断罪はあとにしてください――その罪状、わたくしのアリバイになっております
「ベルセフォネ・ロシュフォール!」
卒業夜会の大広間に、王太子アルノーの声が響き渡った。
楽団の演奏が止まり、踊っていた生徒たちが一斉にこちらを見る。
名前を呼ばれたベルセフォネは、手にしていた葡萄水のグラスを給仕へ渡した。
今夜のために仕立てた黒紫色のドレスが、ゆっくりと揺れる。
「はい、殿下」
王太子の前へ進み出ると、その隣には聖女リリアーヌが立っていた。
正確には、立たされていた。
腰まである金色の髪は濡れ、白いドレスの裾は鮮やかな青に染まっている。
先ほど中庭の噴水へ落ちたためだ。
「ルセ様」
リリアーヌが小声で呼びかけてくる。
ベルセフォネは視線だけを向けた。
「どうなさいました?」
「寒いです」
「当然ですわ。先に着替えるよう申し上げたでしょう」
「でも、殿下が大事な話があるから絶対に残れって」
リリアーヌは唇を尖らせた。
ベルセフォネは王太子を見る。
「殿下。聖女様が風邪を召されます。断罪の前に着替えを――」
「黙れ!」
アルノーは手にした紙束を高く掲げた。
「今さら聖女を気遣うふりをしても遅い! ベルセフォネ・ロシュフォール! 私は貴様との婚約を破棄し、ここにその罪を断ずる!」
大広間がざわめく。
ベルセフォネは、リリアーヌの肩へ掛けていた自分のショールを整えた。
「ルセ様、婚約破棄されるんですか?」
「そのようですわね」
「急ですね」
「わたくしも初耳です」
「昨日、一緒に蜂蜜菓子を食べていましたよね」
「ええ」
「婚約破棄する人って、前日に婚約者から蜂蜜菓子をもらうんですね」
「殿下にも事情がおありなのでしょう」
ベルセフォネは声を潜めた。
「おそらく、深く考えてはいらっしゃいません」
「聞こえているぞ!」
アルノーが顔を赤くした。
王太子の背後には、側近のエドガール・ヴェルネ侯爵令息と、数名の男子生徒が並んでいる。
全員が険しい顔でベルセフォネを睨んでいた。
エドガールが一歩進み出る。
「殿下。罪状を」
「ああ」
アルノーは紙束の1枚目を開いた。
「ベルセフォネ! 貴様は今夜、午後7時5分、東階段においてリリアーヌを突き落とした!」
リリアーヌがベルセフォネを見上げた。
「私、落とされました?」
「罪状書では、そうなっておりますわ」
「覚えていません」
「わたくしにも覚えがございません」
アルノーは構わず続けた。
「午後7時25分には温室へ閉じ込め、午後7時35分には髪飾りを壊し、午後7時45分には庭園で進路を妨害した!」
「温室では、ルセ様と苺を食べていました」
「管理人からいただいたものですわ」
「そこはどうでもよい!」
アルノーの声が裏返った。
「そして午後7時50分! 中庭の噴水において、貴様はリリアーヌを突き飛ばした! その姿をエドガールが目撃している!」
全員の視線が、青く濡れたリリアーヌのドレスへ集まった。
それだけを見れば、説得力のある罪状だった。
「これは明白な証拠だ!」
アルノーは勝ち誇った。
「リリアーヌのドレスを見ろ!」
リリアーヌが自分の裾を持ち上げた。
ぽたぽたと青い雫が床へ落ちる。
「私、突き飛ばされたんですか?」
「いいえ。足を滑らせただけですわ」
「ですよね」
「わたくしは止めようといたしました」
「ルセ様も一緒に落ちかけました」
「あなたが腕を離してくださらなかったからです」
「ルセ様が離さなかったんです」
「あなたを沈めるわけにはいかないでしょう」
「ちょー優しい」
「聖女を脅すな!」
アルノーが叫んだ。
ベルセフォネはわずかに眉を寄せた。
「どの部分が脅迫に当たりました?」
「そうやって、リリアーヌが貴様をかばうよう仕向けているのだ!」
「ルセ様をかばっているのではなく、本当のことを言っているだけです」
リリアーヌはきっぱりと言った。
「それに私は、ルセ様に脅されたことはありません」
「恐ろしくて言えないのだろう!」
「殿下のほうが声は大きいです」
