65533、「大丈夫だから。落ち着いて、ね?」
……かちり、と何かが噛みあった気がした。
目を開けたつもりだったのに、視界は白くぼやけて何も映らず、自分がどこにいるのか、どういう状態なのかまったくわからなかった。こめかみを何かが伝って耳朶に触れ、そこで初めて自分が仰向けに横たわっているらしいと認識した。
「…ぅ」
声を発そうとして声にならず、うめくように息が漏れた。
自分を認識する。わたし、が何なのかはわからないが、わたしが今認識しているものは、きっと「わたし」なのだろうと思った。
どこまでが「わたし」で、どこからがわたしでないのかがよく分からなかった。
「わたし」はどんな姿をしていたのだったか。何も見えないから、わからない。
「わたし」が何だったのか。考えてみるが思い出せない。
わからない。わからない。何もわからない。
「……あ!」
誰かの声が聞こえて、そこで初めてわたしの認識する世界がふたつに分かれた。わたしと、わたしでないものに。
「泣いてるの……? あたしの声は聞こえてる?」
わたしではないものが、わたしに話しかけている。
言葉の意味は、理解できる。わたしは、泣いているのだろうか。
視界は相変わらず真っ白だったが、声に反応を見せようと、自分を動かそうとした。
しかし、自分と世界は相変わらず不可分で、どこまでが自分なのかの区別がつかなかった。
少し考えて、区別が出来ないのならしなければいいと思うことにした。自分以外と認識できた声に対して、そっと「手」を伸ばす。
「え、ええっ? ちょ、ちょっと、何?」
今、わたしは、意識せずに手を伸ばそうと考えた。ということは、わたしには手があるのだろう。
伸ばした「手」が何か柔らかいものに触れた。そっとその柔らかいものをつかもうとしたら、わたしでは無いものが「きゃあ」と声を上げた。
「……ねぇ、これ、あなたがやっているの?」
声に、少し、不快な響きがあった。
わたしが何をしたというのだろう。わたしは、何かよくないことをしたのだろうか。
「少し落ち着いてちょうだい」
声の主は、わたしが「手」を動かしているのが気に入らないのだろうか。
わたしは少し考えて、伸ばした「手」を引っ込めて、声の反応を待った。
「よかった。あたしの言うことがちゃんと聞こえていて、理解も出来ていると思っていいのよね? 落ち着いて頂戴。そのまま、そのままでいてね?」
何か、小さな暖かいものがわたしの額に触れた。
「身体を起こすわよ?」
自分以外が自分の身体に触れたことで、ようやく、自分の身体を認識することが出来た。
「今、包帯はずしてあげるから」
しゅるしゅると、布ずれの音がして、頭部の圧迫感が緩み、その時初めて視界を覆っていたものが包帯であると認識した。
視界が、広がる。
情報が、あふれた。
「大丈夫だから。落ち着いて、ね?」
そっと頭を抱きしめられた。
かちかち、キィキィ……、かちかち、キィキィ。
どこか懐かしい音が聞こえてきて、すぐにその音が自分の中からも聞こえてくるのに気がついた。
「……ぅ、あ」
言葉を発しようとして、やはり声にならず息が漏れた。
手を伸ばして、のどもとに触れてみる。
おそらく壊れているのだろう。それとも、わたしが認識しているものとは発音の方式が異なるのか。わたしがわたしとして認識している情報の中から、わたしが認識できる音が出るものを探る。すぐにいくつか、適しているものが見つかり、わたしはそれを使って言葉を発することにした。
「だいじょうぶ、」「です。」「ありがとう、」「ございます」
複数個所から、わたしの発した言葉が聞こえる。どうやら、うまくいったようだった。
「……驚いた。そんなことまで出来るのね」
わたしの頭を抱きしめている、わたしでない何かがつぶやいた。
わたしは、何かおかしなことをしたのだろうか。
「兄を呼んでくるから、ちょっと待っていて」
わたしでない何かが、そう言ってわたしから離れた。
「はい」「はい」「ハイ」「はい」
タイミングがずれて、同じ言葉が何度も出てしまった。
「……はい、は一回でいいと思うわ」
「「「「了解しました」」」」
今度はうまく言えた。
「口もひとつでいいんじゃないかなって思うんだけれど。まあ、いいわ」
わたしでない何かが、わたしの中から出て行った。
わたしの中……?
