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稼業・悪役令嬢


あっ、と小さく悲鳴が上がって、ハニーブロンドの髪が宙に舞った。


目の前で倒れたのは、ノウェール伯爵家の令嬢、シャルロット・ルーシー・ノウェールだ。

アイリス……アイリス・V・シャルドーと並び、王位継承順位第一位であるルチル王子の有力な婚約者候補である。


「まあ、ごめんなさい。ドレスの裾を踏んでしまいました」


床に手をついたシャルロット嬢を見下ろして、アイリスは『悪役令嬢』にふさわしく冷ややかな眼差しを向けた。


「でもそのように長い裾のドレス、舞踏会にはふさわしくありませんわ。転んだのが私でしたらどうするおつもり?」


異国から取り寄せた総刺繍の扇で口元を隠しつつ、これ見よがしに嘲笑する。


シャルドーは公爵家だ。

伯爵家より身分が高いのをいいことに、その威光を存分に振りかざす。


こちらを見上げたシャルロットの瞳が傷ついたように翳るのを見て──


(ぐ…………!)


アイリスは心に盛大なダメージを負った。


シャルロットは齢14の少女である。

ルチルが15歳、アイリスが18歳なので、婚約者候補として名が上がるのは不自然ではないが……まだまだ幼い。


社交界に出たばかりで勝手も分からず、友も味方も少ない中で恥をかかされるのは辛いだろう。


本当はこんなこと、したくない。


(だけど私は『悪役令嬢』だ)


冷笑を崩さぬまま、アイリスは扇で隠された唇をそっと噛んだ。




──Vの名を持つ者は『ヴィラン』である。


孤児だったアイリスを拾った紳士が最初に教えたのは、風呂の入り方でもテーブルマナーでもなく、与えられたミドルネームが背負う稼業についてだった。


──ヴィランとは『悪役』。未来の王族を鍛えるために用意された障壁である。


蝶よ花よと大切に育てられるばかりでは国を導くことなどできはしない。

辛酸を舐め、策略を巡らせ、汚泥にまみれても這い上がる経験が貴人を育てるのだ。


かといって無闇矢鱈に危険の中に放り込むわけにもいかず、ちょうどいい塩梅で存在する『当て馬』、あるいは『ライバル』、あるいは『仇』の存在が求められた。


その役を担うのが、Vの名を持つ者たちだ。


アイリスにあてがわれたのは、ルチル殿下婚約者候補であるシャルロットの専属『悪役令嬢』。

彼女の障壁となり、鍛えることこそがアイリスの仕事であった。




「シャルロットさま!」


矢のように飛んできて膝をついたのは、シャルロットの側役であるカスミだ。

女性でありながら地味な男性従者の格好をしているのは、主人を引き立てるための慣習である。


シャルロットに手を貸しつつ、カスミがアイリスを睨み上げた。


「わざとドレスを踏むなんて、ひどいです」


「わざと? あら、どこにそんな証拠があって?」


「それは……」


ぎゅ、とカスミが唇を噛む。

忠誠心は厚いが、詰めが甘い。


「アイリスさま」


立ち上がったシャルロットが頬に動揺を残したまま頭を下げる。


「私の側役が公爵令嬢さまに失礼を申しました。お許しください」


はっとしたようにカスミがシャルロットを仰ぎ見た。


側役の無礼は主人の過失だ。

そのことに気がついたようだった。


顔を上げたシャルロットが気丈に微笑む。


「私の至らなさをご指摘くださってありがとうございます。アイリスさまにお怪我がなくて何よりでした」


上出来だ。つたないが大人の対応ができている。

シャルロットの精一杯の対応に、アイリスは心の中で拍手を送った。


「気をつけて」


短く言い残してアイリスはその場を離れた。


必要なだけの注目は集められただろう。

あまり長引かせてアイリスに与する者が出てきても厄介だった。


物陰に隠れてそっとシャルロットの様子を窺う。

と、数人の令嬢がシャルロットに歩み寄るところだった。


「大丈夫ですか?」


「見ておりましたわ。アイリスさまも意地悪をなさって……」


(ローズ嬢。ジャスミン嬢。エニスダ嬢……は確か隣国から帰化したばかりの男爵令嬢だったかしら)


まあ悪くない、とひとり頷く。


曖昧な状況の中、正面きって公爵令嬢に逆らうのはリスクが高い。

しかし衆人の目が残る中、わざわざ寄り添いに行ったのならシャルロットに対してそれなりの好意を抱いたに違いなかった。


(今夜の舞踏会で、シャルロット嬢に新しい味方が増えればいいと思ったけど……)