大広間のあちこちから、押し殺した笑いが漏れた。
アルノーのこめかみに青筋が浮かぶ。
「ともかく、証人はそろっている! 貴様の悪行はすべて明らかだ!」
そのときだった。
大広間の扉が勢いよく開いた。
学院の警備を担う近衛騎士が、青ざめた顔で駆け込んでくる。
「殿下! 申し上げます!」
「今は取り込み中だ!」
「学院長が、資料室で亡くなっております!」
大広間が静まり返った。
音が消えたようだった。
アルノーが紙束を持ったまま固まる。
「亡くなった?」
「胸を刃物で刺されております。資料室の扉には内側から鍵がかかっており、我々が破りました」
誰かが小さく悲鳴を上げた。
ベルセフォネは騎士へ尋ねた。
「最後に学院長を見たのは、いつです?」
「午後7時30分頃です。学院長はお一人で資料室へ向かわれました。医師の見立てでは、死亡したのは午後7時40分から午後8時の間ではないかと」
アルノーが、はっとベルセフォネを見た。
「貴様だな」
「はい?」
「学院長を殺したのも貴様だ!」
先ほどまで静まり返っていた大広間が、今度は別の意味でざわめいた。
リリアーヌが呆れた顔をする。
「殿下、何でもルセ様のせいにしすぎでは?」
「学院長は規律に厳しかった! ベルセフォネの悪行を知り、処罰しようとしていたに違いない!」
「今、初めて聞きましたわ」
「だから口封じに殺したのだ!」
アルノーはベルセフォネへ指を突きつける。
「衛兵! この女を捕らえろ!」
「お待ちください」
ベルセフォネは静かに手を差し出した。
「殿下。その罪状書を拝見しても?」
「なぜだ」
「わたくしを殺人犯として捕らえるのであれば、必要です」
アルノーは警戒しながら、紙束を渡した。
ベルセフォネは1枚ずつ目を通す。
時刻。
場所。
証人。
実に細かく記されていた。
午後7時5分、東階段。
午後7時25分、温室。
午後7時35分、控室。
午後7時45分、庭園。
午後7時50分、中庭の噴水。
ベルセフォネは顔を上げた。
「殿下」
「なんだ」
「断罪はあとにしてくださいませ」
「命乞いか?」
「いいえ」
ベルセフォネは罪状書を軽く持ち上げた。
「その罪状、わたくしのアリバイになっております」
アルノーが口を開けた。
「……何?」
「学院長が殺害されたのは、午後7時40分から午後8時の間」
ベルセフォネは罪状書の一文を指でなぞった。
「ですが、わたくしは午後7時35分に控室で聖女様の髪飾りを壊し、午後7時45分には庭園で聖女様の進路を妨害し、午後7時50分には噴水へ突き落としたのでしょう?」
「ああ。そのとおりだ!」
「資料室は本館の西端。庭園から往復するだけで20分ほど必要です」
ベルセフォネは微笑んだ。
「殿下の主張が正しいのであれば、わたくしに学院長を殺す時間はございません」
広間がどよめいた。
アルノーの顔から勝ち誇った色が消える。
「庭園から走ったのだ!」
「夜会用の靴で?」
「馬を使えばよい!」
「学院内を馬で?」
「抜け道がある!」
「ご存じでしたら、教えていただけます?」
「それは……」
アルノーは言葉に詰まった。
エドガールが一歩前へ出た。
「罪状の時刻には、多少のずれがあるかもしれません」
「それでは、証言の信用性が失われますわね」
「数分の誤差だ」
「午後7時35分から午後7時50分まで、短い間隔で罪状が並んでおります」
ベルセフォネは紙束をめくった。
「どれを事実とし、どれを誤差といたしましょう?」
エドガールは黙った。
「ひとまず、学院長殺害の捜査を優先すべきです」
ベルセフォネは警備の騎士を見る。
「今夜、学院内にいる者を外へ出さないでください。厨房や庭園の使用人も含め、全員です」
アルノーが眉をひそめる。
「なぜ貴様が命令する」
「殿下がなさらないので」
「私がする! 全員を学院内に留めよ!」
騎士はベルセフォネを一度見てから、アルノーへ頭を下げた。
「承知いたしました」
ベルセフォネはリリアーヌを振り返る。
