anthem dedicated to all living creatures
よろしくお願いします。
少年は水族館へ来ていた。といっても、別にデートだとか、自由研究の為に来たのではない。時刻は昼の12時。彼の「仕事」には、まだ早すぎる時間だった。
雲丹の如く尖った頭、黒い服に季節外れのマフラー。
彼の名は『恵己野 一』。体は小さいが、彼はれっきとした妖術を扱う 『差し伸べる者』(セーバー)である。彼は任務を果たすべく、この地に足を運んでいた。
「…出ねぇ」
彼はスマートフォンを耳に当てながら、苛立ちを示すように足をぱたぱたと鳴らした。
「おーっす」
電話が繋がる。彼の元保護者でもあり、今は上司である女だ。
「ほんとにこんな早く来る必要あった?」
「そりゃ必要でしょうよ〜」
「…まぁ確かに下見は必要だけどさ、もっと遅くて良かったんじゃないのか?今日は見たい番組があったんだけど…」
「ばかたれ、情緒磨け情緒!じゃ!」
電話が切られる。少年は溜息をつきながら、スマホの電源を落とした。
「ま、確かに久しぶりだしな…じっくり見て、あとの時間は寝よう」
イルカのコーナーへ来た。『妖力』の匂いがしたからだ。
妖力。近年発見され、それと同時に一部の生物だけに宿ったエネルギー。その生成原理は脳に関係していると言われているが…教えられても恵己野には理解が出来なかった。
一部の生物とはいっても、人間はほぼ全ての個体がそれを有している。自覚出来るか、それを扱えるかが分岐点であるだけの話。しかしテロや犯罪を防ぐ為、妖力を自覚しない者たちには、その力は秘匿されている。それは権力者も例外ではない。
そこでは飼育員がイルカに餌をやっていた。その中でも大き目な奴が餌をすぐに取ってしまうので、飼育員の女も困り顔だった。
しかし、違うな、と恵己野は思った。何故なら、より強い妖力の気配がしていたからだ。それがここまで来ているのだろう。恵己野はその発生地へと向かった。
彼が到着したのはラッコのコーナーだった。そこには頭が真っ白になっているラッコが1匹。こいつだ、と彼は思った。強い妖力の匂い。例えるなら生ゴミの入ったゴミ袋に穴をあけた時のような。そんなふうに妖力が溢れていた。
彼は冷静にそれを確認すると、すぐに踵を返した。今は触れる必要が無いからだ。彼が仕事をするのはもう少し後。目の前のこの生物が『変化』した時である。
妖力をもった生物はある時を境に姿を変える。力を求めて異形と化した『凶魔獣』、人間として社会に溶け込む『人化獣』。大まかにこの2つに分けられる。動物園や水族館といった施設に住む生物は後者になりやすい。彼らの目には人間は楽そうに映るのだろう。他人の苦労はわかりにくいものだ。
そのどちらになるかはまだわからない。故に居座っても無駄と判断した恵己野はトイレへ向かった。安全に寝られるのはそこだと考えたのだ。
トイレへ着いた恵己野はマフラーを外し、放り投げた。
「囲繞」
彼がそう唱えると、マフラーは広がり、拡がり、彼を包んだ。その容貌は雲丹そのものだ。こうなったら何も通さない。爆風くらいなら耐えられるので、凶魔獣が暴れても多少は問題ない。
「さて…」
彼は眠りについた。
彼が目を覚ましたのは夜の10時だった。彼がここまで居座れたのには理由がある。不明な妖力の発生地にはセーバーが送られる。そしてその任務をサポートする者も派遣されている。といっても、彼らは戦闘員ではない。上手くその場所の人間を説得、あるいは薬品などによって記憶を消すなどして、情報の漏洩を防ぐのが彼らの仕事である。防護術をかけ、戦闘から建造物や財産となる生物を守るのもその仕事の一つだ。
恵己野が居座れたのもサポーターの事前交渉あってのことであった。
「今、何時だ…」
時計を確認する。
「結構寝たなぁ… でもここも壊されてねーし、音も聞こえない。多分凶魔獣になったわけじゃねぇな。」
マフラーを巻き直し、トイレから出る。月がスポットライトのように彼を照らした。恵己野は先程のラッコの元へ向かった。
到着。水槽は割れていない。
「ってことは、やっぱ凶魔獣じゃなさそうだな」
そう言いながら彼はラッコの方へ目を向けた。
「!?」
彼はそれを見て赤面した。そこには裸の少女が座っていたからだ。
「ちょっ!聞いてねえっ!!」
人化したとはいえ元は動物、それでも思春期の彼には刺激の強い光景。彼は落ち着きを取り戻すべく、深呼吸をした。
「落ち着け、落ち着け…はっ」
少女と目が合った。少女は恵己野を視認すると、途端に顔を赤らめた。人化獣は人間になると同時に、人間の常識をインストールされる。動物の頃に周囲の人間から無意識に常識をコピーしているのだ。それ故に彼女は強い羞恥を覚えた。
その様子に恵己野は慌てた。
「と、とにかく服!!」
用意されていた服を取り出し、少女の前に投げる。
「それ、着てくれ!!」
目を逸らしながら、服を指差す。少女は彼に背を向け、服を着た。布の擦れる音と未だ鳴り止まぬ心臓の鼓動だけが、彼の耳に入っていた。
「着替えたよ」
少女に声をかけられる。気づけば少女は恵己野のすぐ横に来ていた。彼は顔を上げ、彼女の顔を見る。
雪の結晶の如く白く輝く髪、ヘリオライトのようにオレンジ色に煌めく瞳。一見人間に見えるが、残った耳と尾が彼女が人間ではないことを示していた。
(か、可愛い…って、こいつは元々動物だぞ!?俺はケモナーの趣味は無い!!)