どうやら結果は上々だ。

あとはシャルロットがこの機を逃さず、令嬢たちと親交を深められるといいのだが。


そんなことを考えていると、ふいに背後から声をかけられた。


「そんなところでどうされました、アイリス嬢」


「!」


上げかけた悲鳴を辛うじて抑える。

瞬時に完璧な笑顔を作って、アイリスは背後を振り返った。


「ごきげんよう、アガット殿下」


夜闇に溶けるような黒い髪、黄金の瞳。

真っ白な近衛騎士団の礼服。


月下の貴人のごとく涼やかに佇んでいたのは、アイリスがこの世で最も苦手とするアガット・オリビア・キースリング王子であった。


アガットは複数いる王子たちの中でも特異な存在だ。


帝王学ではなく武術を仕込まれ、守られる側ではなく守る側として近衛騎士団に身を置いている。


王子たちの継承順位は生まれ順ではなく妃の出自によって移動するが、中でも末席であるアガットの扱いはまるで事実上の廃嫡子のようにも見えた。


「このような隅にいるなど珍しいですね。いつもは御令嬢方の中心にいらっしゃるのに」


暗に取り巻きはどうしたと問われている。


そんなものを引き連れて騒動を起こせば、シャルロットを完膚なきまでに叩きのめしてしまう。

それは望むところではない──とは言えないので、アイリスは別のことを口にした。


「少し人に酔いましたの」


微笑んで、煙に巻く。


「殿下こそ、待ちわびているご婦人方がいらっしゃるのでは? こんなところで時間を潰しては私が恨まれてしまいます」


「ご冗談を」


優麗な笑みを浮かべて、アガットが応じた。


「ご婦人方は私を見ると避けるように遠のいていきますよ」


「それは殿下が怖いお顔をなさっておいでだからですわ」


「これでもにこやかにしているつもりなのですが」


「あら、うふふ」


(目が! 目が笑ってないのよ!)


油断なくこちらを観察する金の瞳にツッコミをいれつつ、アイリスは扇で口元を隠した。


アガットに『金獅子』、『獅子王』の異名がついているのは、ひとえにこの瞳のせいだろう。


実力で騎士団長にまで上り詰めた彼は、捕虜になった敵兵士がその瞳の色をトラウマにするほど恐ろしい形相で戦場を駆け抜けるという。


アイリスもまた、何もかもを見透かそうとするアガットの瞳が苦手だった。


アガットが片手を差し出す。


「よろしければ私がエスコートいたしましょう。ああほら、あちらにシャルロット嬢がいらっしゃいます。同じ婚約者候補どうし、話が合うのでは?」


「まあ……」


反射的に引き攣らなかった自分の表情筋を褒めてあげたい。


これは皮肉だ。


おそらくこの男は、アイリスがシャルロットに行った一部始終を見ていたのだろう。

その上で、反応を窺っている。


(怖い人)


計算された微笑み。慇懃無礼にすら見える丁寧な物腰。

全てが胡散臭くて油断ならない。


検分するような眼差しの中、唇に乗せる言葉を吟味していると、華やかな声が近づいてきた。


「アイリスさま、探しましたわ。こちらにいらしたのですね」


「見てください。名ばかりの侯爵令嬢が同情で人を集めております」


やってきたのはアイリスの取り巻きたちだ。


15歳で社交界に出てから3年。

コツコツと囲い込んできた『反シャルロット派』の令嬢たちである。


名ばかりの云々とはシャルロットのことだろう。

あけすけに悪口を言う令嬢たちに、シャルロットは肩を竦めた。


「みなさま、お静かに。淑女は騒いではなりません。ほら、アガット殿下も驚いてらっしゃる」


「え……まあ、アガット殿下……」


「殿下の前で、失礼を……」


令嬢たちがわずかに頬を染め、頭を下げる。

同時に、怯えたように一歩下がった。


端正な顔立ちのアガットが令嬢たちの間で人気があるのは本当だ。

しかしそれはあくまで『観賞用』としてであり、鋭さを隠せない瞳で見つめられるのを恐れる者は多かった。


視界の端でアガットが皮肉に笑う。


ちょっと意地悪だったかしら、と思いつつ、アイリスは好機とばかりに令嬢たちを促した。


「さあ、あちらへ参りましょう。せっかくの舞踏会です。女ばかりで隅にいてもつまらないでしょう」




***




──逃げられたな。


そそくさと離れていくアイリスを見送っていると、気配を消していた部下が一人、アガットの横に並び立った。


「よろしいのですか」


よく焼けた肌。銀糸に似た髪。

隣国の南部に位置する武闘民族らしく、大柄な体軀を持ったジャスパーだ。


「俺の目には、アイリスさまが故意にシャルロットさまのドレスを踏んだように見えましたが」


真面目一辺倒のこの男は時々融通が効かない。

肩を竦めて、アガットはジャスパーを宥めた。


「『ドレスの下には打算と狡猾さを潜ませるもの』ということわざもあるくらいだ。女性は社交によって家を導く。派閥を作るのも、策略を巡らせるのも、時に誰かを蹴落とすのも彼女たちの仕事だ」


「……ですが、殿下はアイリス嬢を警戒されているように見えます」


「目的が見えないからな」


さらりと言って、アガットは遠目にアイリスを眺めやる。


菫色の長い髪、夜明け色の瞳。

美しく磨き上げた容姿も、淑女としての完璧な振る舞いも努力の賜物だ。


その努力は言うまでもなく、ルチルのおめがねにかなうためだろう。

なのに彼女の動きはどこか不可解だった。


シャルロットを蹴落としたいのかと思えば、供を引き連れて完膚なきまでに叩き潰すことをよしとしない。

恥をかかせたかと思えば、いつの間にかシャルロットに利する結果がもたらされていることもある。


それが意図的なものなのか、それとも偶然が生んだ産物か、アガットは判じかねていた。


「万が一、女性の領分を超えてルチルに害をなすようなら……その時は速やかに粛清する」


冷ややかな熱が胸の内に広がる。

アガットの横で、ジャスパーが胸に拳を当てる追従の姿勢をとった。


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