「あなたは着替えてきなさい」
「ルセ様は?」
「現場を確認します」
「私も行きます」
「濡れたまま?」
「着替えてから行きます」
「では、急いで」
「はい!」
リリアーヌは侍女に連れられ、大広間を出ていった。
アルノーが不満そうに言う。
「なぜリリアーヌまで捜査に加える」
「被害者とされる本人ですもの。殿下の罪状が正しいか確認するためにも、必要な証人ですわ」
「殺人事件とは関係がない」
「今、わたくしを両方の犯人にしたのは殿下です」
アルノーは再び黙った。
資料室は本館3階の西端にあった。
扉は破壊され、床へ倒れている。
部屋の中央では、学院長バティスト・デュランが机に伏していた。
左胸には、銀色の柄を持つ細い刃物が深く刺さっている。
机の上には書類が散らばり、インク壺が倒れていた。
床へ落ちた置き時計は、午後7時47分を指して止まっている。
ベルセフォネは部屋の入口で立ち止まった。
「誰か、遺体や室内のものに触れましたか?」
警備騎士が答える。
「脈を確認した医師だけです。それ以外は触れておりません」
「扉を破る前、鍵は?」
「内側の錠が下りていました」
「この扉は、閉めれば自動で錠が下りる型では?」
老齢の事務官が驚いて顔を上げた。
「よくご存じで」
「昨年、書庫で閉じ込められましたから」
ベルセフォネは壊れた扉の錠を見る。
「外から鍵がかけられないのではなく、外へ出たあと勝手にかかる。密室ではありません」
アルノーが言う。
「では、犯人は扉から逃げたのか」
「その可能性が高いでしょう」
「いや」
エドガールが室内を覗き込んだ。
「北側の窓の留め金が外れていたのなら、そこから逃げたのではないか?」
ベルセフォネは彼を見た。
「北側の窓の留め金?」
「ああ。北側には蔦がある。窓を開け、そこから中庭へ下りたのだろう」
部屋には東西と北側に、合計3つの窓がある。
今いる場所からは、机と書棚が邪魔になり、北側の窓の下半分は見えない。
ベルセフォネは何も言わず、室内へ入った。
北側の窓は閉まっていた。
ただし、内側の留め金だけが外されている。
窓枠には細く埃が積もり、外側の蔦も雨に濡れたまま乱れていない。
「誰も窓から出てはいませんわね」
ベルセフォネは言った。
「埃に手をついた跡も、蔦を踏んだ跡もございません」
エドガールが肩をすくめる。
「ならば、扉から出たのだろう」
「そうでしょうね」
ベルセフォネはそれ以上追及せず、机へ近づいた。
学院長の右手は、何かを握り締めるように丸まっている。
左手の指先には、黒い煤がついていた。
暖炉には、燃えかけた紙が残っている。
ベルセフォネは騎士に火ばさみを持ってこさせ、焦げた紙を取り出した。
ほとんどが灰になっている。
しかし、下部の数行だけは読めた。
学院特別奨学金。
支出先不明。
ヴェルネ家管理口座。
その文字を見た瞬間、エドガールの表情がわずかに強張った。
ベルセフォネは紙を騎士へ渡した。
次に、床へ落ちた時計を見る。
「この時計が止まった時刻を、そのまま死亡時刻とは考えないほうがよろしいでしょう」
医師がうなずいた。
「落ちた衝撃で止まったようです。争った際に落ちた可能性もありますが、あとから落とされた可能性もあります」
「凶器は?」
「学院長の机に置かれていた、封書用の短剣かと」
ベルセフォネは短剣を見つめた。
柄の装飾部分に、黒い繊維が引っかかっている。
夜会用の礼装に使われる、艶のある黒布だった。
大広間にいた男子生徒の多くが、同じような黒い上着を着ている。
これだけでは絞れない。
「ルセ様!」
廊下から明るい声が響いた。
着替えを終えたリリアーヌが駆けてくる。
今度は淡い黄色のドレスを着ていた。
その後ろを侍女が必死に追っている。
「走ってはいけません」
「急いでって言ったのはルセ様です」
「転ばない範囲で、という意味です」
「言葉が足りません」
「申し訳ございません」
アルノーが驚いた顔をする。
