言った。目を凝らすと、街の方角から小さなたくさんの点が飛来している。それはだんだんとこちらへ近付くほどに正体をあらわにした。
「……虫だ……!」
半ば絶望したような響きをもった言葉がメロスからこぼれた。ただの虫ではない。ひとつひとつが手のひらほどの大きさで、主に機械類や金属を好んで食べる機械蟲である。回路の中に放つウイルスやビルの解体に使用したり、用法は様々だ。
「お前がおれのところに来るのもわかっていたんだ! 早くそのブーツを脱げ!」
状況が飲み込めないでいるフィロストラトスに組みついて、メロスは工具のぶら下がったベルトとブーツを外そうと躍起になった。しかしすでに遅く、赤いLEDアイの虫が二人に群がる。針のような虫たちの歯が金属ごと二人の肉をついばむ。メロスは血塗れになってもフィロストラトスにかぶさって守った。なんのことはない、何も考えていなかった。ただ庇っていた。
喧しい羽音が止み、虫が去ったあともメロスは動けなかった。体のあちこちを食われ、絶えず血が流れている。フィロストラトスは丸太のような腕の下から這い出た。
「すまない……おまえの師匠を、自分の友を……救うことはできないようだ」
意識は朦朧とし、体から熱が失われていくのがわかる。息をしようとして咳き込んだ。
「バカ言うなよ! 先生が待ってんだ、あとちょっとじゃないか!」
フィロストラトスも顔や腕が傷まみれだったが、メロスよりはるかに軽傷で済んでいる。政府の、指揮官のやり方に腑が煮え繰り返る思いだった。ずっしりと重いメロスに肩を貸し、裸足で歩き出す。ブーツも工具も虫に食われてしまった。ここからは本当に自らの足で進まなければならない。容赦無く日は暮れていく。歩いた後には、点々と血が滴った。
舗装された道の真ん中で、とうとう二人は倒れた。もう一歩も歩くこともままならない。迷惑そうにスクーターや人々がよけていく。メロスの目からは涙が溢れた。足一本指一本動かせぬ。友も、その弟子も救えず、一生後ろ指を差されて生きていくのだ。フィロストラトスは起き上がり、再びメロスを支えようと奮起する。しかしそれは叶わず、また地面へ倒れこむ。そこに、今にも空中分解してしまいそうな三輪スクーターが通りかかった。どこかとぼけた顔の運転手が降りてくる。メロスは一言、「水……」と掠れた声で呟いた。
「あんたら砂漠でも通ってきたのかよ? ほら、これでも飲んで元気出しな」
そう言うなり、男はスクーターの荷台から取り出した缶を開けて、エメラルド色の液体をメロスの口に注ぎ込む。しゅわしゅわと口の中で弾ける炭酸は、霞んでいたメロスの意識を呼び戻した。全身に力が戻っていく。動ける。メロスは、えいという掛け声と共に跳ね起き、男に礼を言った。まだ身体はあちこち痛むが、大丈夫だ。走れ、メロス。
裸足のフィロストラトスを背負い、メロスは脇目も振らず駆け出した。全身ぼろぼろの二人を止める者はいなかった。ただその異様な雰囲気に道を譲った。夕陽はじりじりと、しかし確実に沈んでいく。
「もう間に合いっこないよ」
背中でフィロストラトスが涙目になって言う。メロスは叫び返した。
「まだだ。まだ太陽は沈んでいない!」
街のアスファルトで固められた道路はメロスの足の裏を傷つけた。痛みも出血も構わず、メロスは走り、広場に滑り込んだ。
広場では今まさに、処刑が始まろうとしていた。磔にされたセリヌンティウスの周りに集まっていた人々は、驚きとも感嘆ともつかない声をあげる。セリヌンティウスは微笑んだ。
「メロスはここだ、そこに磔にされるべき男はここにいる」
声は掠れほとんど聞こえなかったが、ホログラム投影の情報指揮官は片眉を上げた。セリヌンティウスの前には巨大な砲台のような装置がある。フィロストラトスが師匠へ駆け寄った。建物の間に太陽が消える。
「日暮れまでの約束だ。セリヌンティウスを離してやってくれ」
一瞬、指揮官の画像にノイズが入った。無表情になり、答える。
「指揮官は絶対の存在でなくてはならない。一般市民に改変させられるようなことがあってはならない」
