アイスコーヒー
「なんでよ! なんで分かってくれないの!?」
「お前が言うなよ! 俺のことを分かろうとしないのはそっちじゃないか!」
某県某所の喫茶店。
客入の少ない個人経営の店で、その数少ない客の二人が言い争いをしていた。
言い争っているのは一組の若い男女。
どちらも二十代半ばで、既製品だがそこそこいい服を着ている。
生活には余裕のありそうな二人であるが、その態度には余裕が全く無かった。
「いっつも仕事、仕事で! 前にデートしたのいつか覚えてる? 先月は一回もしてないのよ!」
「仕方がないだろ! ようやく大きい仕事を任されたんだぞ! ここまで頑張ってきたって言うのに、最後の最後で失敗なんてできないんだよ!
ここさえ乗り切れば出世できて、将来楽になるんだ! あとちょっとの我慢がどうしてできないんだ!!」
「あとちょっと、あとちょっと! 出世したらまた時間が無くなるんじゃないの!?
そうやって仕事を言い訳にして……。
私は! もっと一緒にいたいの! 仕事とかお金とかよりも、一緒にいる時間が欲しいだけなのよ!!」
女は涙をこぼしながら、男に訴えかける。
だけど男は一歩も退かない。
「そうやって、金で苦労したら駄目になるんだよ! 俺の親父はそれで早死にした! お前の両親だってそれで別れたって言ってたじゃないか! もっと現実を見ろよ!
最低限、子供ができた後のことも考えないと、逆に余裕や時間が無くなるんだよ! 分かれよ!」
男の両親は、株に失敗して大損をした。莫大とは言わないまでも借金を背負うことになったのだ。
お金に苦労し、本業の他にいくつも内職を抱え、そうやって男を大学に入れた頃に――父親が過労で亡くなった。
男の家庭は生命保険でなんとかなったが、「借金さえなければ」と言う思いが拭えない。
女の家庭は、中学時代に父親がリストラされて無職になったことで崩壊している。
働けという妻に対し夫が暴力を振るい、それからしばらくして両親が離婚。
母の女手一つで育てられた訳だが、その生活は苦しかった。女には遊ぶ時間は無く、高校時代の思い出は、ほとんどバイトばかりであった。
二人は友人の紹介で出会い、すぐに意気投合し付き合うようになった。
お互いにお金で苦労した経験を持っていた為に気が合ったのだ。
付き合い始めるとき、男は女に金で苦労させないと誓い、仕事に励んだ。
二人が着ている服も、男が用意したものだ。地元でも有名な企業に就職した男は、間違いなく「稼げる男」になっていた。
ただ、その仕事への打ち込みようが二人の間に溝を作ってしまう。
「苦労したっていいじゃない! 二人で手を取り合っていれば、なんとかなるよ。
一緒に、居たいのよ……」
「……駄目だ。やっと掴んだチャンスで、ここを逃せば一生“次”は無い。今しか無いんだよ」
出世するのが厳しい会社で働く男にとって、今回のチャンスは逃してはならない、文字通り“次の無い”話だ。
ここで一歩でも退けば他の社員がチャンスをものにして男を抜き去っていく。
そしてチャンスを活かせなかったというレッテルを貼られれば、上司も男に目をかけなくなる。後輩にすら追い抜かれるようになるのは間違いない。
それは、男にとって我慢できない話だった。
どう言っても男が譲らないと分かったのだろう。
女は伝票を手に取ると、
「もういい! 貴方みたいな仕事人間とは付き合ってられないわ! 別れるわよ! それで良いでしょ!」
と、店を出て行ってしまう。
そして会計に千円札を置いて店の人間が対応する前に出て行ってしまう。
男はその背中を見送ると、テーブルに残されたグラスを見る。
男が頼んだのはアイスコーヒー。
氷は溶けて小さくなっており、グラスは汗をかいている。
女が頼んだのはカフェオレ。
彼女は甘い物が好きだった。そして、苦い物が苦手だった。
男はアイスコーヒーにフレッシュとガムシロップを入れた。普段はそのまま飲むのだが、今はそのまま飲む気にならなかったのだ。
コーヒーの黒に、ガムシロップの白がマーブル模様を描く。
男がストローでそれをかき混ぜると、コーヒーとフレッシュは混ざってカフェオレのような色になる。
コーヒーは簡単に混ざるのに。
そんなことを考え、男はストローを口にする。
飲み慣れないアイスコーヒーは、冷たくて、苦みが少なく、そして甘かった。