ベルセフォネが素直に謝るのを、初めて見たらしい。
リリアーヌは資料室の入口から中を覗き、顔を曇らせた。
「学院長先生、本当に亡くなったんですね」
「ええ」
ベルセフォネはリリアーヌの前へ立ち、遺体が直接見えないようにした。
「いくつか確認いたします。今夜、最初にわたくしと会ったのは何時です?」
「午後7時頃です。厨房で焼き菓子を食べました」
「食べた数は?」
「4つです」
「それは必要ございません」
「さっき話していたので」
「では、続けます。そのあと、どこへ?」
「東階段を通って温室へ行きました。管理人さんに苺をもらいました」
「階段から落ちました?」
「落ちていません」
「温室へ閉じ込められました?」
「閉じ込められていません。ルセ様が扉を押さえていてくれました」
「そのあと?」
「控室でルセ様に髪を直してもらいました」
「髪飾りは壊しました?」
「壊れていたのを直してくれました」
アルノーが口を挟む。
「リリアーヌ! 貴様はベルセフォネを恐れて――」
「殿下、今は黙っていてください」
リリアーヌは真顔で言った。
アルノーが固まる。
「ルセ様が質問しています」
「……続けろ」
ベルセフォネはわずかに口元を緩めた。
「午後7時40分頃、わたくしたちはどこに?」
「控室です。仕立て師さんがルセ様の袖を直していました」
「午後7時50分は?」
リリアーヌは首を傾げた。
「まだ控室だったと思います」
「噴水へ落ちたのは?」
「鐘が8回鳴ったあとです」
夜会では午後8時になると、学院の鐘が8回鳴る。
「どのくらいあとです?」
「少ししてからです。噴水が青く光って、きれいだなと思って近づいたら滑りました」
「噴水が青くなったあとですね」
「はい。ルセ様が、舌が青くなる飴みたいだと言っていました」
ベルセフォネは庭園管理を担当する事務官を見る。
「噴水へ染料を入れた時刻は?」
「午後8時ちょうどです。鐘を合図に、庭師が青い染料を投入しました。夜会の演出として、午後8時から10分間だけ色をつける予定でした」
「間違いありませんか?」
「庭師が4名で作業しております。記録もございます」
ベルセフォネはアルノーから受け取った罪状書を開いた。
「こちらには、午後7時50分にわたくしがリリアーヌ様を噴水へ突き落としたとあります」
リリアーヌが罪状書を覗き込む。
「でも、落ちたときには噴水が青かったです」
「ええ。あなたの白いドレスも、青く染まっておりました」
「なぜ時刻が違うんでしょう?」
ベルセフォネはエドガールを見た。
「この件の目撃者は、ヴェルネ侯爵令息です」
全員の視線がエドガールへ向く。
彼は落ち着いた声で答えた。
「時刻を見間違えたのだろう」
「先ほどは、数分の誤差とおっしゃいました」
「10分程度ならば、あり得る」
「午後7時50分と午後8時過ぎでは、10分以上違いますわ」
「夜会の最中だ。正確な時刻など覚えていない」
「では、なぜ罪状書には午後7時50分と明記されているのです?」
エドガールは答えなかった。
ベルセフォネは紙束を広げた。
「こちらの証言書は、全部で8通ございます。署名は別々ですが、本文はすべて同じ筆跡です」
アルノーが紙を覗き込む。
「証言を読みやすく清書したのだ」
「誰が?」
「エドガールだ」
「やはり」
ベルセフォネは1枚を指した。
「どの証言にも、『この目でしかと見届けた』という表現が使われています。午後7時5分の階段、午後7時25分の温室、午後7時35分の控室、午後7時45分の庭園」
紙を1枚ずつ重ねる。
「証人が違うのに、句読点の位置まで同じです」
リリアーヌが感心したように言った。
「仲良しなんですね」
「そういう問題ではありません」
「同じ言葉を使うくらい仲良しなのかと」
「証言を書いた人物が同じなのです」
「ああ。悪い意味の仲良し」
エドガールが鼻で笑った。
「証言者の話を私が整理した。それだけだ」
「整理しただけなら、なぜ事実と違う時刻を記したのでしょう」
