すずらんの毒
「貴方様について行きます。」
少女とも見紛うほどにあどけない表情の女は、私に三指を突いて深々と頭を下げた。愛おしい・・・、そう心底思った女である。一度は手放そうとした、しかしどうしても手放せなかった女。四十をとうに過ぎているはずだが、そうは見えぬあどけない色香が彼女にはあった。名を鈴といった。彼女は、出会った時から私のものだった。
女はすっと顔を上げると、私に向かって笑みを見せた。
「鈴、白いすずらんの花を覚えているか?」
「はい・・・。」
鈴は消え入るような返事のあと、私を見つめ直すと楚々と微笑んだ。それは、風に揺れる白い花のように涼やかであった。しかし、なぜだか私は、その微笑みの後ろに恐ろしく艷やかな何かを感じてしまう。それは、私の罪の念なのだろうか・・・。
愛らしい鈴は、私にとっては罪の象徴のような女である。彼女のために、彼女を犠牲にし、今すべてを裏切り、捨て去ろうとしているのだ。考えただけで頭がくらくらとする。まるで、毒でも煽ったようだ。しかし、今から辞めるつもりもない。やっと鈴を物にできるのだ。
私は、震える手に力を込め、鈴を引き寄せた。首筋に鈴の吐息がかかる。それだけで、私は今生のすべてをも捨てられると思えた。鈴だけ・・・、鈴だけいてくれさえすればいいのだ。
鈴と私が初めて出会ったのは、寒い雪の日であった。当時私は十になったばかりで、まだまだやんちゃな盛りであったと思う。もともと子供嫌いで厳格な父は、 私のことを世継ぎとしか見ておらず、跡目としてどう自覚をもたせるかしか考えてはいなかった。
私には弟がいた。しかし、弟は優しすぎる性格の上に、私とは母親が違った。弟も継母も悪い人間ではなかったが、継母は遊郭上がり女であった。父はその血が直系に入るのを嫌がり、そうそうに弟を跡取り候補から外した。必要とされる子供と必要とされない子供、どちらが不幸せなのだろうか。我が父の中で私達の存在はきっちりと線引がされ、私には強すぎる固執と厳しい躾を弟には明らかな無視と恥ずかしくない躾を与えた。優しい弟には、そちらの方が幸せだったかもしれない。
しかし、気の強い私は、父の支配がたまらなく嫌であったし、叔父に憧れ学者になりたいと思っていた。跡取りなどまっぴらごめんである。なので、事あるごとに父に反発しては折檻を食らっていた。
あの夜、ようやく眠りについた私であったが、ざわざわとした騒ぎに目を覚ました。その中心は玄関の先で、みながどたどたと走り回っている。私は寝床を抜け出し、そっと玄関から声がする方へと歩みをすすめる。夜なのに門扉が開かれ、家の者たちが集まっていた。
「母親の方は、もうだめだ。」
うちのお抱え主治医が、なにか白いものを手に取りながらそう言った。よく見るとそれは女の体につながっており、その横で8つになろうかという女の子が「かあちゃん、かあちゃん。」と泣き叫んでした。そしてそんな二人を父が感情のない目で見下ろしていた。
「母親の方は弔ってやれ。このままで寝覚めが悪い。」
「で、娘の方は・・・?」
一同が固唾をのむ中、父は冷ややかな口調で言い放った。
「花道にでも売れ。きれいな顔をしておる。母親もこれだけの器量だ。育てばこの娘も良いおなごとなろう。売り銭は母親の弔い銭にすればよかろう。最後の親孝行となろう。」
娘は父の視線に臆したのか、しゃくりあげながら怯え泣いていた。恐怖からか寒さからか、娘の肌は母親と同様青白く闇の中に浮かんでいた。その肌の色と対象的に黒い瞳が妖しく輝き、大きな涙が一粒、また一粒と地面を濡らしていた。月の明かりが門扉を通り少女を照らしていた。
「連れて行け。」
父の言葉を合図に男たちが少女を抱きかかえる。私はその姿に目を奪われた。可愛らしく美しい娘・・・、その姿に吸い寄せられるように私は一歩歩みを進めた。
「待ってください。」
みなの視線が私に集まる。
「父様、その娘、僕にください。」
「・・・お前にくれてやってどうする?何もなしに母親を弔ってやれば、わしは丸損だ。」
私は気圧されそうな気持ちを奮い立たせ、もう一歩踏み出す。
「ならば、私の人生を父に渡しましょう。」
父は一瞬目を見開きこちらを凝視した。そして、にやりと笑う。そうだろう、それは私の将来を差し出す約束だ。学者の夢を諦めるということだ。父が私に厳しかったのは、ひとえに私を自分に屈服させ、跡取りに据えるためだったのだ。父は表には出さないものの、その実かなり苦心していた。そして、どうやって私を跡目に据えるかを算段していたはずだ。思いがけず転がり込んできたこの出来事を父が見逃すはずもなかった。
