第21話 私が守った人の名前
討伐数の欄は、当然ながら「零」のままだった。けれど――そのすぐ横の余白に、新しく公的な追記が墨黒々と書き加えられていた。
戦闘中、負傷した前衛三名を結界内へ収容し、担架隊の到着および本隊の撤退が完了するまで防衛を完全に維持したこと。その防衛担当者が、リゼット・エルンであったこと。
救護された三名の騎士の氏名も、一文字の間違いもなく明記されていた。
「王都騎士団の当時の出動簿、医務室の負傷者台帳、および同行騎士たちの証言を照合した結果、正式に記録の訂正が受理されたとのことです。訂正を反映させた公式台帳の謄本が、こちらへ送付されてまいりました」
セドリック様の穏やかな声を聞きながら、私は震える指先で二枚目、三枚目の写しをめくっていった。
別の日にも、防衛と救援の克明な記述がしっかりと追記されていた。私が自分の控えに印をつけ、照合をお願いしたすべての日付だった。
私がしてきたことが、ここにある。
ただ紙の上にインクで文字が書かれているだけなのに、私は込み上げてくる熱い涙で視界が滲み、すぐに顔を上げることができなかった。
倒した数だけが誇らしげに並べられた記録を見るのは、もう本当にうんざりだった。自分が何人を守り、誰を連れて帰ってきたのかは、自分自身の記憶の中にしっかりと刻まれている。それでも――私以外の誰かが読む公式な記録の場所にも、私の戦いの証を残してほしかったのだ。
「この写しを部屋へ持ち帰り、手元の控えと見比べてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。公爵家で保管する分はすでに謄写してありますので、それはリゼット殿のものです」
私は深く一礼してお礼を言い、大切な書類を封筒へ戻した。
紙の角を絶対に折らないように慎重に入れたら、少しだけ時間がかかってしまった。
自室へ戻ると、机の引き出しの奥から、王都を出るときに荷物の底へ詰めた古い日報の束を取り出した。
机の上に、日付順に綺麗に並べていく。
ここは、三人を守った日。
こちらは、退却の途中で二手に分かれた隊の後衛を、結界へ収めた日。
人数と場所を一つずつ確かめ、王都から届いた新しい写しに記された自分の名前を、指先でなぞるように読んだ。
バルト隊長が冷たく契約打ち切りを言い渡したときの絶望を、完全に忘れたわけではない。
あのとき、どうして一言でも私の話を聞いてくれなかったのかという悔しさは、今でも胸の片隅に小さく疼いている。
けれど今――あの王都騎士団へ戻ってやり直したいとは、これっぽっちも思わなかった。
私は訂正された新しい写しを、手元で大切に保管してきた古い控えの上にそっと重ねた。
新しく届いた紙はどこまでも白く、下にある古い紙には、あの日の悲しい折れ目が今も残っている。
両方を丁寧に揃え、綺麗な紐でしっかりと結び直して、引き出しの一番安全な場所へと大切にしまった。
◇
夕食へ向かうため廊下を歩いていると、角の向こうからアルヴィン様が歩いてこられた。
何かの重要書類が入った革の筒を抱えておられたが、私の姿を認めるなり、パッと足を止めてくださった。
「リゼット。王都からの返答は読めたか」
「はい。手元の控えと一緒に、大切に引き出しにしまいました」
まっすぐにお顔を見上げてお返事すると、アルヴィン様は心底安心したように微笑まれた。
そのまま二人で食堂へ向かうのかと思ったが、アルヴィン様はまだ何か言いたそうに佇んでおられた。
「リゼット。……明日の夜の、食事の約束だが」
私は思わず顔を上げた。
「もちろん、片時も忘れておりません」
答えながら、なんだか気恥ずかしくなって笑ってしまった。
部屋の机の上には、昨日買って帰ってきた細い白いレースのリボンが置いてある。今夜こそ、あの薄青い外出着の袖口に縫い付けるつもりだったのだ。
「よかった。詳しい時間は、明日の夕方に改めて伝える」
「はい! とても楽しみにしております」
言ってから、アルヴィン様の返答を待った。
「……ああ。私も、とても楽しみにしている」
彼が少年のような照れくさそうな笑みを浮かべたので、今夜の針仕事は少しだけ気合が入りそうだった。袖口のリボンを、左右で綺麗に揃えなければならない。
