十一月二拾漆日 水曜日 指導
目を覚ましたとき、まず最初に浮かんだのは――今日も朝がきた、という、あまりにも当たり前すぎる感想だった。
天井を見つめながら、ゆっくりと呼吸を整える。
体の奥に、熱が残っていたが、疲労というより、燃え残った火種のような、鈍く続く感覚だ。
隣では、灯さんが静かに眠っていた。
長い髪は少し乱れ、シーツの上に落ちた影が、妙に生々しい。
寝顔は穏やかで、昨夜までの出来事が嘘のようにも見えた。
(……昨夜も、結局……)
思い出しかけて、途中でやめる。思い返す必要なんてない。
体が、全部覚えている。
起き上がると、灯さんもほとんど同時に身じろぎする。
言葉を交わさなくても、自然な流れで一緒にシャワールームへ向かった。
湯気が立ちこめる中、温かいお湯が背中を伝い、肩を流れ、そこに、灯さんの気配が重なる。
距離が近いが、もう違和感はなかった。
(……薬の影響とはいえ、本当に俺の体、どうなってるんだろうな)
考えるよりも先に、体が反応してしまう自分に、内心で苦笑する。
以前の俺なら、きっと戸惑っていたはずだ。
でも――不思議と、違和感はなかった。
ここにいると、欲することそのものが悪ではないと、自然に思えてしまう。
求め、触れ、確かめ合うことが、肯定されているような感覚。
そう感じながらも、その境界線は、日に日に薄くなっている気がした。
◇ ◆ ◇
朝食の箸を進めていると、灯さんが一度手を止め、穏やかな声で語りかける。
「今日はですね、啓人さんに、少しだけ本部の方へ行ってもらおうと思います」
「……本部、ですか?」
思わず聞き返すと、灯さんは、ゆっくりと頷いた。
「はい。ほかの人に、自分の言葉を伝える練習です」
心臓が、わずかに跳ねる。
(……俺の、言葉を?)
「物語を作るときに一番大事なのは、『何を書くか』ではありません。『どう伝わるか』です。受け手が、何を感じ取るか」
なるほど、と頭では理解でき、頷きながらも、正直少し怖かった。
匿名の掲示板とは違う。顔があり、感情があり、反応が返ってくる場所で、自分の言葉を投げるということがだ。
「大丈夫ですよ」
灯さんは、安心させるように微笑んだ。
「今日は練習です。失敗しても大丈夫です。啓人さんは、まだ学ぶ側なんですから」
その言葉に、胸の奥の緊張が、ほんの少しだけ和らいだ。
◇ ◆ ◇
初めて、離れを出て本部へ向かう。同じ敷地内なのに、空気が違う。
案内された部屋に足を踏み入れると、そこには大きなモニターと、五人の男女が座っていた。
「おはようございます」
一斉に頭を下げられ、思わず背筋が伸びる。
「こちらが、今日ご一緒する方々です」
灯さんの紹介を受け、俺もぎこちなく頭を下げ、席に着いた。
「今日は、終円会が制作に関わった映画を一本観ていただきます」
灯さんは淡々と続ける。
「その後で、啓人さんに解説をお願いしたいと思います。正解はありません。感じたことを、そのまま言葉にしてください」
照明が落ち、映画が始まった。
――物語は、一人の女性の人生だった。
彼女は結婚し、愛し合い、幸せな日々を過ごすが、一年以内に必ず、夫と死別する。
原因は様々だった。病気、事故、事件。
あまりにも繰り返される死に、世間は彼女を疑い始める。
呪われているのではないか。保険金目当てなのではないかと。
それでも彼女は、愛を否定しない。別れの痛みを知りながら、また誰かと出会い、結婚する。
そして最後には、こんな思いをするくらいならと――同じ道を選ぶ。
九十分が、驚くほどあっという間に過ぎた。
照明が戻り、灯さんがこちらを見る。
「では、啓人さん。何を感じましたか?」
一瞬、言葉に詰まる。
胸の奥には感情が渦巻いているのに、整理が追いつかない。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。
「……最初は、残酷な話だと思いました」
静かな部屋で、俺の声だけが響く。
「何度も失うって、怖いし、普通なら避けたくなる」
一度、息を整えてから続ける。
「でも……途中から、思ったんです。彼女は、本当に不幸なんだろうかって」
五人の表情が、少しずつ変わっていく。
「愛が終わるから、次を探すんじゃない。愛した時間が、彼女の中に残って、続いているから、また誰かを愛せるんじゃないかって」
言葉が、自然と溢れていた。
「終わりは、否定じゃない。終わるからこそ、次がある。それを、怖がらなくていい――そんな物語だと思いました」
静寂の後、誰かが嗚咽を漏らした。涙を拭う人がいる。肩を震わせ、興奮したように呼吸を乱す人もいた。
「……素晴らしいです」
灯さんが、心からそう言った。
「想像以上でした」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(……俺の言葉で、こんな反応が)
怖さと、誇らしさが、同時に押し寄せてきた。
◇ ◆ ◇
離れに戻り、昼食を終えると、灯さんが妖艶に語り掛ける。
「では、今度は実技です」
「……実技?」
「はい、あっちの方です」
意味ありげな言い方に、喉が鳴る。
「今までは、私が主導でしたが……」
そう言って、ゆっくり距離を詰めてくる。
「そろそろ、啓人さんから喜びを与えてみてください」
心臓が、激しく脈打つ。
「どういう動きをすれば、女性がどう感じるのか。どこを責めれば、女性が喜ぶのかを……」
耳元で、囁かれる。
「私を、満足させてくださいね」
(……これは、頑張らないとなぁ)
逃げ道は、もうなかったし、逃げたいとも、思わなかった。
俺は、この場所で、何かを学び始めている。
それが、なんなのかは――まだ、わからない。
それでも今は、変わりたいと願った自分と、そんな自分を信じて導いてくれる灯さんを、裏切るつもりはなかった。