視界にあふれる情報を少しづつ整理する。
壁に立っているわたし、床に転がっているわたし、そしてベッドに座っているわたし。
台の上に乗っている、バラバラの、少し黒く焦げているわたし。
ベッドに座っているわたし以外は視覚が壊れているらしく、何も見ることが出来ない。
台の上のわたしの顔がよく見えるように、台の上のわたしの顔をベッドに座っているわたしの方に向ける。
キィ、という誰かの呼びかけが聞こえた気がした。
どれもわたしだけれど、この台の上のわたしが、わたしが認識している、「私」の顔に一番近いように思えた。ベッドの上にいるわたしの顔は、他のわたしから見ることが出来ないので手を伸ばしてベッドの上にいるわたしの顔に触れてみる。違いはよくわからなかった。
何か、姿を映せるものは無いだろうか。
部屋の中をぐるりと見渡したが、姿見のようなものはないようだった。
情報を整理する。
わたしの視覚から得られる情報によると、わたしは人型をしているようだった。わたしがわたしだと認識している、そこここに転がっているわたしも人型をしているようだった。
しかし、わたしは本当にこんな姿だったろうか。思い出そうと努力してみるが、思い出せない。
「驚いたな」
部屋の入り口から声がして、世界は三つに分かれた。わたしと、わたしでない何かと、もうひとつのわたしでない何か、に。
「やぁ、初めまして。僕はコウ。君、自分の名前は覚えているかい?」
「「コウ、」」「「さん……?」」
何かが記憶の底から浮かび上がろうとして、そのまま形にならずに泡となってはじけた。
……へっぽこぴーのぷぅのくせに、生意気です。
なぜかそんな言葉だけが頭に浮かんだ。
「まだ、混乱しているのかな? まぁ無理もないけど……」
コウ、と名乗ったわたしでない何かが、ベッドの上にいるわたしの方に歩いてきて、近くにあった椅子に腰掛けた。
「何があったか、覚えているかい?」
なんだろう。名前……? かつてわたしは、「わたし」は、何と呼ばれていただろう。
「私」は、何と呼ばれていたのだろう。
それに、何が起こったのだろう。なぜわたしは、ベッドの上にいる?
「……?」
答えられずにいると、コウ?は少しだけ肩をすくめてため息を吐いた。
「まぁ、ちゃんと起動しただけで奇跡みたいなものだし。とりあえず君のことはディーと呼ぶことにするよ。いいかい?」
「ディー?」
「A、B、C、D。四番目だから、ディーだ。そこの台の上に乗ってるのがひとつめ。さすがに損傷が激しくて、修復できなかった。二番目がそこの床に転がってるやつ。これも起動に失敗した。三番目はそこの壁に立っているやつ。起動には成功したんだけど、自我がなかった。
そして四番目のキミだ」
「あなたが、」「わたしを」「作ったの」「ですか?」
「兄さん、どうやら彼女は自我が分散しているみたいなんです」
コウの後ろのわたしではない誰かが、コウの肩にそっと手を乗せて言った。
「興味深いな。A、B、C、D、全てがキミなのかい? ディー?」
コウは小さく笑って、彼がAと呼んだ台の上の黒く焦げたわたしの首をひょいと持ち上げた。
「それとも、君が全部を動かしているのかな?」
そう言ってコウは焦げたわたしの首とにらめっこした。
わたしは少し考えて、「わかりません」とべッドの上のわたしの口から言葉を吐いた。
「もう一度お尋ねします。あなたが、わたしを作ったのですか?」
「いいや、僕はたまたま見つけた君に、君達に、興味を持っただけだよ。壊れた五体の自動人形にね。四体目でようやくまともに動くように修復出来たと思ったら、全部が喋りだすなんてね。全部が同じ自我を持っているのか、それともどれかに宿った自我が他の人形を動かしているのか……どっちかだと思うんだけどね?」
「わたしが”私”だと認識しているものは、この部屋中に広がっています」
わたしは「手」を伸ばして見せた。
わたしの伸ばした「手」はコウの手からわたしの首を取り上げ、ベッドの上にいるわたしの手元に持ってくる。
そっとわたしの首を頬をなでると、焦げた肌が白さを取り戻した。
きっと体内に残っていたナノマシンが活性化したのだろう。
「……今、何を?」
「少し、思い出しました」
ベッドの上のわたしの手で、焦げたわたしの首をやさしくなで続けながらもう少し思いだそうと努力する。
「わたしのことはディーではなく、キィと呼んでください」
「あら」
コウの後ろのわたしではない誰かが、驚いたような声を上げた。
「あたしと同じ名前なのね」
「そうなのですか?」
「うちでは代々、長男はコウ、長女はキィという名前なんだ。古いご先祖様の言いつけでね」
コウはそう言って小さく首を傾げた。
「まさか、君はうちのご先祖様だったりするのかな?」
問われてわたしは、言葉を失った。
後半開始です。ここからは通常の書き方になります。前半が声だけだった理由はそのうちたぶん書かれる予定です。
一応、残り8章分の構想はあるのですがいまいち自分で納得できていない所があるので、この章を含めた後半9章分は後日大幅に書き換える可能性があります。あらかじめご了承下さい。