十一月十三日 水曜日② 人参
スマホの画面を見つめながら、俺は深く息を吐いた。
申し込み完了。
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥にずしりと重く沈む。
画面越しの文字が、まるで現実そのものになって、こちらを押し返してくる感覚だった。
今週の土曜日に開催される街コン。
自分で選んだわけじゃない。安価で決まった。
掲示板の流れの中で、半ば冗談みたいに決まり、半ば勢いで背中を押されただけだ。
それでも――申し込みボタンを押したのは、他でもない俺自身だ。
スマホを伏せ、天井を見上げる。
見慣れた白い天井。染みも、ヒビも、何一つ変わっていない。
正直に言えば、まだ実感は薄い。
胸が苦しくなるほどの恐怖も、逃げ出したくなるほどの緊張も、今はない。
どこか他人事だ。
未来の自分が行く場所で、未来の自分が何とかする。
そんな、ワンクッション挟まった感覚。
けれど、分かっている。
逃げ場は、確実に減っている。
土曜日はやって来る。
気を紛らわすように、掲示板に戻り、服装の安価結果を確認した。
◇ ◆ ◇
175:名前:名無しの使い魔
清潔感あるシャツとジャケット
◇ ◆ ◇
(……正直、助かった)
心の底から、そう思った。
銀髪にした時点で、俺はすでに十分すぎるほど目立つ存在だ。
ここで服装まで奇抜だったら、完全に事故だった。
ヴァンパイアだの、白スーツだの、あり得た未来を想像して、背筋が寒くなる。
清潔感。なんてありがたい言葉だろう。
派手じゃない。面白くもない。
でも、だからこそ、今の俺にはちょうどいい。
俺は、画面に向かって小さく頭を下げた。
(ありがとう、名も知らぬ誰か)
本気でそう思った。
金曜の仕事終わりに、服を買いに行こう。
シャツとジャケット。
難しく考えなくていい。自分で選ばなくてもいい。店員に聞けば、何とかなる。
そうやって予定を立てるだけで、少しだけ現実が整理された気がした。
◇ ◆ ◇
それからしばらく、他愛もないレスが続く。
冷やかし。冗談。無責任な応援。
画面を眺めていると、その中に、気になる書き込みがあった。
軽い安価でいこう。
その一言に、ふっと肩の力が抜けた。
そうだ。全部が全部、重たい決断である必要はない。
人生を左右する選択ばかりじゃ、息が詰まる。
たまには、どうでもいいことを、どうでもよく決めたっていい。
(こういうスレで、安価と言えば――)
頭に浮かぶのは、あれしかなかった。
俺は指を動かす。
◇ ◆ ◇
203:名前:30歳の魔法使い
じゃあ明日作るカレーの材料三つ
204:名前:30歳の魔法使い
肉は欲しい
>>214 215 216
◇ ◆ ◇
投稿した瞬間、胸の奥が少し軽くなる。
カレー。
銀髪だの、街コンだの、服装だの。
そういう大きな話題から、一段階降りた感じがする。
明日の自分の夕飯。それくらいのスケールが、今はちょうどいい。
更新ボタンを押す。
どんな具材が来るだろうか。
じゃがいも。玉ねぎ。なす。
意外と無難なところに落ち着くかもしれない。
どんな具材が来ても、カレーなら何とでもなる。
そんなことを考えながら、何度か更新する。
◇ ◆ ◇
214:名前:名無しの使い魔
人。
◇ ◆ ◇
一瞬、思考が止まった。
(……人?)
目を疑って、もう一度読む。
人。
スマホを持つ手が固まる。
(やめろ。やめてくれ!)
心臓が一気に跳ね上がる。
冗談だと分かっている。
分かっているが、よりにもよってこの流れでそれを投げてくるのか。
慌てて次のレスを見る。
◇ ◆ ◇
215:名前:名無しの使い魔
人参
◇ ◆ ◇
(……あっ、そうか。焦りすぎて、途中で送信したんだな)
脳内で、勝手に納得する。
そして、追い打ちのように三つ目が表示される。
◇ ◆ ◇
216:名前:名無しの使い魔
ブロッコリー
◇ ◆ ◇
俺は、思わず吹き出しそうになった。
人。
人参。
ブロッコリー。
完全に事故だ。
でも、スレの流れは意外なほど穏やかだった。
◇ ◆ ◇
221:名前:名無しの使い魔
人ってなんだよ
222:名前:名無しの使い魔
さすがにアウト
223:名前:名無しの使い魔
人参の誤爆だよな
そうだと言ってくれ
224:名前:名無しの使い魔
そういうことにしとけ
◇ ◆ ◇
胸を撫で下ろす。
(よかった。ちゃんと人参として処理できる)
俺は補足のレスを打ち込む。
◇ ◆ ◇
228:名前:30歳の魔法使い
人はニンジンでいいよね?
ニンジン、ニンジン、ブロッコリー
◇ ◆ ◇
肯定のレスが、いくつも流れる。
この雑な優しさが、今はありがたい。
スマホを置き、部屋を見回す。
いつものワンルーム。変わらない景色。
それでも、明日は少し違う。
いつものコンビニではなく、ちょっと遠回りしてスーパーに寄る。
カレールーと、人参と、ブロッコリー。
そんな些細な予定が、なぜか少し楽しみだった。
銀髪にして、街コンに申し込んで、カレーの具材を安価で決める。
客観的に見れば、相変わらず意味の分からない行動だ。
三十歳の独身男がやることとして、正解ではないだろう。
でも、こうして一つずつ、決まっていく。
大きな変化じゃない。
劇的な展開でもない。
ただ、昨日とは違う明日が、少しずつ積み重なっている。
俺はもう一度、スマホを手に取る。
掲示板の流れを眺めながら、ふと思う。
土曜日の俺は、どんな顔をしているんだろう。
銀色の髪のまま、シャツとジャケットを着て、知らない場所で、知らない人たちの中に立っている。
怖い。正直、かなり怖い。
それでも――
カレーの具材を考えながら、そんなことを思っている自分に、少しだけ笑ってしまった。
(俺は、前に進んでいる。たぶん、きっと)
スマホの画面を閉じ、明日の買い物リストを頭の中で整理しながら、静かに息を吐いた。