「お前の将来・・・?どういうことか分かっているのか?私の手駒になるという事だぞ。」
「はい、承知の上です。」
あの時の父の顔、きっと忘れることはないだろう。
「好きにしろ。」
満足気にうなずいた父は私の肩を掴み、耳元に口を寄せた。
「よいか、これは口約束ではない、誓約ぞ。」
それから私は父の持ち駒となり、鈴は私専属の下女となった。
鈴は成長していくたびに、どんどんと美しい娘になっていった。明るく美しい鈴に、誰もが見惚れた。それは私も例外ではなかった。いつから・・・、と聞かれると自信がない。それを自覚したのは、十六になった頃であろうか。いや、出会ったあの時・・・、すでに私は彼女に惹かれていたのかもしれない。
しかし、私には鈴を買ったという負い目があった。実際に金を払ったわけではない。しかし私は自分の将来と引き換えに彼女を手にしたのだ。私に買われた鈴に思いを告げるのは、遊郭に女を買いに行くのとそう変わらないのではないだろうか。鈴も私に従うしかない。そう思ったのである。
その上、私は跡目を継ぐついう父との誓約があった。跡目を継ぐということは、それ相応の家の娘を娶らなければならない。出処知らずで親なしの鈴では、父をはじめとする一族の者が納得するはずもなかった。それに、身分違いの婚姻は鈴にも苦労をかける。鈴には幸せになってもらいたい、いや私が幸せにしたいい。私はいつも罪悪と欲望の狭間でもがいていた。
そんな日々を送っている時、異母弟から一つの申し出があった。
「鈴を娶りたい。」
と。そのただ一言を申し出た弟の目は、実に澄んでいた。真摯な瞳に押されながらも、私はすぐにそれを承知することはできなかった。
「時間をくれ。」
私はそう言うのが精一杯であった。
異母弟は遊郭を背負って立っていた義母に似て、とても美しい男であった。無骨な私と違って、鈴と並んでもなんら遜色ない・・・。そして、その容姿とは裏腹に本当に実直な優しい男なのである。鈴を思う気持ちも本当であるのならば、鈴を娶らせれば必ずや幸せにすることは分かりきっていた。その上庶子となっている異母弟と鈴の間には煩わしい身分の差もない。跡目としてこの家を存続させる義務のある私のもとにいるよりは、ずっと幸せになれるはずである。
私は異母弟が羨ましかった。何も考えず、素直に鈴をほしいと言える彼を、羨ましく思った。
結局、私は鈴を手放すことはできなかった。
異母弟から申し出があった数日後、決断しかねた私は鈴を部屋に呼んだ。その日は、鈴を初め見た日と同じように雪が降っていた。雪は月光に照らされて、暗闇の中きらきらと光っては落ちていった。
「きれい・・・。」
鈴が何も言えないでいる私を気遣ったのか、ぽつりと口にした。そして私と目が合うと、
「雪・・・、きれいですね。」
と彼女特有の笑みを見せたのだ。私は笑みを返せなかった。どんな顔をしていたのか、自分自身想像もつかない。彼女の笑みを見ると私はいつもこの世ならざる世界に迷い込んだ気になる。酒を煽った時のようにふわふわと心が軽くなり、押し込んでいた欲望が無理やり外へと出てくる。
このままその笑みを自分だけのものにしてしまいたい。しがらみを捨て鈴の手を取って逃げることができたら、どんなに楽だろう。彼女はついてきてくれるのか?・・・いや関係ない。鈴は『私の物』なのだ。あの雪の夜から鈴は私の・・・。
自分勝手な欲望が頭の中を回りだし、私は大きく頭を振った。そして、鈴に手をのばす。触れた先の白い頬は、ほんのりと熱を帯び、彼女が物ではなく生きた人であることを感じることができた。しかし、同時にその事実がどこか現実味に欠けている気がする。不思議だ。
鈴が頬にある私の手を取り、首をかしげた。おかしな話だが、私はその時になってようやく話を切り出すことができたのだ。
「鈴、異母弟の元へ嫁ぐか?」
事前に異母弟より求婚されていたのかもしれない。今日呼びつけられたのも、その話であろうと察しがついていたのであろう。彼女は私に向き直ると
「はい。」
とだけ言った。沈黙の中、私は降りしきる雪を見ていた。気配で鈴が頭を下げたのが分かった。
「旦那様。」
鈴が控えめに私を呼ぶ。
「旦那様、これをもらってはいただけないでしょうか?」
鈴の前には、きれいに折りたたまれた懐紙があった。
「これは・・・?」
「私のお守りです。・・・母の形見なのです。」
鈴がまた微笑む。それは、少し熱を帯びているような気がした。私はそっと懐紙を手にとった。中にはきれいに押し花にされたすずらんが一房入っていた。
「どうして・・・、これを私に・・・。」
