1.焔の夜
よろしくお願いします!!
ーーそれは、ごく普通の一日だった。
青く澄んだ空の下、小さな村に朝が訪れる。
野鳥がさえずり、草の葉には朝露が光り、井戸端では女たちの笑い声が響いている。
リーナ・ファルメリアは、野ばらの咲く丘を駆け下りながら、籠の中の薬草が揺れるのを見つめていた。
「今日もいい天気……」
顔を上げた彼女の瞳は、深く澄んだ青。まだ幼さは残しているが、村の誰もが振り返るほど整った顔立ちに、肩まで届く淡い金髪が風に揺れている。
この村で生まれ育った十四歳のリーナは、かつて家族と共に静かに暮らしていた。だが、すでに父も母もいない。十年前ーーあの夜に、黒い魔物によって、すべてを焼き尽くされた。
「リーナ、おかえり」
家の前で、祖父が優しく笑った。彼だけが、彼女に残されたたった一人の家族だ。
リーナは笑顔を返す。けれど心の奥には、消えることのない黒い影が残っている。何もかもを奪った、炎の夜の記憶が。
◇◇◇
その日も変わらぬ夕暮れが訪れ、村の広場はにぎやかだった。
焚き火の周りには人々が集まり、干し肉と麦酒を手に笑い合う。子どもたちの笑い声が夜空へ溶けていく。
リーナは、祖父の好物の山菜を求めて露店を回っていた。微笑みを浮かべながらも、心のどこかがざわめいていた。
何か、胸騒ぎがする。違和感が押し寄せていた。
ーーそして、それは現実となる。
風が止んだ。犬が一斉に吠え始め、どこからか重く濁った唸り声が響いた。
「なに……?」
人々が騒ぎ始めた刹那、地鳴りのような咆哮が広場を震わせた。
それは、突然だった。
黒い霧のようなものが広場を覆い、その中心から異形の魔物が姿を現した。
全身を漆黒の鱗で覆い、角が突き出した頭部、鋭い爪、赤く爛れたような両目。黒い魔物ーーかつてリーナの家族を殺した、あの存在と酷似していた。
「逃げろ!! 魔物だ!!」
誰かの叫びが、場の空気を裂いた。
人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。リーナは動けなかった。頭が真っ白になり、視界が霞む。
あの夜と同じ。何もかもが、ーー壊れていく。
そしてーー
「グォォォオオオアアアア!!」
黒い魔物が口を開き、喉の奥に赤い光が宿った。
「ーーっ、炎……!」
次の瞬間、漆黒の業火が吐き出された。
それは炎というにはあまりにも禍々しく、空気すら焼き潰すほどの熱を帯びていた。
焚き火ではない。
希望をもたらす暖かさではない。
それは、滅びそのものだった。
木造の家々は一瞬で火に包まれ、地面には火の粉が降り注ぐ。広場にいた人々は燃え、叫び、崩れ落ちた。
「おじいちゃん!!」
リーナは必死に家へと走る。だが、目にしたのはーー炎に包まれ、倒れた祖父の姿。
「う……うそ……いや、いやだ……!」
叫んだ声も届かない。
魔物はその視線を、リーナに向けていた。
焦げた大地を踏みしめ、ゆっくりと近づいてくる。
涙も出なかった。
恐怖すら感じない。
ただ、脳裏に焼き付いたのは、家族を、村を、すべてを焼き払うその黒い瞳。
そのときだったーー。
「退け」
鋭い声が空気を裂いた。
背後から現れたのは、一人の男だった。
黒いコートに覆われた身体、背には大柄な体躯を越すほどの特大剣、この辺りでは珍しい黒髪に、目は冷たい蒼。
ーー冒険者だ。
「貴様の遊びはここまでだ、化け物」
彼は剣を抜き、一瞬で魔物へと駆けた。
重く響く斬撃の音、衝突、火花が散る。
魔物は唸り声をあげ、応戦する。
だが冒険者は怯まなかった。
すれ違いざまに斬りつけ、血飛沫を散らす。
リーナは立ち尽くしたまま、ただ見ていた。
彼の背は、まるで世界の終わりに立ち向かう盾のようだった。
魔物は再び口を開き、炎を吐こうとする。だがそのとき、男の剣が銀の光を描きーー
「吠えるな、獣風情が!」
一閃。風圧がここまで届こうかというような一撃が魔物の角を砕き、その隙に男は叫ぶ。
「今すぐ逃げろ、小娘!!」
その声に、リーナはやっと体を動かす。倒れた祖父に近づくが、彼はすでに……
「ごめんね……」
リーナはその手を握り、涙を堪えて立ち上がった。
◇◇◇
やがて、魔物は大地を蹴って森の奥へと逃げていった。
冒険者はそれを追わず、剣を収めると、ゆっくりとリーナの前を通り過ぎた。
「どうして……助けてくれたのに、行っちゃうの……」
彼は立ち止まることなく、ただ一言だけを残した。
「次はないと思え」
そして闇へと消えた。
その背中が焼きついたまま、リーナは炎の残る広場に立ち尽くしていた。
全てを焼き払ったあの夜。家族を奪ったあの炎。そしてーーあの背中。
彼女の中に、一つの灯がともった。
ーー私は、見ているだけじゃいけない。
この手で、奪われたものを取り返すために。
ありがとうございました!!