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安価で俺の人生変わった件について。  作者: ドラドラ
安価で俺の人生変えたかっただけだった

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21/22

十一月十三日 水曜日② 人参

 スマホの画面を見つめながら、俺は深く息を吐いた。


 申し込み完了。


 たったそれだけの言葉なのに、胸の奥にずしりと重く沈む。

 画面越しの文字が、まるで現実そのものになって、こちらを押し返してくる感覚だった。


 今週の土曜日に開催される街コン。


 自分で選んだわけじゃない。安価で決まった。

 掲示板の流れの中で、半ば冗談みたいに決まり、半ば勢いで背中を押されただけだ。

 それでも――申し込みボタンを押したのは、他でもない俺自身だ。


 スマホを伏せ、天井を見上げる。

 見慣れた白い天井。染みも、ヒビも、何一つ変わっていない。


 正直に言えば、まだ実感は薄い。

 胸が苦しくなるほどの恐怖も、逃げ出したくなるほどの緊張も、今はない。


 どこか他人事だ。


 未来の自分が行く場所で、未来の自分が何とかする。

 そんな、ワンクッション挟まった感覚。


 けれど、分かっている。

 逃げ場は、確実に減っている。


 土曜日はやって来る。


 気を紛らわすように、掲示板に戻り、服装の安価結果を確認した。


 ◇   ◆   ◇


 175:名前:名無しの使い魔

 清潔感あるシャツとジャケット


 ◇   ◆   ◇


(……正直、助かった)


 心の底から、そう思った。


 銀髪にした時点で、俺はすでに十分すぎるほど目立つ存在だ。

 ここで服装まで奇抜だったら、完全に事故だった。


 ヴァンパイアだの、白スーツだの、あり得た未来を想像して、背筋が寒くなる。


 清潔感。なんてありがたい言葉だろう。


 派手じゃない。面白くもない。

 でも、だからこそ、今の俺にはちょうどいい。


 俺は、画面に向かって小さく頭を下げた。


(ありがとう、名も知らぬ誰か)


 本気でそう思った。


 金曜の仕事終わりに、服を買いに行こう。

 シャツとジャケット。

 難しく考えなくていい。自分で選ばなくてもいい。店員に聞けば、何とかなる。


 そうやって予定を立てるだけで、少しだけ現実が整理された気がした。


 ◇   ◆   ◇


 それからしばらく、他愛もないレスが続く。


 冷やかし。冗談。無責任な応援。


 画面を眺めていると、その中に、気になる書き込みがあった。


 軽い安価でいこう。


 その一言に、ふっと肩の力が抜けた。


 そうだ。全部が全部、重たい決断である必要はない。

 人生を左右する選択ばかりじゃ、息が詰まる。

 たまには、どうでもいいことを、どうでもよく決めたっていい。


(こういうスレで、安価と言えば――)


 頭に浮かぶのは、あれしかなかった。


 俺は指を動かす。


 ◇   ◆   ◇


 203:名前:30歳の魔法使い

 じゃあ明日作るカレーの材料三つ


 204:名前:30歳の魔法使い

 肉は欲しい


 >>214 215 216


 ◇   ◆   ◇


 投稿した瞬間、胸の奥が少し軽くなる。


 カレー。


 銀髪だの、街コンだの、服装だの。

 そういう大きな話題から、一段階降りた感じがする。


 明日の自分の夕飯。それくらいのスケールが、今はちょうどいい。


 更新ボタンを押す。


 どんな具材が来るだろうか。


 じゃがいも。玉ねぎ。なす。

 意外と無難なところに落ち着くかもしれない。

 どんな具材が来ても、カレーなら何とでもなる。


 そんなことを考えながら、何度か更新する。


 ◇   ◆   ◇


 214:名前:名無しの使い魔

 人。


 ◇   ◆   ◇


 一瞬、思考が止まった。


 (……人?)


 目を疑って、もう一度読む。


 人。


 スマホを持つ手が固まる。


(やめろ。やめてくれ!)


 心臓が一気に跳ね上がる。


 冗談だと分かっている。

 分かっているが、よりにもよってこの流れでそれを投げてくるのか。


 慌てて次のレスを見る。


 ◇   ◆   ◇


 215:名前:名無しの使い魔

 人参


 ◇   ◆   ◇


(……あっ、そうか。焦りすぎて、途中で送信したんだな)


 脳内で、勝手に納得する。


 そして、追い打ちのように三つ目が表示される。


 ◇   ◆   ◇


 216:名前:名無しの使い魔

 ブロッコリー


 ◇   ◆   ◇


 俺は、思わず吹き出しそうになった。


 人。

 人参。

 ブロッコリー。


 完全に事故だ。


 でも、スレの流れは意外なほど穏やかだった。


 ◇   ◆   ◇


 221:名前:名無しの使い魔

 人ってなんだよ


 222:名前:名無しの使い魔

 さすがにアウト


 223:名前:名無しの使い魔

 人参の誤爆だよな

 そうだと言ってくれ


 224:名前:名無しの使い魔

 そういうことにしとけ


 ◇   ◆   ◇


 胸を撫で下ろす。


(よかった。ちゃんと人参として処理できる)


 俺は補足のレスを打ち込む。


 ◇   ◆   ◇


 228:名前:30歳の魔法使い

 人はニンジンでいいよね?

 ニンジン、ニンジン、ブロッコリー


 ◇   ◆   ◇


 肯定のレスが、いくつも流れる。

 この雑な優しさが、今はありがたい。


 スマホを置き、部屋を見回す。


 いつものワンルーム。変わらない景色。


 それでも、明日は少し違う。


 いつものコンビニではなく、ちょっと遠回りしてスーパーに寄る。

 カレールーと、人参と、ブロッコリー。


 そんな些細な予定が、なぜか少し楽しみだった。


 銀髪にして、街コンに申し込んで、カレーの具材を安価で決める。


 客観的に見れば、相変わらず意味の分からない行動だ。

 三十歳の独身男がやることとして、正解ではないだろう。


 でも、こうして一つずつ、決まっていく。


 大きな変化じゃない。

 劇的な展開でもない。


 ただ、昨日とは違う明日が、少しずつ積み重なっている。


 俺はもう一度、スマホを手に取る。


 掲示板の流れを眺めながら、ふと思う。


 土曜日の俺は、どんな顔をしているんだろう。


 銀色の髪のまま、シャツとジャケットを着て、知らない場所で、知らない人たちの中に立っている。


 怖い。正直、かなり怖い。


 それでも――


 カレーの具材を考えながら、そんなことを思っている自分に、少しだけ笑ってしまった。


(俺は、前に進んでいる。たぶん、きっと)


 スマホの画面を閉じ、明日の買い物リストを頭の中で整理しながら、静かに息を吐いた。

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