広場がざわつく。磔台の前にあった電子分解砲が起動する。
「事実が過ちを犯したなら、データに沿うように事実を変えればいい。情報指揮官は絶対だ情報指揮官はゼッタイ情ホウ」
画像はいよいよ乱れ、高笑いのようなノイズ音を立てた。広場にいた人々は怯え逃げ出す。フィロストラトスは電子砲を止めようとしたが、エネタワーでの集中管理をされており歯が立たない。
「フィロストラトス! 俺の電子錠を解け!」
セリヌンティウスの声に弾かれ、フィロストラトスは磔台によじ登って解錠作業を始めた。一方メロスは二人のいる所とは逆方向に走った。
「どこ行くんだよ!」
フィロストラトスが叫ぶ。心配するなと叫び返しメロスはエネタワーめがけて最後の力を振り絞って馳せた。門番を殴り倒し、その腰から銃を奪って侵入者用のレーザー装置をめった撃ちにした。指紋声紋瞳孔を入力して開く扉も同じく目ぼしい部分を銃で破壊し、こじ開ける。
広場では自由になったセリヌンティウスとフィロストラトスが電子砲の停止に取りかかっていた。砲身の中では光が集まりつつある。セリヌンティウスはシャツの襟元に隠してあった端子コードと端末を引っ張り出し、砲台の操作パネルに繋いだ。
「こういうのは直接叩いた方が効くんだ」
「先生、メロスは大丈夫なんですか? あいつ何しにーー」
その問いに、手は止めずセリヌンティウスは笑いながら答えた。
「あいつも直接叩きに行ったんだろうさ」
異物を察知したエネタワー内部は赤く照らし出されている。上部まで吹き抜けになっており、エレベーターが一つだけという意外にも簡素な造りだった。普段から立ち入る者がいないのだろう。用途もわからない機器のランプの明滅が、巨大な生き物の息遣いに感じられた。メロスは迷わずエレベーターに乗り込み、最上階へ急いだ。
高速エレベーターは振動もなく停止した。階下とは違い、青い光で満たされている。最上階に行けば指揮官がいるだろうと思っていたメロスは、誰もいない室内を見回した。ガラスで覆われた計器の中、小さなチップが挿入されていた。それを中心としてあらゆる装置とパネル、コードが伸びている。
『この世界はデータの採取のために存在しているに過ぎない。お前の行動、お前の命など砂の一粒よりも小さいのだ』
部屋の全てのディスプレイに指揮官の画像が映し出される。
ーー最初から、情報指揮官なんてものはいなかった。この小さなチップに詰まったプログラムが、自分たちを司っていたのだ。
「人間は、お前が思っているほど単純にできてはいない」
メロスは拳を高く振り上げた。
電子砲が停止するのと、エネタワーの上部から爆発が起きたのは同時だった。塔の壁の一部分からは煙と炎が漏れている。先程とは打って変わって激しく揺れるエレベーターが一階に着くか着かないかで、メロスは転げるようにエネタワーから脱出した。次の瞬間、塔の至るところから規模様々な爆発が続けざまに起きた。その様子は街のどこからでも見えた。
広場に戻ってきたメロスを、セリヌンティウスは腕に唸りをつけて殴った。
「セリヌンティウス、おれを殴……ん?」
殴られたメロスは目を白黒させて頬をおさえた。セリヌンティウスはにやりとして言った。
「遅れた分はこれでチャラだ。さ、俺のことも殴ってくれ。この三日間でお前のことを疑ってないとは言えないんでな」
殴られ一メートルほど吹き飛んだセリヌンティウスは、フィロストラトスに支えてもらいメロスと抱擁を交わした。
「怪力め……ちょっとは手加減しろよ……それにお前ほとんど裸じゃないか」
「すまん」
呆れ顔のプログラマー二人と英雄一人の元に、少女がおずおずと近寄ってきた。ちょうどメロスの妹くらいの歳だ。手には大きな緋色の布を捧げている。
「お洋服がなかったの……」
もじもじと照れる少女の頭を撫でて、メロスは有難くそれを受け取った。人々も恐る恐る建物から出てき始め、メロスたちを讃えた。赤い布をネジで留めたメロスの姿は、古い物語に現れる英雄に寸分たがわなかった。
喜ぶ人々の影で微かにノイズが入ったことを、まだ知る者はいない。
【了】