十一月十一日 月曜日② 安価
スマホの画面を見つめたまま、俺はしばらく指を動かせずにいた。
送信したばかりのスレッドタイトルが、やけに主張してくる。
【安価で俺の人生変えたい件について】
勢いで立てたとはいえ、冷静になって眺めると、あまりにも無防備だ。
人生、なんて大げさな言葉を使っておいて、中身は何もない。
それなのに、もう取り消せないところまで来てしまった。
ワンルームの部屋は静かだった。
冷蔵庫の低い唸り声と、換気扇の回りきらない音だけが、やけに現実を主張している。
さっきまで気にならなかったはずの沈黙が、今は妙に重たい。
まずは自己紹介だろうと思って、俺はスマホのキーボードを叩き始める。
年齢。見た目。職業。趣味。
淡々と、事実だけを並べていく。
文字にして並べてみると、ひどく簡素で、ひどく貧相だ。
誇れる要素も、笑いに変えられる武器もない。
人生のステータス画面があるとしたら、すべてが初期値のまま、三十年放置されている感じがする。
それでも、送信する。
画面に自分の書き込みが反映された瞬間、心臓が一度だけ、どくりと鳴った。
別に誰かに殴られたわけでもないのに、胸の奥が妙に痛む。
反応は、すぐには来なかった。
俺は缶ビールを手に取り、残りを一気に飲み干す。
アルコールが喉を焼く感覚はあるのに、味はあまり感じなかった。
苦さも、さっきほどではない。
誰も来なかったらどうしよう。
スルーされたら、やっぱりやめよう。
そんな弱気な考えが浮かぶたびに、更新ボタンを押す。
理由もなく、何度も。
そして、数回目の更新で、画面に新しい文字が表示された。
胸が、わずかに跳ねる。
来た。
俺は短くレスを書き込む。
本気。
たった二文字。
それだけなのに、指先に変な力が入った。
(本気だ。逃げない。今度こそ)
何をすればいいか、安価を取る。
最初だから、できれば簡単なものを。
そんな都合のいい願いを抱きながら。
◇ ◆ ◇
15:名前:名無しの使い魔
美容院行け
床屋じゃなくてな
◇ ◆ ◇
一瞬、拍子抜けした。
もっとひどいことを言われるか、ネタにされるか、無視されるか。
それに比べれば、あまりにも現実的で、まともな安価だった。
思わず、息を吐く。
(なんだよ。普通じゃん)
心のどこかで、安堵している自分がいた。
一発目にして、地獄みたいな選択肢を投げられなかったことに。
画面の向こうで、誰が書き込んでいるのかは分からない。
学生かもしれないし、俺より年上の社会人かもしれない。
もしかしたら、俺と同じように、何も変えられずにいる誰かかもしれない。
でも、その正体不明の誰かが、俺の人生に口を出してきた。
それだけで、現実がほんの少しだけ、動いた気がした。
生まれてこの方、美容院なんて行ったことがない。
俺が通っていたのは、近所の床屋だ。
椅子に座って、いつもので、と言えば通じる場所。
それで十分だった。
いや、十分だと思い込んでいた。
だが美容院となると話は別だ。
おしゃれな空間。分からない専門用語。
考えただけで胃が少し痛くなる。
だが、これが安価だ。
俺が選んだわけじゃない。
誰かに選ばれた。
だから、行く。
更新ボタンを押すと、また新しいレスが増えていた。
◇ ◆ ◇
27:名前:名無しの使い魔
どうせなら髪色も変えろ
安価で決めようぜ
◇ ◆ ◇
それを見た瞬間、思わず笑ってしまった。
(これだよ、これ!)
無責任で、軽くて、完全に他人事。
でも、だからこそ、俺はこのスレを立てた。
自分一人だったら、絶対に選ばない。
いや、選べない。
だから、髪色を安価に任せる。
更新。
更新。
更新。
くだらないレスが増えていく。
関係ない雑談。
煽りとも取れる一言。
それでも、不思議と嫌じゃなかった。
誰かが見ている。誰かが反応している。
俺の人生を、暇つぶしに眺めている。
それだけで、今日は少し違う日になっていた。
そして、決定的なレスが表示される。
◇ ◆ ◇
35:名前:名無しの使い魔
銀。
◇ ◆ ◇
一瞬、意味が分からなかった。
「おい、ふざけんなよ……」
思わずスマホに向かって呟く。
(銀髪? アイドルか、コスプレか。三十歳の溶接工だぞ、俺は。他人事だと思って、適当言いやがって)
苛立ちと、情けなさが、一気に込み上げてくる。
スマホを投げそうになり、寸前で止める。
(何かを変えるために、始めたんじゃないか。逃げないって、決めたばかりだろ。嫌だから、怖いから、恥ずかしいから。そうやって目の前の選択から逃げ続けた結果が、今の俺じゃないか)
三十歳。童貞。割引ケーキ。
(ここで逃げたら、また同じだ!)
俺は検索画面を開く。
【東京都 美容院 評判 男 初心者】
出てきた候補の中から、少しだけ背伸びをした場所を選ぶ。
恵比寿。
自分とは縁がなさそうな街。
指が震えながら、予約画面を開く。
明日は、有給だ。仕事が暇だから取っておけと言われた、有給。
カラー、カットという入力欄に、銀、お任せと打ち込み、確認ボタンを押す。
予約完了の文字が表示された瞬間、全身から力が抜けた。
(やっちまった)
でも同時に、胸の奥に、得体の知れない高揚感があった。
怖い。
恥ずかしい。
後悔するかもしれない。
それでも。それでもだ。
俺は、逃げなかった。
画面の向こうで、誰かが笑っているかもしれない。
面白がっているだけかもしれない。
それでもいい。
その瞬間、胸の奥が、少しだけ軽くなった。
十一月十一日。
俺の三十歳の誕生日は、こうして、安価と一緒に転がり始め、終わりを迎える。