煩悩を掻き消すべく、彼はぶんぶんと首を振った。
「あ、そ、そう…その服、気に入った?」
「ださい」
直球の返事。彼の選んだ物では無いとはいえ、なんとなく堪えた。
「そ、そう…」
「でも、これはこれでいい。なんか、面白い。」
一応は気に入ってくれたようだ、と恵己野は一安心した。胸にワカメ?が巻かれているが、彼女的には満足なようだ。
「そ、そうだ。俺、恵己野一。君を保護しにきたんだ。」
「保護?」
「そう。君は今、右も左もわからないだろ?だから助けにきたんだ。」
「嫌。」
ばっさりと断られる。
「い、嫌…?」
困惑極まる様子で恵己野は聞き直した。
「私、自由になる。せっかく出たんだもん。飼育員さんにはもう会えないかもしれないけど…私は人間になったんだし、一人で生きてみたいの。」
彼にとっては完全に予想外の答えだった。このままでは任務が失敗に終わってしまう。情報漏洩の危険もある。何としても彼女は連れ帰らねばならなかった。
しかし無理も無いとも思った。常連客ならまだしも、初対面の人間についていく道理など彼女には無いと考えたからだ。しかし退く訳にはいかない。説得すべく彼が口を開いたその瞬間だった。
──咆哮。
耳を劈く轟音に、二人は咄嗟に耳を塞ぐ。
「なんっ…だこの音っ…!!」
ただの轟音ではなかった。音波。それが彼らを襲っていた。
恵己野は音の鳴る方へ目を向けた。上空に何かが浮かんでいる。
「イルカ…か?」
シルエットはイルカそのもの。だがそれは凄まじく巨大化していた。それは恵己野たちを視認すると、こちらへ一直線に向かってきた。
「速ッ」
イルカが突っ込んでくる。恵己野は咄嗟に少女を抱えながら転がった。防護壁にヒビが入る。
恵己野はすぐに立ち上がり、自分たちを攻撃せんと視線を向ける怪物と向かい合った。
まさに異形。以前の可愛らしい姿は見る影も無く、目は紅く爛々と輝いており、牙も生えている。表面の質感も岩のようにごつごつとしており、色も真っ黒である。かつて幼少期にシャチの骨格を見て想像した怪獣に似ている、と恵己野は思った。
「戦るか」
恵己野は手に妖力を込め、物質を生成した。それは巨大な針。彼の能力は『針を生み出し、操る』ものである。
しかし彼はその力を呪った。針という武器の性質上、必ず相手を傷つけてしまう。彼の仕事にはまるで不向きな能力であった。だが彼は解釈を拡げることで、それを多少軽減している。
「隠れてろ」
少女に命令する。交渉の途中だが話している暇は無い。
「…」
少女は不安気な表情を浮かべながら恵己野の顔を見た。だが構っている暇も無い。
「早く行けッ!!」
彼がそう怒鳴ると、火をつけたように少女は走っていった。
「さて、と…さっさと終わらせるか」
恵己野は『サプリ』を取り出すべく、空いた左手でポケットの中をまさぐった。が、お目当ての物はそこには無い。
「あれっ」
無い。無い。
「やっべぇ〜…」
冷や汗が一気に噴き出る。今日自分は死ぬかもしれない、と恵己野は思った。
一話 『邂逅』完
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