第1話 討伐数は、ゼロでした
「次の契約更新はない。今月限りで退団してもらう」
隊長のバルト様は、机の上に私の勤務記録を置いた。
開かれた頁には、出動した日付と討伐した魔獣の数が並んでいる。私の名前の横は、どの日も零だった。
「攻撃魔法は、まだ使えないのか」
「はい。ですが、先日の討伐では負傷した三名を結界に入れて、撤退を……」
「救援に回ったことは聞いている。だが、討伐の実績がない者を部隊に置き続ける余裕はないんだ」
あの三人を運ぶ担架が来るまで、私は泥の中で魔獣の牙を結界で受け止め続けていた。怪我人の一人は、自分も足を痛めているのに仲間を担いでいた。担がれていた人を下ろしてもらい、三人とも座らせ、「もう動かなくて大丈夫です」と伝えてから救援が到着するまで、本当に長かった。途中で冷たい雨まで降ってきて、体ごと凍えそうだった。
それでも全員が生きて帰れたのだから、役目を果たせたと思っていたのだ。
「防御だけではな。攻撃もできる者に兼ねさせる」
バルト様は、事務的な手つきで記録を閉じた。
その乾いた音を聞くと、もう何を言えばいいのか分からなかった。
私、リゼット・エルンは、剣の筋がいいわけでもない。防御魔法の頑丈さだけが取り柄の、貧乏男爵家の娘だ。
王都騎士団の給金には、ずいぶん助けられていた。実家の父へ生活費を送っても、自分の質素な暮らしなら困らない。それが来月から途絶えるのだから、困る。途方に暮れるほど困るのだが、最後の給金を受け取って門を出る瞬間まで、私の胸につかえていたのはあの記録のことだった。
零なのは、倒した数だ。
私は何もしていなかったわけではないのに。
振り返ってそう言いに行こうかとも思ったけれど、結局、荷物の底に日報の控えを押し込んだ。
どうしても、捨てる気にはなれなかった。
◇
王都を離れて三日目、私は街道の端をひたすら歩いていた。
乗合馬車を使えば早いことは分かっている。けれど実家へ戻ってもすぐに次の仕事が見つかる保証はないし、歩けるうちは路銀を温存しておきたかった。幸い足腰は丈夫だし、食事を削って倒れたら余計にお金がかかるので、ご飯だけはしっかり食べている。
お昼に買った丸パンが、布袋の中でまだほんのり温かかった。
あの坂を越えたら、腰を下ろして食べよう。
そう決めて足を速めたとき、鋭い馬の悲鳴が森に響いた。
荷物を抱え直して坂を駆け上がると、道を斜めに塞いだ荷馬車と、その前で必死に荷崩れ防止の棒を振り回している男性が見えた。御者のようだ。車輪の陰にはもう一人、荷主らしき若い男性が腰を抜かしてしゃがみ込んでいる。
森との境に、灰色の獣が二頭。
狼に似ているが、大人の腰ほどもある背丈と、口から突き出た太い牙がまるで違う。中型の魔獣だ。あんな牙、木の棒で防げるはずがない。
「棒を下ろして! 馬を引いて、私の後ろへ!」
叫びながら御者の前へ割り込んだ。
獣が太い後ろ脚で地面を蹴る。速い。口の奥の赤さまで見える距離だったが、前脚が伸びきるより一瞬早く、足元から結界を立ち上げた。
鈍い衝撃音がして、薄青い光の表面を鋭い爪が滑る。
御者が息を呑んだ。私もしっかり息を吸い込む。間に合うと確信して飛び出したとはいえ、怖くないわけがない。牙は太いし、口端からは濁った涎が垂れている。こんなものを間近で見たい人なんて、この世にいない。
「そちらの方も、車輪から離れて! 馬の横まで来られますか!」
「こ、腰が抜けて……っ」
「這ってでも大丈夫です! 転ばないよう、落ち着いてこちらへ!」
二頭目が荷馬車の側面に回り込もうとした。
