十一月十一日 月曜日① 誕生日
目覚ましの音が、容赦なく部屋に鳴り響いた。
安っぽい電子音が、狭いワンルームの壁に反射して、やけに大きく感じられる。
俺は布団の中で顔をしかめ、無意識に枕を頭に押し付けた。
(止まれ。もう少しだけ、静かにしてくれ)
そう願ったところで、目覚ましが忖度してくれるはずもない。
結局、俺は諦めたように手を伸ばし、スマホの画面を叩いた。
音が止む。
部屋に残ったのは、冷えた空気と、現実だけだった。
上体を起こし、ぼんやりとした頭でスマホの画面を見る。
表示された日付が、妙にくっきりと目に入った。
十一月十一日。
そうか。今日は――俺、伊原 啓人の三十歳の誕生日だ。
胸が高鳴ることはなかった。
あるのは、胸の奥に沈殿した、薄く冷たい何かだけだった。
三十歳まで童貞だと魔法使いになれる。
ネットで何度も見かけた、あまりにもくだらない都市伝説。
学生の頃は、友達と笑いながら話したものだ。
そんな未来、自分には関係ない。
だが今、俺は三十歳で、童貞だ。
(……念のため、試してみるか)
ベッドの上に胡坐をかき、俺は右手を前に突き出した。
頭の中で、炎のイメージを必死に描く。
「……炎よ」
炎が右手から出るイメージをしながら呪文を唱えてみる。
呟く声は、自分でも情けないほど小さかった。
当然、何も起きない。指先に熱を感じることも、空気が揺らぐこともない。
知っていた。分かっていた。
それでも、ほんの一瞬だけ、期待してしまった自分がいた。
次だ。
「ステータス、オープン」
よくある異世界アニメの定番ネタだ。
視界に半透明のウィンドウが開き、レベルやスキルが表示される。
そんな都合のいい展開を、頭の片隅で思い描く。
だが、世界は静かなままだ。現実は、俺に何もくれない。
最後に、テーブルの上に置いたコップを見つめる。視線を一点に集中させ、念じる。
(動け!)
コップは、微動だにしなかった。
俺は大きく息を吐いた。肺の奥に溜まっていた空気を、全部吐き出すように。
(あほらしい……三十歳の朝に、魔法ごっこ。これ以上ないほど、みじめだ……)
布団から出て、洗面所へ向かう。冷たい床の感触が、足裏から伝わってくる。
鏡に映った自分の顔は、昨日と何も変わらない。
寝癖のついた黒髪。少し疲れた目元。特徴のない、どこにでもいそうな男。
特別な何かが始まる気配なんて、どこにもなかった。
いつも通りの朝。
俺の人生は、今日も何事もなく続いていく。
◇ ◆ ◇
アパートを出て、自転車に跨る。
十一月の朝の空気は、もう冷たい。
職場までは自転車で十分。見慣れた道、見慣れた景色。
鉄工所の大きなシャッターが見えてくると、自然と気持ちが仕事用に切り替わる。
俺の働いている鉄工所は、従業員が五十人ほどいる中規模の会社だ。溶接工として、俺はもう八年ここで働いている。
気づけば、人生の約四分の一以上を、ここで過ごしていた。
特別に好きな仕事ではないが、嫌いでもない。
向いているのかどうかも、正直よく分からない。
ただ、続けられている。それだけだ。
タイムカードを押しに、事務所に入ると、すぐに声がかかった。
「あら、けいちゃん。おはよう」
経理のおばちゃんだ。ここで働く唯一の女性従業員で、みんなから母親みたいに扱われている人。
「おはようございます」
「そういえば今日、誕生日よね」
よく覚えているな、と思いながら頷く。
「三十歳でしょ。ほい、飴ちゃん」
差し出された飴玉を受け取り、俺は少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
それだけで、十分だった。
誰かが覚えていてくれる。それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
作業場に入り、溶接の準備をする。火花が散り、金属の焼ける匂いが鼻を突く。
この匂いは、嫌いじゃない。仕事中は、余計なことを考えなくて済む。
忙しい日もあるが、最近はそうでもなかった。昼過ぎには作業が一段落し、手持ち無沙汰な時間が増える。
残業して稼ぎたいと思っても、仕事がなければどうしようもない。
最近は定時で帰る日がほとんどだ。
定時が近づいた頃、先輩の信さんが声をかけてきた。
「おう、啓人。今日誕生日だってな」
「はい」
「三十か。大台だな」
「無駄に年を取っただけですよ」
冗談のつもりだったが、信先輩は少しだけ顔をしかめた。
「辛気臭いな。風俗でも奢ってやろうか」
信先輩が笑いながら言う。
「いえ、遠慮しときます」
「こんな業界だし、こっちから動かないと彼女なんかできないぞ。結婚はいいぞ。マジで」
(分かっている。そんなの、言われなくても、分かっている)
だからこそ、何も言えなかった。
そのまま定時になり、タイムカードを切り、「お疲れ様でした」と挨拶をして、俺は職場を後にした。
帰り道、いつものコンビニに立ち寄る。
弁当とビールを手に取り、レジへ向かう途中で、ふと目に留まった。
割引シールの貼られた、小さなケーキ。
誕生日だから、という理由だけで、俺はそれを手に取った。
アパートに戻り、テレビをつけたまま、弁当を食べる。ビールを一口飲み、喉を鳴らす。
静かな部屋。誰もいない。
食後にケーキを、一口食べる。
甘い。
それだけだった。
(……俺の人生、これでいいのかな)
三十歳になれば、結婚して、子供がいて、そんな当たり前の未来が来ると思っていた。
そんなことは、なかった。
割引シールの貼られたケーキを選んだのも、売れ残りに自分を重ねたからかもしれない。
むなしくなって、視線を落とす。
そのとき、机の上に置いてあった漫画が目に入った。
モブな高校生が、このままじゃいけないと一念発起し、ネットの安価で行動を決めた結果、高校生活が変わっていく話。
最近、アニメも放映開始されたばかりのヒット作だ。
俺は表紙を眺めながら、思う。
(ああいうのって、現実でも起こるのかな。誰かに選ばれて、誰かに背中を押されて。そうだったら、少しは楽なのに)
スマホを手に取り、ネット掲示板を開く。
指が、自然と動いていた。
【安価で俺の人生変えたい件について】
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が、少しだけざわついた。
冗談半分、不安半分。
でも確かに、俺はそのとき、何かが変わることを期待していた。
十一月十一日。
俺の三十歳の誕生日は、こうして始まった。