「聖女の記憶違いだ」
「噴水の染料も?」
「それは……」
「午後8時以前、噴水は無色でした。ですが、リリアーヌ様が落ちたときには青かった。ドレスそのものが証拠です」
ベルセフォネは騎士へ命じた。
「リリアーヌ様が先ほど着ていたドレスを、誰にも触れさせず保管してください」
「承知しました」
「それから、控室にいた仕立て師を呼んでください。午後7時40分から午後8時頃まで、わたくしがそこにいたことを確認できるはずです」
アルノーがベルセフォネを見る。
「では、貴様には学院長を殺せないというのか」
「少なくとも、午後7時47分にこの部屋で学院長を刺し、午後7時50分に噴水へ移動することは不可能です」
「その時刻に学院長が死んだとは限らない」
「おっしゃるとおりです」
ベルセフォネはあっさりとうなずいた。
「だからこそ、止まった時計だけではなく、別のものを見ます」
「別のもの?」
「学院長が、なぜ殺されたのかです」
ベルセフォネは暖炉から回収した紙を指した。
「これは学院特別奨学金の監査報告でしょう。ヴェルネ家が管理する口座へ、不自然な送金が行われていた」
エドガールの顔から、かすかに血の気が引いた。
「ただの書き損じだ」
「なぜ、あなたがそう断定できるのです?」
「紙に書かれている」
「見えるのは、支出先不明と管理口座という文字だけです。書き損じだとは書かれていません」
エドガールは唇を結んだ。
ベルセフォネは続ける。
「学院長は今夜、この監査報告を王国監査院へ提出する予定だったのでは?」
事務官が顔を上げた。
「そういえば、学院長は午後8時30分に、ロシュフォール公爵へ書類をお渡しすると……」
アルノーが驚く。
「ロシュフォール公爵に?」
「父は王国監査院の責任者です」
ベルセフォネは答えた。
「学院長は、不正の証拠を父へ渡そうとしていた。困る人物は、提出前に学院長を殺し、報告書を燃やす必要があった」
「だからといって、私が犯人とは限らない!」
エドガールの声が初めて荒くなった。
「ええ。そのとおりです」
ベルセフォネは冷静に答えた。
「動機だけでは犯人と断定できません」
エドガールがわずかに安堵する。
「ですが、あなたはご自分のアリバイを作るため、午後7時50分に噴水前にいたことにした」
「違う!」
「あなたは聖女様が噴水へ落ちた姿を見て、それを利用したのでしょう。実際に落ちたのは午後8時過ぎ。しかし、午後7時50分に見たことにすれば、学院長が殺された時間に自分は中庭にいたことになる」
「憶測だ!」
「では、もう一つ」
ベルセフォネは北側の窓を示した。
「先ほど、あなたは『北側の窓の留め金が外れていたのなら、そこから逃げたのではないか』とおっしゃいました」
「それがどうした」
「警備騎士が大広間で報告したのは、扉に内側から鍵がかかっていたことだけです」
ベルセフォネは窓へ近づいた。
「窓については、何も申し上げておりません」
エドガールの喉が動いた。
「資料室には北側の窓がある。逃げるなら、そこだと思っただけだ」
「窓があることは、ご存じでもよいでしょう」
ベルセフォネは外れている留め金を指した。
「ですが、留め金が外れていることまで、なぜご存じなのです?」
「見えたのだ」
「入口からは書棚と机に遮られ、留め金は見えません。わたくしも室内へ入って、初めて確認しました」
エドガールは口を閉ざした。
「現場を確認する前から、北窓の留め金が外れていると知っていた」
ベルセフォネは彼を見据えた。
「それを知るのは、留め金を外した人物だけです」
「違う。私は――」
「しかも、窓から誰かが逃げた痕跡はございません」
窓枠には埃が積もり、外側の蔦も雨に濡れたまま乱れていない。
「犯人は窓から逃げたのではなく、窓から逃げたように見せようとした」
ベルセフォネは壊された扉へ目を向けた。
「そのあと、普通に扉から退出したのでしょう。扉が閉まると自動で施錠されることを知らず、結果として密室ができあがった」
