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想花屋  作者: 愛江 流海
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桜下の鬼

 桜の下には、贖罪を背負った死人が埋まっている。あの話をしてくださったのは、どなただったのでしょう。あの美しい桜の花の色は、人の血の色だと・・・、人は桜に血を吸われ、死してなお苦しみ、苦しみ抜いていつしか鬼となるのだと・・・。そうして、鬼は決まってそのまま桜の下に住み着いて、人だった頃を思い出しては悲しく泣くのだと・・・。

 鬼は、悲しい生き物なのだと・・・。そうおっしゃったのは、一体どなただったのでしょう。



 今年も我が家の桜は、小さな花をたくさんつけて咲き誇っております。みなもに紅色を少し垂らしたような花びらが、風が吹くたび軽やかに散っていきます。心做しかその色が、一昨年よりも昨年、昨年よりも今年、と年々濃くなっているように見えるのは、あの話を思い出したせいなのでしょうか。それとも、あの桜に特別な思い出があるからなのでしょうか。・・・わたくしには分かりません。

 ただ、桜の下にいると、桜の花を見ていると、何やら物悲しさがこみ上げてくるのでございます。それは桜特有の咲き方のせいなのでございましょう。花を一斉に開かせ、自分の運命を悟りきったかのようにすべて流れ散っていきます。最後まで、それはそれは美しく天を埋め尽くしながら・・・。まだ美しい花びらは、地面を彩り、そうして、自分がいた天を仰ぎ見ながら、静かに枯れてゆくのでございます。

 そのような潔い桜の一生は、他の花たちとは違う気がいたします。桜はそれで満足なのでしょうか。それは、桜にしか分かりません。しかしながら、わたくしは思います。桜はあきらめを持っている・・・と。だからこそ、桜は悲しみを誘うのでしょう。


 わたくしは、この桜に二つの思い出があります。ひとつは母様の死。肺結核でございました。満開の桜の下で、口から恐ろしいほどの赤い血を流し、こちらの方を見つめていた母様をわたくしは、今でも脳裏から容易く呼び起こすことができます。母様は、まるで鬼のようでございました。愛おしそうにこちらへと手を差し伸べる母様を避け、わたくしはただ泣きじゃくりました。

 気がつくと、母様は囚われの身となっておりました。そうして、わたくしと会うこともなく、数日後この世を去っていかれたのでございます。

 薄情な娘と罵られても仕方がありません。しかし、ご病気であった母様とは、物心ついてから数えるほどしか会っておりません。それゆえ、わたくしの母様のお姿は、その時のお姿しか浮かんでこないのでございます。


 もうひとつ、それはたった二年前の出来事でございます。今となっては、あれが現実であったかも自信がございません。夢か現か・・・あまりに現実味が薄く、月日が経てば経つほどその記憶は朧げとなり、忘却の渦へと誘われていくのでございます。

 しかしながら、わたくしはあの記憶を嘘にはしたくないのでございます。美しくも恐ろしい異形の者・・・。あの姿はわたくしの中で薄れることはあっても決して消えることはないでしょう。それほど、私に大切な記憶なのでございます。



「咲子、今年も桜がきれいに咲いたね。ここの風景は全く変わらない。時が止まっているかのようだ。」

 気遣うように父が私に問いかけます。それにわたくしは、無言でうなずきました。そう、多分そうしたのでございましょう。というのも、母が亡くなって以来、わたくしの時は止まってしまっていたのでございます。意識がなかったかといえば、そうではございません。ただ、夢の中にいるようなふわふわとした世界にわたくしは、身を置いておりました。なんの感情も示さず、心はいつも無でございました。もしかすれば、なにか心にあったのかもしれません。しかし何やら夢心地で、わたくしはただぼうっと時の流れに身をまかせて生きておりました。

 あの時のわたくしは、生ける人形と申すのでしょうね。母が亡くなって六年・・・、すでに周りの方々には、それが当たり前となっており、衣食を世話してくれる祖母以外、わたくしの事を目に入れる方も少なくなってゆきました。誰もがわたくしをいないものとしている中で、わたくしはいつも桜を見ておりました。それだけは確かでございます。あの時の朧げな記憶の中には、とにかく桜だけが鮮やかに色づいていたのですから。

 なぜ、見つめていたのでございましょう。きっとそれは、わたくしが桜という花に母様の影を引きずっていたからでございましょう・・・。そう、最後に母様を見たのが桜の下であったから・・・、わたくしは春も夏も秋も冬も、あの桜を見つめておりました。桜を母様のように見つめ、心の奥底で母様に謝り、慕い、追いかけていたのかもしれません。


「さて咲子、私は出掛けてくるよ。お祖母様たちがいるからね。何かあれば、お祖母様を呼ぶんだよ。」

 何の反応も示さないと分かっていても、父はわたくしに普通の娘に接するように話しかけてくださいます。そしていつものように悲しそうな目をして去っていくのでございました。

 そんな麗らかな春の日のことでございました。あの一件があったのは・・・。父がいなくなって、少し経った頃でございましょうか。わたくしは、いつもの桜の下に鬼を見たのでございます。美しいその鬼は、桜吹雪に囲まれながら、こちらを向き立っておりました。その見事な黒髪が風になびき、美しく桜と調和しております。

