十弐月壱日 日曜日 顕現
「……啓人さん。啓人さん」
誰かに、名前を呼ばれていた。最初は、夢の続きだと思った。
意識の底で、柔らかい声だけが反響している。
ゆっくりと瞼を開けると、視界に入ったのは、こちらを覗き込み、穏やかに微笑んでいる灯さんの顔だった。
「おはようございます」
その一言で、ようやく現実に引き戻される。
「……おはよう、ございます……」
声が、掠れていた。喉が渇いている。身体が重い。
それなのに、不快感はなく、むしろ――満ちている。
「今日は、大事な日なんです」
灯さんは、俺の反応を確かめるように、間を置いてから言った。
「月初めですから、皆さんに、啓人さんをご紹介したいと思って」
――月初め。
その言葉を頭の中で反芻して、ようやく、違和感に気づく。
(……月、初め……?)
記憶を辿ろうとするが、そこにあるのは、断片的な映像だけだった。
「……今日、十二月一日……ですか?」
恐る恐る尋ねると、灯さんは、静かに頷いた。
「はい」
その瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。
……三日間。ただ、食べて、眠って、欲求のままに灯さんと交わり続けた三日間。
他には、何も考えていなかった。
それを――恐ろしいと思わなかった自分に、少しだけ驚く。
「準備、しましょうか」
灯さんの声に促され、身体を起こす。
シャワールームへ向かい、鏡の前に立った瞬間、思わず息を呑んだ。
(……俺……?)
肩のラインが違う。胸板が厚い。腕に、以前にはなかった張りがある。
明らかに、身体つきが変わっていた。
視線を落とすと、そこにも変化があった。自分の分身が、以前より一回り、たくましくなっている。
灯さんは、その変化を当然のように受け止めていた。
「……いい身体になりましたね」
そう言って、確かめるように腕を、胸を、背中を撫でてくる。
「三日間、きちんと学習をしましたから」
その言葉の意味を考える前に、温かいシャワーが降り注ぐ。
灯さんの手が、俺の身体を確かめるようになぞり、下へと移っていく。
拒む理由は、どこにもなかった。
◇ ◆ ◇
身支度を整え、本部へ向かう。この前、通された部屋とは違う方向へ案内される。
大きな扉の前で、灯さんが一度だけ、こちらを見た。
「緊張、してますか?」
「……少しだけ」
正直に答えると、灯さんは小さく笑った。
「大丈夫です。もう、準備はできていますから」
扉が開く。
――音が、なかった。ざわめきも、囁きもない。
ただ、張り詰めた空気だけが、肌に触れる。
(……人、多……)
一瞬、息をするのを忘れる。
百人は、優に超えているが、誰一人として声を発さない。
全員が、同じ姿勢で、視線を向けていた。
その中には、見覚えのある顔がいくつもあった。
テレビで見た芸能人。ニュースに出てくる政治家。雑誌で目にした文化人。
向こう側にいるはずの人間たちが、こちらを見て、待っている。
その沈黙は、ざわめきよりもずっと重かった。
灯さんが、一歩前に出る。
「皆さん、おはようございます」
その声を合図に、空気が微かに震える。
「本日は、私たちの新しい指導者をご紹介します」
そして、迷いなく言い切った。
「伊原 啓人様です」
一斉に、視線が集まるが、不思議と怖くはなかった。緊張はあるが、拒絶感はない。
ここに立つことは、自然な流れだった。
「一言、お願いできますか」
促され、壇上に上がる。
視線の海。期待。渇望。救いを求めるような眼差し。
喉が鳴った。
けれど――言葉は、自然に溢れ出た。
「……俺は、ずっと思ってました。人は、終わりがあるからこそ、何かを求めるんだって」
誰も、口を挟まない。
「愛も、時間も、命も……永遠じゃない。だから、欲しいと思う。触れたいと思う。繋がりたいと思う」
自分でも驚くほど、迷いがなかった。
「それを、悪いことだって……誰が決めたんでしょうか」
誰かが、息を呑む音が聞こえた。
「終わりがあるから、今を選ぶ。求める。生きる」
視線が、さらに熱を帯びていく。
「……俺は、そう思います」
言い切った瞬間、拍手ではない反応が広がった。震える肩。涙。祈るように手を組む者。
(……悪くないな)
胸の奥で、そんな感情が芽生える。
◇ ◆ ◇
昼食後、灯さんが静かに告げた。
「この後ですが……私だけでなく、啓人さまに愛を注いでほしい方々がいます」
そう言って、数人の女性が紹介される。
誰もが美しかった。整った顔立ち。磨かれた身体。
その中には、ドラマや映画に引っ張りだこの、女優の顔があった。
(……現実、だよな……)
灯さんが、俺を見て、ゆっくり微笑む。
「これまでの成果を、見せてあげてください」
胸の奥が、熱を持つ。戸惑いは、もうなかった。
「全員、そこに並べ」
俺は一歩、前に出る。
――選ばれたのではない。俺が、選んだのだ。
この場所を。この役割を。そして、その責任すらも。
灯さんに教えられたすべてを、今度は、俺が伝える番だった。