私はアルヴィン様と並び、軽やかな足取りで食堂へと向かった。
◇
翌朝、最初の荷馬車が、整備を終えた旧街道をゆっくりと通り抜けていった。
車輪が均された石畳を小気味よく鳴らし、荷台に高く積まれた葡萄酒の樽が心地よいリズムで揺れる。御者は晴れ渡る道の先を嬉しそうに見渡し、ゆっくりと手綱を緩めた。
私は路肩に立ち、その後ろ姿を温かい気持ちで見送った。
あの日、土砂で完全に塞がっていた深い排水溝には、清らかな水がさらさらと音を立てて流れていた。崩落した斜面の下には、まだ立入りを禁じる柵がある。その区間は道を谷側へ寄せ、荷馬車が一台ずつ通れる幅を確保してあった。
黒翼竜を討伐してから、作業員や騎士たちは毎日ここへ通い、崩れ残った土砂の撤去と道の修復を進めていた。往来を再開してよいと測量班から報告が上がったのは、昨日のことだった。
「次を通して結構です!」
セドリック様の澄んだ号令が響き、待機していた二台目の大型馬車がゆっくりと動き出した。
御者が脱帽して深々と頭を下げ、路肩に立つアルヴィン様が穏やかに手を上げてそれに応える。
その凛々しい横顔をそっと見つめてから、私は再び街道の先へと視線を戻した。
一か月。
公爵様の専属護衛として最初に結んだ契約期間は、今日で満了を迎える。
合図に従って荷馬車が一台ずつ進んでいく間、私はアルヴィン様の半歩前に立ち続けた。
彼は私の背後から、通り過ぎていく商人や村人たちへ、優しく労いの声をかけ続けていた。
◇
公爵邸へ戻ると、応接室の机の上に新しい契約書がすでに用意されていた。
セドリック様に促され、私はふかふかの椅子へ腰を下ろす。
先日、三人で時間をかけて確認し合った新しい条件が、美しい文字で几帳面に書き込まれていた。
任務は引き続き、アルヴィン・ローデル公爵閣下の専属護衛。給金の額、定期的な休養日の設定、個室の継続使用と備品の支給について。文言が更新された箇所をセドリック様から丁寧に説明していただき、変更箇所も含めて最後まで読み通してから、私は羽ペンを手に取った。
リゼット・エルン。
ペンを置くと、アルヴィン様がすでにご自分の署名を済ませていたもう一枚の書類を、私の方へすっと寄せてくださった。
「これからも、よろしく頼む」
「はい。こちらこそ、未熟者ですがよろしくお願いいたします」
控えの羊皮紙を受け取り、インクが乾くのを静かに待つ。
初めてこの屋敷へやってきた日は、お給金の額ばかり何度も何度も読み返していた。あの数字は今でも私と実家の家族にとってものすごく大切なものだけれど、今日の私には、ほかにも確認しておきたいことがあった。
「次の周辺巡回の任務は、明後日からでしょうか」
「ええ。新しく通行を再開させた東側の山林区間から見回ります」
セドリック様のお返事に、私はしっかりと頷いた。
「では、夕方までに部隊配置の写しをいただけますか。日報の整理と照合も、もう少し残っておりますので」
「リゼット殿。今日の業務は、これで終わりです」
セドリック様が、手元の手帳をパタンと閉じた。
「日報の整理の続きは、明日お願いいたします」
私は思わずアルヴィン様を見た。
彼は何か言いかけようとしたが、結局、セドリック様と同じように悪戯っぽく微笑んで頷かれた。
「身支度の時間も必要だろう」
壁の時計を見る。
約束の夜までは、まだ少し間がある。けれど、鏡の前で髪を丁寧に結い直したり、袖口に縫い付けたリボンの形を気にしたりする時間まで考えると、思っていたほど余裕はないかもしれなかった。
「……では、お先に失礼して準備いたします」
私は新しい契約書を両手で大切に抱え、椅子から立ち上がった。
部屋へ戻る廊下の足取りが、どうしても少しだけ早足になってしまった。
廊下の角を曲がる直前、背後で私の名前を呼ぶ声がした。
振り返ると、アルヴィン様が扉の前まで出てきておられた。先ほど交わした契約書は、もうその手にはない。
「今夜、君に話しておきたいことがある」
私は書類を抱えたまま頷いた。
何のお話でしょうかと尋ねるより先に、彼が、少しだけ緊張した顔で微笑まれた。