 わたくしは、その立ち姿をただ風景を眺めるように見つめました。次の瞬間、鬼は私の目の前へと移動して参りました。そうして、わたくしをゆっくりと見下ろしていたのであります。わたくしも顔を上げて、鬼を見つめ返しました。鬼とわたくしと視線が混じり合いました。それはどのくらいの時間であったのでしょう。今に思えば、長かったような気もいたしますし、短かったような気もいたします。胸の奥が少しざわついた気がいたしましたが、何も考えてはおりませんでした。ただ、今までの思い出というのでございましょうか、それが一気にわたくしの中に流れてきたのでございます。心が動いたというのでしょうか、わたくしの中に感情のざわめきが顔を出そうとしているのを感じました。頬に温かいものが流れ、わたくしは大きく目を開きました。

 鬼は何の迷いもなく、わたくしを見つめておりました。着物の裾が地を流れ、花びらが舞い上がっておりました。あれほど桜が、そして・・・、鬼が美しいと思ったのは、それ以前も以降もありません。体中が心臓のように・・・、わたくしのすべてが高鳴ってゆきました。心と躰が溶け合った瞬間でございます。

 鬼の手がゆっくりとわたくしに近づいて参りましたが、わたくしはその場を動くことはできませんでした。それどころか、このまま鬼に殺されても良いとさえ思いました。恐ろしいが美しく悲しげな鬼は、ゆっくりとしかし確実にわたくしの首に手をかけました。それでもわたくしはただじっと座って鬼だけを見つめておりました。なぜでしょう、わたくしはその鬼を一人にはしておけなかったのです。その手にかかり、鬼と同じになれるのならば、死ぬことさえも怖くないとさえ思いました。

 鬼の流れるような黒髪は、烏の濡れ場のように美しく輝いており、わたくしの頬にさらさらと流れてまいりました。美しく伸びた白い手に少しずつ力が入れば入るほど、鬼とわたくしが溶け合って体が燃えているようでございました。とぎれとぎれの呼吸の間に、わたくしは母の姿を見出し、口角が上がるのを感じました。その時のわたくしこそ、鬼のようであったかもしれません。首を絞められながら、笑っているのですから・・・。でも、本当に幸せな光景だったのでございます。


「さきこ・・・。」


 その鬼は、不意につぶやきました。・・・鬼は、泣いておりました。いつの間にか降り出した雨が、涙と一緒に流れ落ちて行きました。わたくしは震えながらその背に手を伸ばし、もう片方の手を鬼の頬へと伸ばします。意識が朦朧としておりました。何年も動かさなかった躰は、わたくしの思い通りにはなかなか動いてはくれず、ようやく鬼の頬に流れる涙をすくいとりました。声にならない声が口の間から漏れていきます。声がもつれたようにひゅうひゅうと音を立てておりした。だんだんと意識が遠くなる中で、わたくしは一度だけはっきりと言葉を発したのでございます。


「ははさま・・・。」


と。確信はございません。しかし、わたくしのすべてが鬼は母だと叫んでおりました。

 鬼がわたくしの首から手を離しました。その途端、それまで閉ざされていた空気が、一気に躰の中に入り込み、それを拒絶するかのように思い切り咳き込みました。目の前には闇が広がり、何が何やらわからずただ身の任せるままに倒れ込んだのでございます。涙があとからあとから流れ落ちてゆきます。それがようやっと収まって、わたくしは躰をゆっくりと起こしました。

 その先にわたくしは見たのでございます。美しく微笑みこちらを見つめている鬼を・・・。鬼はいつの間にか桜の下に佇んでおりました。涙越しにうつろに見える桜と鬼。その鬼の瞳から、なんとも清らか涙が流れ落ちておりました。


「母様。」


 わたくしはもう一度、自分にも言い聞かせるように呼びかけました。鬼はゆっくりと微笑んで薄れてゆきます。鬼・・・、鬼だったのでしょうか。もっと違うもののようにも見えました。それはそれは美しい姿でございます。


「母様。・・・母様。母様。」


 わたくしは半狂乱になって泣き叫びました。鬼に飛びつき抱きしめました。一瞬抱きしめ抱きしめられたようでした。しかし、そこにはもう鬼の姿はございませんでした。ただ、桜の花びらと雨、涙に彩られたわたくしがいるだけでございました。


 あれは、あの時の鬼はなんだったのでございましょう。それは、考えても答えが出てまいりません。しかし、あれを母様だと思ったのは、きっと間違えではなかったのでしょう。母様は、わたくしをこの世に残し去っていったことを贖罪に桜の木の下に留まったのかもしれません。


 所詮この世は夢現。鬼のなりし母と会うてなにの不思議がございましょう。願わくば、母様が桜から解放され穏やかにあの世に旅立たれますように・・・。


 桜は毎年美しく、そして怪しく咲き誇り、わたくしたちを惑わすのでございます。それでも、わたくしたちは毎年桜を愛でるのでございます。大切な故人を愛し思い出すために。


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