第206話 全ての始まり
「これって……」
「普通に考えたら大地さんの父親ッスよね」
「このページだけでなく、他のページの写真も全て黒く塗られていますね」
アルバムには「~月~日~、~にて」といったような、補足の文字書きは一切ない。
ただただ写真が何ページにも渡って張られているのだが、一人の人物だけはどのページでも顔を黒く塗られている。
「なんか……今の大地を知ってるだけに、らしくないわね」
「だからこそじゃないッスか? 大地さん自身も忘れてる何か。それは父親に関係してることだと思うッス」
本来アルバムというのは、この頃はこんなにちっちゃかった! だとか、こんな顔してたんだ! といった風に楽しんだりするものだが、三人の顔に笑顔はない。
あるのは深刻そうな顔だけだ。
「根本さんのお陰で、方向性は定まりましたね」
「そーね。これから心の深いとこに潜るんなら、お父さんとの思い出を探ってみればいーんじゃない?」
「では試してみましょうか」
すでに一度このアルバムを見つける時に念じているので、三人とも要領は掴んでいる。
今回三人が念じたのは、大地の心の底に眠る父親との記憶。
ネットで検索をかけるように、三人の念が無意識の大地の心へと届く。
そして本人が自覚していないような事柄でも、検索サイトのような働きをして返してくれる。
その検索エンジンのような働きによる結果は、最初かなり幼い頃の大地の記憶から始まり、徐々に新しい記憶へと移っていく。
まるで映画でも見ているかのように、三人の脳裏に大地の記憶が流れる。
初めの方は、それこそどこにでもあるような一般家庭の姿だった。
父がいて、母がいて。
そして生まれたばかりの妹がいる。
そして年が経つにつれ、妹は成長して兄である大地に懐き、それを邪魔くさそうに扱いながらも、妹が危険なことをしそうになった時はしっかりと止める。
そんなどこにでもありそうな家族の光景。
しかし、更に時が経っていくと、徐々に綻びが生じ始めていった。
部屋で一人泣いている母親に、リビングで安酒を浴びるように飲んでいる父親。
避難した押し入れの中、妹と二人で耳を塞いでいても聞こえてくる、両親のどなり声。
決して裕福ではなかったが、それでも身だしなみにはちゃんと気を遣っていた母親が、徐々に外見を取り繕う余裕もなくなっていく様子。
そして、遂にその日が訪れる。
「おとうさん? なに……してるの?」
まだ小学四年生だった大地は、夜遅くまで起きるのが苦手だった。
しかしその日は嫌な胸騒ぎがして、深夜十二時を回っても一向に眠気が訪れない。
布団の中で丸くなり、必死に目を閉じて眠ろうとしていた大地は、部屋の中から聞こえてきた物音に気付く。
大地は三つ年下の妹と同じ部屋で暮らしていた。
当然寝る時も同じ部屋だ。
部屋を半分に分けて机なども二人分用意されており、布団も少し離れた場所に敷かれている。
その妹の布団の所にボーっと父親が立っていることに気付いた大地は、おそるおそる問いかけた。
「……すくってるんだ」
「すくう? なにをすくうの?」
喉が張り付きそうになりながらも、大地は必死に恐怖を抑えながら尋ねる。
最近は怒っていたり、暴れたりすることも多かった父親だが、今は静かに立っている。
その父親の姿に、影治はこれまで感じたこともない程の、得も言われぬような恐怖を感じていた。
小さな豆電球の明かりに照らされた父親の顔は、表情が抜け落ちた亡霊のような顔をしている。
しかし目は血走っており、唇はヒクヒクと痙攣したかのように震えている。
そして何より、その手に持っている包丁らしき刃物が、大地にとって何より恐怖を感じさせた。
「宇宙、知ってるか? この世界にはな、苦しいことや辛いことが一杯溢れているんだ」
刃物の先からは液体が垂れている。
この暗さではその液体が何色かまでは判別がつかない。
しかし、刃物の先から滴る液体の正体など、今の大地には一つしか思い当たらなかった。
「おと……さん?」
時計の針が進む音が、妙に大地の耳に残る。
そして自らの心臓が刻む音と、世の中の不幸全てを籠めたような、父親の深いため息。
……そこに隣で寝ている筈の妹の寝息は聞こえてこない。
「そういう時、どうすればいいか……宇宙は知ってるか?」
「う、ううん。どうすれば……いいの?」
答える大地の声は酷くかすれており、蚊の鳴くような声になっていた。
幾ら辺りが静かだとはいえ、父親の耳にちゃんと届いていたかどうかすら分からない。
しかし、最早父親は大地の答えを聞いてなどいなかった。
「救ってやれば……いいんだよ」
そう言って生気の抜けた顔をしながら、刃物を手に迫る父親。
この時にはすでに布団から立ち上がっていた大地だったが、余りの恐怖に足がすくんで動けないでいた。
「さあ、お前も救ってやろう」
眼前へと迫る父親に、緊張の限界に達した大地は、ガクガク震えた足が体を支えきれず、その場でストンと膝をついてしまう。
しかしこの動きによって、丁度タイミングよく父親が差し出した刃物を躱すことに成功する大地。
「お前も……お前も俺の救いを拒むのかあああああッ!!」
攻撃を躱したのは偶然のようなものだったのだが、大地が避けたことによって逆上した父親は、形振り構わず右足で思いっきり大地を蹴り飛ばす。
「うぐっ……」
別段父親は格闘技の経験者という訳ではなかったが、大人の本気の蹴りを食らった大地は、腹部に強烈な衝撃を受けて思わず吐きそうになる。
しかしこの一撃が大地の体の硬直を解き、蹴り飛ばされた先から慌てて部屋を抜け出すことに成功した。
「お母さん! お母さん!!」
大地が向かったのは、母親が寝ているはずの寝室。
その部屋は電気が点けられたままになっており、部屋の様子が一目で分かるようになっていた。
「う……うぇっ……」
先ほどは堪えた吐き気だったが、今度ばかりは堪えきれずに部屋の隅に胃の内容物を吐き出す。
部屋の中には、腹部からおびただしい量の出血をしたまま倒れている母親の姿があった。
「ソラアアアアア! お前も……お前も今すぐに救ってやるからなあああ?」
「ぼ、僕を救ったあと、おとうさんはどうするの?」
「しんぱーーいする必要はなーーーいぞおおお。お父さんもすぐ後を追うからなあああああ」
ジリジリと部屋の奥に下がる大地と、ゆったりとした歩調でそれを追う父親。
この寝室はベランダに通じており、大地はついにガラスの引き戸のところまで追いつめられる。
「さあ、逃げるのはやめえええて、大人しく救いを受けるんだあああ」
全身を恐怖が包み込みながらも、半ば本能的に発した脳の命令が、大地の手を動かして引き戸をスライドさせる。
するとどうやら鍵はかかっていなかったようで、後ろ手にスルスルとドアを開いた大地は、そのまま勢いよくベランダへと飛び出す。
この頃大地が住んでいたのは、公営団地の最上階である六階の一室だった。
エレベーターもないこの建物は、階段を上るにしろ下りるにしろいつも大変だった。
しかし、勢いそのままにベランダから外へと飛び降りた大地は、そうした上り下りの苦労を味わうこともなく、一瞬で大地へと辿り着いた。




