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安価で俺の人生変わった件について。  作者: ドラドラ
安価で俺の人生変えたかっただけだった

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19/22

十一月十二日 火曜日 銀色

 スマホの画面に表示された時刻を、何度目か分からないほど確認する。


 指でスワイプしても、時間が進むわけじゃないのに、無意味な動作を繰り返してしまう。


(まだ、早い)


 分かっている。分かっているのに、胸の奥が落ち着かない。


 朝一の予約。

 俺は必要以上に早く家を出て、恵比寿駅から歩いて数分の場所にある美容院の前に立っていた。


 途中で何度も立ち止まり、引き返そうかと考えた。

 それでも、足はここまで来てしまった。


 ガラス張りの外観。コンクリート打ちっぱなしの壁。控えめなのに、やけに洗練された看板。

 中がうっすらと見えていて、白と木目を基調にした空間が、朝の光を柔らかく反射している。

 外にいる俺とは、明らかに空気の質が違った。


(……場違いだ)


 それが、最初に浮かんだ感想だった。


 ここは、本当に俺なんかが入っていい場所なのか。

 三十歳の溶接工。 黒髪で、床屋でしか髪を切ったことがない男。

 昨日まで、髪を染めるなんて発想すらなかった。


 そんな俺が、銀色に染めるために来る場所じゃない。


 店の前で立ち止まったまま、逃げ道を探すように視線をさまよわせる。

 通り過ぎていく人たちは、皆、当たり前のようにこの街に溶け込んでいる。


 その中に、俺はいない。


 今からでも、帰れる。予約をすっぽかして、スマホの電源を切ってしまえばいい。

 スレには、何か適当な言い訳を書けばいい。


 やっぱり無理でした。勇気が出ませんでした。


 そう書けば、それで終わる。


 銀。


 昨夜、画面に表示されたあの一文字が、頭の奥に残って離れない。


(逃げないと、決めたばかりだろ。たった一日も経っていないのに)


 俺は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 肺の奥に溜まっていた何かを、無理やり外に出すように。


 ガラス越しに見える店内に、人の動きがある。

 そして――扉が、開いた。


「いらっしゃいませ」


 柔らかい声だった。思っていたよりも、ずっと自然で、優しい。

 反射的に、背筋が伸びる。


「ご予約の、伊原様でしょうか」


 一瞬、頭が真っ白になった。

 俺の名前が、ここで呼ばれること自体が、現実感を伴わなかった。


「……そう、です」


 喉が少し掠れたが、どうにか声を出す。


「お待ちしておりました。どうぞ」


 にこやかな笑顔に促され、俺は一歩、足を踏み入れた。


 別世界だった。


 外から見ていた以上に、空間が広く感じられる。 天井が高い。光が柔らかい。

 シャンプーの甘い匂いが鼻をくすぐり、静かな音楽が耳に流れ込んでくる。

 床に反射する照明が、やけに眩しい。


 ここにいるだけで、自分が浮いている気がした。


 案内された席に座る。


 鏡の前に映っているのは、見慣れた自分だった。

 寝癖を整えただけの黒髪。緊張で少し強張った表情。


「本日は、カットとカラーでお間違いないでしょうか」


 担当らしい男性スタッフが、カルテを見ながら確認する。


「はい」


「カラーは……シルバーで、お任せ、ですね」


 その言葉を聞いた瞬間、胸が小さく跳ねた。

 改めて口にされると、現実味が増す。


「大丈夫ですか」


 確認するように、視線を向けられる。


 一瞬、喉が詰まる。

 でも、ここまで来た。


「はい。お願いします」


「ありがとうございます。ちなみに、髪を染めるのは初めてですか」


「……そうです」


 正直に答えると、少し驚いたように笑った。


「そうなんですね。では、銀色に合う髪型で、全体のバランスを見ながら進めますね」


「はい……お願いします」


 それだけで、もう逃げ道はなかった。


 椅子が倒され、シャンプー台に頭を預けると、視界が天井に変わった。


 温かいお湯が、髪を濡らし、泡立つシャンプーの感触が、頭皮を包む。


(……落ち着く)


 不思議なことに、少しずつ緊張がほどけていく。

 身を委ねてしまえば、あとは流されるだけだ。


 ツンとした匂いが鼻をかすめるが、嫌じゃない。


 途中、何度も鏡を見る。

 鏡の中の髪は、想像以上に白くなっていく。


(これ、本当に大丈夫なのか)


 不安と期待が、ぐちゃぐちゃに混ざる。


 カットが始まり、髪が床に落ちる。

 ドライヤーの音が、現実を少しずつ遠ざける。


「……終わりました」


 その一言で、現実に引き戻された。


 椅子が元に戻り、鏡が真正面に来る。


 俺は、反射的に息を止めた。


 そこにいたのは、俺じゃなかった。


 銀色。

 光を反射して、冷たくも柔らかくも見える髪。

 顔立ちは同じはずなのに、印象がまるで違う。


 どこか、覚悟を決めた人間の顔をしている。


「……これが、俺?」


 思わず、声が漏れる。


「すごくお似合いですよ」


 担当の人が、はっきりとそう言った。


「そう、ですか」


 自分では、まだ実感が湧かない。

 でも、目が離せなかった。


「どうして、染めようと思ったんですか」


 何気ない質問。

 なのに、胸の奥を突かれた。


「……自分を、変えたくて」


 それだけだった。

 飾る言葉も、理由も、他にない。


「素敵ですね」


 即答だった。


「よろしければ、写真お撮りしましょうか?」


 一瞬迷って、頷く。


 シャッター音が、数回鳴る。


 ◇   ◆   ◇


 店を出た瞬間、景色が変わった気がした。


 実際に変わったわけじゃない。街も、人も、何一つ同じだ。


 でも、視線が気になる。すれ違う人の目が、やけに刺さる。


 見られていると思うだけで、心臓が早鐘はやがねを打つ。


 俺は足早に駅へ向かい、電車に乗り、家へ帰った。


 ◇   ◆   ◇


 部屋に戻り、ようやく落ち着き、鏡を見る。


 やっぱり、銀だ。


 俺はスマホを手に取り、掲示板に染めてきたと打ち込む。


 すぐに、レスが増え始める。


 信じてない。


 分かっていた。

 だから、店員に撮ってもらった写真を、顔をぼかして貼る。


 それでも、疑いは消えない。


 俺は、紙に自分のIDを書き、それと一緒に自撮りをする。

 銀髪の自分が、画面に映る。


 貼り付けた瞬間、レスが爆発した。


 画面が流れていく。


 その中に、目に留まるレスがあった。


 ◇   ◆   ◇


 81:名前:名無しの使い魔

 ありがとうご主人様。


 83:名前:名無しの使い魔

 ご主人様、明日も待ってるぞ


 ◇   ◆   ◇


(……ご主人様)


 その響きに、思わず笑ってしまった。


(馬鹿みたいだ。でも、悪くないな)


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 なんだか、うまくいきそうな気がした。


 根拠なんて、何もない。

 でも、それでいい。


 今日は、確かに違う一日だった。


 俺は、画面を見つめながら、次の更新を待つ。


 明日も、待っている。


 そんな気がした。

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