「旦那様に持っていていただきたいのです。私の存在が旦那様のお邪魔になっていることは、承知致しております。でも・・・、でもたまに・・・、たまにでいいのです。これを見て、私を思い出してくださいませ。」
気がつくと私は鈴を抱きしめていた。鈴は小さく「あっ。」と声を上げると、私の背に手を回した。その行動に私は一瞬だけ正気に返った。・・・一瞬だけ。体を離した途端、・・・鈴と目が合ってしまった。鈴の瞳は涙で潤んでいた。私はそれで正気を完全に失ってしまった。
次の瞬間、私は鈴に深く・・・、深く口づけをしていた。絶え絶えに鈴の吐息が漏れる。
「鈴・・・、私の側にいたいか?」
それは断定的な問であった。否と言われようと私はもう鈴を手放さないと決めていた。もう手放せないのだ。
「旦那様のご迷惑でなければ・・・、いえ、ご迷惑でもお側を離れたくな・・・。」
いじらしい鈴の答えに、私はもう一度口づけする。今度は優しく・・・。
「苦労するぞ・・・。」
「承知の上です。」
その夜、私達は一線を越えた。
あれから30年ほど経った。鈴は私の元へ残ったが、あれ以来、鈴と関係を持ったことはなかった。そして、私は別の女性を妻に迎え、一男をもうけた。
そして今日、その一人息子に店を譲った。父との約束は果たした。妻や息子には悪かったが、もう家に縛られることはない。そして、鈴に思いを告げたのだ。「一緒に逃げよう。」と。
鈴は相変わらず私を見て微笑んでいる。あの彼女特有の笑い方で。
「鈴、あの時の鈴蘭だ。」
差し出した懐紙を開き、鈴がいとおしそうにそれを見つめている。私はふと不安になった。鈴の先程の答えは本心であるのか・・・、と。
「鈴・・・、本当に一緒に来てくれるのか?私に、財も若さも何も残ってないんだぞ。ただの老いぼれだ・・・。」
「旦那様、私は旦那様さえいてくださればいいのです。欲しいものは、旦那様と旦那様のお心。それさえあれば、私は満足でございます。」
鈴は、勝ち誇ったように笑ってみせた。その笑みに私は寒気を覚えた。
「昔話をいたしましょう。私の祖母は、遊郭の女でございました。母は、客の一人との間にできた子で、父親さえも定かではございません。そんな生い立ちでしたので、生まれた時から遊女としての将来を決められていた母でしたが、水揚げの時に遊郭を逃げ出しました。遊郭しか知らない母でしたが、遊郭しか知らないからこそ、母は外の世界に夢を見ていたのでしょう。そうして、とあるお屋敷にたどり着いたのでございます。」
鈴の黒い瞳が、月に照らされ妖しく揺れた。私はくらくらとめまいを感じ、腰を落とした。しかし、鈴から目を離すことができなかった。鈴が私の顔に両手で包み込んだ。鈴が触れている所から、少しずつ熱を感じた。
「母は、それは美しい人でした。そこのご主人は、一目で母を気に入り、昼は女中として、夜は遊女として雇い入れました。遊郭で育ったのです、夜の営みもすんなりと受け入れたようです。それに、母はご主人を愛していたようですし・・・。そうして、私は生まれました。もちろん、ご主人の子とは、口が裂けても言えません。奥様に知られれば、大事になりますからね。ですから、母は、その時庭師として働いていた男と結婚し、私はその娘として育てられました。母よりずっと年上の庭師は、母を娘のように可愛がってくださり、私にも彼が育てていた鈴蘭にちなんで鈴と名付け大切に育ててくださいました。ですが、悲劇は起こった。ご主人の奥様がこの秘事をお知りになったのでございます。母はご主人を愛しておりました。しかし、ご主人にとって母は、一つの玩具でしかなかったようです。母は、寒い冬の日にお屋敷を追い出されました。私と共に・・・。」
鈴がふうっと息を吐いた。
「旦那様、私は母のようにはなりたくない、と常日頃思っておりました。・・・私は、どんな事があっても愛おしい殿方の愛は奪い取る、と誓って生きてまいりました。ありがたいことに、母は私に殿方の気の引き方は教えて下さいましたから・・・。旦那様にこの身を救われた時から、私はずっと旦那様の物であると思っておりました。だから、どうやったら旦那様の愛を得られるのか、ずっと考えていたのです。」
鈴がまた笑む。私は、背中に冷たいものを感じた。どうして気が付かなかったのか。鈴のあの笑みには妖艶な色香が漂っていると・・・。私はすっかり鈴の術中に落ちていたのだ。
「旦那様・・・、どうかなさいました?」
鈴が笑む。彼女の触れている部分が熱を帯び、冷えた肝を包んでいく。
「いや、何でもないよ、鈴。さて、これからどこへ行こうか?」
私は、もう鈴なしではいられなかった。どんなに鈴が恋狂いの女でも、鈴の毒は、長い年月をかけて私の身体を蝕んでいったのだから。
終