「私が学院の扉の仕組みを知らないとでも?」
「少なくとも昨年、書庫でわたくしが閉じ込められた際、あなたは笑っておられましたわね」
「それが何だ!」
「そのとき、わたくしが扉の仕組みを説明しても、あなたは最後まで理解しておられませんでした」
廊下に集まっていた生徒の一人が、思わず吹き出した。
エドガールが睨む。
ベルセフォネは机へ戻った。
「そして、学院長の左手には煤がついています。報告書を燃やそうとしたのは学院長ではありません。刺されたあと、燃えかけた紙を消そうとして暖炉へ手を伸ばしたのでしょう」
医師が学院長の腕を確認する。
「傷を負ったあとも、わずかな時間は動けたはずです」
「右手には何かを握り込んでいます」
騎士が慎重に学院長の指を開いた。
中から、小さな銀色の飾りが落ちた。
月桂樹をかたどった留め具だった。
エドガールの礼装の襟元から、片方だけが失われている。
リリアーヌが声を上げた。
「あ」
全員がエドガールの襟を見る。
左右にあるはずの銀の留め具が、右側にしかない。
エドガールは反射的に左襟を押さえた。
「これは……先ほど落としたのだ」
「どちらで?」
「大広間だ」
「では、なぜ学院長が握っているのでしょう」
「誰かが置いた!」
「誰が?」
「ベルセフォネだ!」
「わたくしがこの部屋へ入るまで、学院長の手は閉じておりました。医師と警備騎士が確認しています」
ベルセフォネは一歩、エドガールへ近づいた。
「午後7時30分、学院長が資料室へ入る」
もう一歩。
「あなたはそのあとを追い、不正送金の報告書を渡すよう迫った」
もう一歩。
「学院長が拒否したため、机にあった短剣で刺した」
エドガールが後退する。
「報告書を暖炉へ投げ、窓の留め金を外し、扉から出た」
背中が壁へぶつかった。
「その際、学院長に襟の留め具を引きちぎられたことには気づかなかった」
「黙れ」
「午後8時過ぎに中庭へ戻ると、噴水へ落ちた聖女様を見つけた」
「黙れ!」
「そこで、聖女様を突き落とした犯人をわたくしに仕立て、自分は午後7時50分から中庭にいたことにした」
「黙れと言っている!」
エドガールが廊下へ向かって身を翻した。
だが、扉を塞いでいた騎士が、その肩をつかむ。
「どちらへ行かれるのです?」
「離せ! 私はヴェルネ侯爵家の嫡男だぞ!」
「学院長殺害の容疑者でもあります」
騎士がエドガールの両腕を押さえる。
リリアーヌはベルセフォネの背中へ隠れた。
「ルセ様」
「大丈夫です」
「ルセ様の後ろ、あまり隠れられません」
「わたくしのせいではございません」
「ドレスが細いので」
「今、その話をいたします?」
エドガールは騎士に押さえつけられながら、アルノーを見た。
「殿下! 私は殿下のためにやったのです!」
アルノーが後ずさる。
「私のため?」
「この女を排除しなければ、殿下は一生ロシュフォール家の言いなりです! 聖女を妃に迎え、我々の手で新しい国を作るはずだった!」
「我々?」
「殿下もおっしゃったではありませんか! ベルセフォネさえいなければ自由になれると!」
廊下に集まった者たちが、アルノーを見る。
アルノーの顔が青ざめた。
「違う。私は、そこまでしろとは……」
「殿下」
ベルセフォネは静かに呼んだ。
アルノーが肩を震わせる。
「何だ」
「その話は、学院長殺害の取り調べで詳しくなさればよろしいでしょう」
「私は関係ない!」
「今のところ、殺人への関与を示す証拠はございません」
アルノーは安堵した。
「ただし」
ベルセフォネは罪状書を持ち上げる。
「虚偽の証言を用い、王国監査院責任者の娘を公衆の面前で犯罪者として断罪しようとした件については、別です」
アルノーの安堵は一瞬で消えた。
エドガールは騎士によって連行された。
資料室に残ったのは、ベルセフォネ、リリアーヌ、アルノー、数名の騎士と事務官だけになった。
リリアーヌはベルセフォネの腕へ抱きつく。
「さすがルセ様です!」
