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#10 ジャブしませんか?

 それから六限は何事もなく終わり、放課後がやってきた。部活組は早々に教室を離れ、残る井寄と茂木は、それぞれバイトとデートがあるからと一足先に帰っていった。


(さて、どうしたものか……)


 人影が疎らになり始めた教室で、俺は明海に声をかけるべきか悩む。

 班決めの時、明海は露骨に視線を逸らしていた。昼休みは普通だったのに、五限の間だけで何か怒らせてしまっただろうか。


 たしかに、物思いに耽っていて、まともに話を聞いていなかったという心当たりがある。謝るなら早めのうちに、だ。俺は明海に向き直り、口を開いた。


「明海……五限の時は、その……話をちゃんと聞いてなくてごめん。怒らせたなら、この通りだ」


 俺はそう言って、明海に頭を下げる。ここだけの話、教室から人がいなくなって助かった。陽キャに頭を下げる陰キャなんて構図、目撃でもされたら変な憶測が飛び交うに決まっている。実は女王様でしたならまだしも、いじめだと勘ぐられてしまえば最悪だ。


「私、怒ってないけど」


 頭上の声は、『怒ってない』とはっきり言った。だが、本当なのだろうか。怒っていないのであれば、明海のあの態度は一体なんだったのだろう。


「でも、目が合った時に顔背けたよな」


「背けたけど……別に怒ってたわけじゃ……」


 明海の返答は、今度ははっきりしない。


「本当のことを教えてくれないか? このまま明海と気まずい状態でいるの、俺は嫌なんだ」


「私だって嫌だよ……」と、明海は声を漏らす。そして、小さく息を吐くと、渋々といった様子で呟いた。


「……桃」


「井寄がどうかしたのか?」


 物分かりの悪い俺をじっと睨み、明海は不平を漏らすように言う。


「桃に近づかれて、顔赤くしてた」


「そ、そうかな……」


 口ではそう言ったが、実のところ自覚しかない。というか、あんな可愛い子に迫られて赤面しない男子がいるのか? (茂木と堂島を除く)


「新宮君の彼女は私なのに、今日一日ずっと桃にデレデレだったよね」


「そりゃ、照れくらいするだろ! っていうか、人前では友達として振舞うって話じゃ……」


「そうだけどさ……いいじゃん、嫉妬の一つくらいしても。……彼女なんだし」


 潤んだ瞳で見つめられ、俺は察した。教室にはもう人はいない。つまり、二人っきりの状況ということ。だから明海は、彼女としての顔を見せているのだと。

 この切り替えの早さは、俺も見習うべきところがある。明海に倣うように、俺も意識を切り替えた。


「じゃあ……ハグでもするか?」


「え?」


(何言ってんだ、俺はあああああ!!!!)


 呆気に取られたのは、何も明海だけではない。俺も、自分の口から出た言葉が信じられなかった。

 いくら恋人同士だとはいえ、いきなりそれは攻めすぎなんじゃないか? くそ、どうして恋愛は学校で教えてくれないんだ……!


『彼女とハグする』は、ノートにも書いてあったはずだけど、それにしたってタイミングが悪すぎる。口振りだけで言えば、さっきの俺は百戦錬磨の色男だった。


「ああいや、さすがにハグはないよな! 間違えた間違えた! ほら、ジャブだよジャブ! 彼女以外の女子にデレデレしてた俺に、ジャブを打たないかってこと!」


 苦しい言い訳だっただろうか。大慌てで動かした腕は、何を示そうとしているのか本人にも分からない。

 しかし、俺の弁明を一通り聞いた明海は、開いた口元を引き締めて頷いた。


「ってことは……」


「やらせて」


「……はい」


 口を滑らせた結果、女の子に殴られることになりました。今日、日記を書くとしたらタイトルはこれで決まりだろう。友達ができて、遠足の班にも入れて、他にも色々な出来事があったかもしれない。けれど、標題にするならこれしかないと思った。見返した時、当時の悔恨を思い出すために。


 俺と明海は、向き合うような形で立っている。「やりづらいから立ってくれない?」という要望を受けたのが理由なのだが、明海さん本気すぎませんか? まぁ、提案したのは俺だし、悪いのも俺なんだけど、これで腰なんか入れたらもうジャブじゃなくてストレートになりそうだ。


「顔は……できればやめていただければ……」


「うん、分かってる」


 明海からは、一切の闘志が伝わってこない。その事実が、逆に俺の怖れを加速させていた。

 一流の暗殺者は、殺意を悟らせることがないという。いつ明海の拳が飛んでくるのか、恐怖で俺はまぶたを固く閉ざした。


「じゃあ、いくよ」


 宣言されたことで、俺は余計に歯を食いしばった。だが、直後に訪れた感触は、固い拳のそれではなかった。

 温もり、柔らかさ、心が落ち着くいい香り。いきなりのことで頭が回らなかった俺は、直接確かめようと目を開ける。


「あれ、明海……何して……」


「新宮君が言ったんでしょ、ハグするかって」


「ああ、そうだったな……」


 緊張が解けて、肩の力が抜けた。本来であれば、異性とのハグの方がよっぽど緊張するはずなのに、今だけは側で感じる明海に安心感を抱いていた。

 俺は、自由にしていた両手を明海の背中に回す。


「きゃっ、びっくりした……」


「ほ、ほら、ハグって互いに抱き締めるものだろ……多分」


「そうかもね」


 これで、『彼女とハグをする』は文句なしでクリアだ。他にも、『友達を作る』『食堂で友達と昼を食べる』『あだ名で呼ばれる』『友達に奢ってもらう』『友達と同じグループに入る』――たった二日でこんなに埋まるなんて。


「んふふ、新宮君は私の彼氏なんだから。他の子に目移りしちゃダメだからね」


「分かってる」


 本音を言えば、明日からも井寄の猛攻には動揺すると思う。それに、明海がそれに嫉妬してくれて美味しいとも感じていた。とはいえ、彼氏という立場になる以上、そんな不誠実なことは言えない。井寄とは友達として、明海とは恋人兼友達として付き合っていかなければ。

 たとえお金で繋がる偽の関係だとしても、腕の中のこの温もりは本物だと思えた。

お読みいただき、ありがとうがとうございます。

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