私は半歩横へずれ、御者と馬、地面を這う男性が背後に収まるよう位置を取り直す。結界を後方へ引き伸ばすと、横から突っ込んできた獣が光の壁に跳ね返され、荷台の麻袋がかすかに揺れた。
私の結界は、自分を先頭の起点として後方へ展開する。私自身を含め、光の内側であれば上空からでも側面からでも防げるが、私の立ち位置より前へ出た者には届かない。
だから、そこで落ちた棒を拾おうと前に出ないでほしい。
「棒はあとで拾えます! 今は馬の手綱を離さないで!」
御者の手が止まり、慌てて手綱を握り直した。
ひとまず安心だ。人間への指示がそのまま馬にも通じれば苦労はないのだが、馬は怯えて激しく首を振る。その長い鼻先が結界の外へはみ出さないよう、私は立ち位置を少しずつ前へずらした。
守り切ることはできる。
けれど、私一人ではこれを終わらせることができない。
獣たちは諦めて立ち去るどころか、興奮して元気を増していた。交互に結界を引っかいては飛び退き、こちらの隙を窺っている。
誰か通りかかってくれないかと街道の先へ視線を向けたとき、複数の蹄の音が地面を揺らして響いてきた。
「そのまま維持できるか!」
馬上から鋭い声を飛ばしてきたのは、仕立てのいい乗馬服を着た黒髪の騎士だった。
「維持できます! こちらは全員守れますので、魔獣をお願いします!」
彼は即座に片手を上げ、従う騎士たちを左右へ展開させた。
一頭が馬列へ向き直った瞬間、その横腹を鋭利な風の刃が切り裂いた。ほぼ同時に、もう一頭の喉元へ回り込んだ騎士の槍が深々と突き刺さる。
あまりに無駄のない早業で、私は結界を補強しようと持ち上げていた両手を、しばらくそのまま空中に留めてしまった。
黒髪の騎士が滑らかに馬を下り、倒れた二頭の絶命を素早く確認する。槍を持った護衛の騎士たちは、すぐさま森の縁へ散って周囲の警戒に入った。
「もう解いていい。怪我人はいるか?」
「いません。……あの、お馬も無傷です」
御者が泣きそうになりながら馬の首にしがみついていたので、つい付け足してしまった。
騎士はそちらを一瞥すると、ふっと口元を緩めた。端正な顔立ちが、ほんの少し和らぐ。
「そうか。間に合って何よりだ」
御者が何度も地面に頭を下げた。車輪の陰にいた荷主の男性もようやく立ち上がろうとしたが、膝が笑ってまた座り込んでしまう。どこか痛めたのかと心配したが、腰が抜けて力が入らないだけだという。それなら、無理に立たず休んでいた方がいい。私も本音を言えば座り込みたかったが、まずは道端に落とした自分の荷物を拾い上げた。
丸パンは無事だった。袋ごと少し平たくなっていたが、食べられるなら無事のうちだ。
「先ほど、馬が暴れて首を振る直前に、前へ踏み出していましたね」
落ち着いた声で話しかけてきたのは、黒髪の騎士の傍らに控えていた、理知的な風貌の細身の男性だった。
「はい。驚いて鼻先が外へ飛び出すと危ないと思いましたので」
「人間がパニックを起こして飛び出した場合も、同じように?」
「私の真後ろか横にいらっしゃるなら合わせられます。ただ、私の前に出られてしまうと、私がその方を追い越さない限り守れません」
細身の男性は、なぜか黒髪の騎士へ意味ありげな視線を向けた。
つられて私も見ると、黒髪の騎士は気まずそうに左腕の袖口を整えていた。手首から肘の上あたりまで、白い包帯が幾重にも巻かれているのが見える。
「ご挨拶が遅れました。私はローデル公爵家で副官を務めております、セドリックと申します。そしてこちらが、当主のアルヴィン・ローデル公爵閣下です」