「まだ終わっておりません」
「犯人、捕まりましたよ?」
「わたくしの断罪が残っておりますわ」
アルノーが気まずそうに罪状書を見る。
階段から突き落とした。
温室へ閉じ込めた。
髪飾りを壊した。
進路を妨害した。
噴水へ突き落とした。
どれも、エドガールが時刻を整え、証言を書き直したものだった。
「その……」
アルノーは咳払いをした。
「今回の断罪については、エドガールに欺かれていた部分もある」
ベルセフォネは黙って続きを待つ。
「ゆえに、婚約破棄は取り消す」
リリアーヌが目を丸くした。
「なぜです?」
アルノーも目を丸くする。
「なぜとは?」
「ルセ様を大勢の前で悪人扱いして、殺人犯だと言って、衛兵に捕らえさせようとしたんですよね」
「それは誤解だった」
「殿下が誤解したら、ルセ様は婚約を続けないといけないんですか?」
「私は王太子だぞ」
「知っています」
「ならば――」
ベルセフォネが片手を上げ、2人の会話を止めた。
「殿下」
「何だ」
「殺人事件より理解に苦しむ結論ですわ」
「何?」
「殿下からの婚約破棄は、虚偽の罪状に基づくものでした。よって、その宣言自体は無効となるでしょう」
アルノーの顔に、わずかに希望が戻る。
「そうだ。ならば婚約は継続――」
「ですが、わたくしから婚約解消を申し立てます」
希望が消えた。
「なぜだ!」
「理由が必要ですか?」
「当然だ!」
ベルセフォネは罪状書をアルノーへ返した。
「証拠を確認せず、側近の言葉だけを信じ、婚約者を公衆の面前で断罪した」
1枚ずつ、アルノーの胸元へ重ねていく。
「本人へ事実確認をしなかった」
もう1枚。
「被害者とされた聖女様の言葉も聞かなかった」
もう1枚。
「殺人事件が起きれば、根拠なく婚約者を犯人と決めつけた」
最後の1枚を置く。
「これ以上、何を申し上げれば?」
アルノーは紙束を抱えたまま、言葉を失った。
リリアーヌがベルセフォネの腕を引く。
「では、ルセ様は自由になったんですね」
「正式な手続きはこれからです」
「でも、婚約はなくなるんですよね」
「おそらく」
「では、私と一緒にいられますね!」
「これまでも一緒にいたでしょう」
「もっとです」
「どの程度?」
「毎日です」
「それは多すぎます」
「では、週に6日」
「ほぼ毎日ですわ」
「5日」
「交渉の刻み方が細かいです」
リリアーヌはベルセフォネの腕へ頬を寄せた。
「ルセ様」
「何です?」
「お腹が空きました」
ベルセフォネはため息をついた。
「厨房に焼き菓子が残っているはずです」
「行きましょう」
「学院長が殺害されたばかりですわよ」
「でも、捜査が終わるまで外へ出てはいけないんですよね」
「そうです」
「なら、学院内で食べるしかありません」
「妙なところだけ論理的ですわね」
2人が資料室を出ようとすると、アルノーが弱々しく呼び止めた。
「ベルセフォネ」
彼女は振り返った。
「婚約の件を、もう一度話し合えないだろうか」
ベルセフォネは少し考える。
そして、穏やかに微笑んだ。
「断罪はあとにしてくださいませ、殿下」
「何?」
「まずは、ご自分の罪状をご確認ください」
アルノーの腕の中で、分厚い紙束が崩れ落ちた。
ベルセフォネはそれを拾わなかった。
リリアーヌと腕を組み、厨房へ向かう。
背後では、王太子が自分で用意した罪状書に埋もれていた。
今度こそ、それは誰かのアリバイではなかった。
断罪ものに推理ものを混ぜてみました。
相手が用意した罪状を、そのまま自分のアリバイに使う悪役令嬢です。
ベルセフォネとリリアーヌは、特別な理由があって仲良くなったわけではなく、ただ単にウマが合います。
公爵令嬢として、聖女として、お互いに妙に構えなくていいところも気に入っているようです。
断罪会場で殺人事件まで起きたのに、2人はわりといつもどおりでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




