修習
ガサガサ。
枯れ葉の絨毯が立てる音に気付いてぼんやりと瞼を開ける。
朦朧とする視界に捉えたのは、白いワンピースの女の子……レティシアが忍び足でゆっくりと外へ向かう姿だった。
まだ夜は明けていないようで、鈴虫のような鳴き声が洞窟の外から漏れ聴こえてくる。
真っ暗な洞窟の中、少女の手前に小さく灯る火を見てふと思う。
レティシアは外に出たのだろう、枯れ葉を踏む音がしなくなった。きっとトイレだな。
まぁライターくらい誰でも使える物だ、と思いなおして、瞼を閉じて再び眠りの世界へと意識を手放した。
目を覚ますと朝日が洞窟へ僅かに入り込んでいる。今日もいい天気。
レティシアはこちらを向いて気持ちよさそうに寝息を立てている。
「よいしょ……っと」
隣人を起こさないよう静かに立ち上がり、洞窟の外へ出る。
見上げれば青空には雲一つなく、気持ちのいい快晴だ。
トイレの方まで歩き、適当な木に向かって小用を足す。
そういえば、夜中にレティシアがライター使ってトイレに行ってたけど、俺はいつライターを渡したんだろうか。
用を済ませてチャックを上げてからポケットを探ると、右の方にポケットが入っていた。
……ライターあるし。
寝ぼけてライターを貸して、また寝ぼけてライターを受け取った?
そんなはずは……ないとも言えないか。
なにせ電車に乗ってからこの異世界に来るまでのことを全く覚えていないのだ。寝ぼけて少し記憶が飛ぶくらいはあるだろう。
まぁこうやって考えるよりもレティシアに訊けばいいか。
そんなことを考えている間に洞窟へ戻ってきた。
さて、今日の予定は……。
ストレッチで体をほぐしながら考えていると、レティシアが瞼を擦りながら起きてきた。
「おはよ」
「……****」
時間的には結構寝たはずなのにまだ眠そうだ。
「ほら、水飲むか?」
中身が半分の程のペットボトルを渡すと、可愛らしいのどを鳴らして飲み干す。いい飲みっぷりだ。
『あっ!』
すると突然レティシアが声を上げ、何かを思い出したように洞窟へ戻っていく。
忙しいやつだなぁ、と思っていると俺の鞄を持ってきた。
『*********。****************』
そう言いながら俺に鞄を渡してくる。何言ってるか全然わからん。
なんだろうか。とりあえず鞄を開けてから中を見てなんとなく察した。
きっと昨日見せた企画書じゃないだろうか。
クリアファイルに挟んだ企画書を取り出すと、レティシアは目をキラキラさせて頷く。ビンゴだ。
企画書を受け取ったレティシアは、木を背にして嬉しそうに腰を下ろした。
何がそんなに面白いのか気になり、俺も隣に座ってめくられるページに目をやる。
次へ次へとめくる手が止まったのは、昨日見たヒロインキャラのページだった。
やはりキャラのイラストが気に入ったのだろうか。
このヒロインはストレートの長い金髪がチャームポイントのキャラで、髪や肌の色はレティシアと似ているし、自己投影しやすかったのかもしれない。
しばらく眺めていると、ほかのキャラが載っているページにも楽しそうな声で反応する。別にどのキャラでもいいらしい。
よっぽどご機嫌なのか鼻歌が混じりだす。聞いたことがないメロディだ。
そういえば、レティシアは一体何者なんだろうか?
可能性は低いと考えていたが、どうも村人ではなさそうだ。
こんな蟹と水だけの洞窟生活よりは、間違いなく村の方がマシだろうし、家出なら既に帰っているはず。
捨てられた可能性もないではないが、これだけ可愛いなら貰い手はいくらでもあったはずだ。でも昔ってふくよかな体系の方がモテたって話もあるし、この世界では俺の価値観が通用しないのかもしれない。
あとは生贄。それこそいつの時代だとツッコみたくなるけど、可能性としては捨てきれない。
しかし、村人にしては肌が白すぎる。あんな原始的な村に住んでたら、女子供も外に出て農業や狩りの手伝いをさせられるはずだろう。
一番有力なのは、山頂で見かけたあの馬車に乗っていて、何かの理由で逃げ出したというパターン。
山賊に襲われてとか、奴隷になるのがいやだったとか、理由は定かではないがこれが一番可能性は高いと思う。
一応、俺と同じ別世界からの迷子という線もあるけど、俺に対して言葉が通じて当たり前のように話す感じからして、この可能性は低いはずだ。
でもよく考えてみると、馬車から逃げて、大樹の洞に避難して、俺という依り代を見つけるってどんな幸運だよ。
まぁ俺としても独りだと気が狂ってたかもしれないし、レティシアと出会えて本当に助かったと思ってはいるけど。
それからしばらくイラストを堪能したレティシアから企画書を回収して朝飯にする。
今朝は昨日採った木苺っぽいのだけにする。蟹は食い飽きたし、どうせまた夕方に食わなきゃならん。
今日は岩場で日向ぼっこもいいだろうと思い、葉にのせた木苺と鞄を持って沢へ降りる。
「あ、ストップストップ。蟹じゃなくてコレ食べるから、捕まえなくていいよ」
蟹を探そうとするレティシアを止めて、定位置になりつつある川原に腰を降ろした。
ペットボトルに水を入れたら、向かい合って食事にする。
「いただきます」
『……「イタダキー、マス」』
手を合わせる俺を真似してぎこちなく言うレティシア。親馬鹿になるお父さんの気持ちが独身の俺にもよく分かった。
広げた葉の上で小さな山になった木苺を二人で黙々と食べる。焼く手間もないし、木の実って素晴らしい。
もうちょっと食感があるといいんだけど、干してからドライフルーツみたいにできないものか。
俺がやっても腐らせるだけだろうが、一つくらい実験してみてもいいかもしれない。
夕食のデザート用に、木苺を二つだけ残して朝飯終了。
足りないかと思ったけど、意外と食べた気になれた。レティシアも蟹よりは嬉しそうだったし良かった。
次は鞄からお手製の歯ブラシを取り出して歯磨きだ。
川の側で二人並んで念入りに磨く。どうせやることはないんだからこういうのに時間を使おう。
五分ほどしっかり磨いたら、口を濯いで歯ブラシを洗う。
「よし、じゃあ次洗濯。昨日上着洗ったから今日は下着ね。わかる?」
レティシアから歯ブラシを受け取りながら伝えるが、リアクションが薄くどうも伝わった感じがしない。
女の子といえどレディの前で下半身を曝け出すのはどうかと思い、レティシアを待機させてから岩場でジーンズとボクサーパンツを脱いで、ジーンズを着なおす。
ボクサーパンツをヒラヒラと手に持ちながら戻ってゴシゴシ擦る動作をすると、理解したのか得意げに数回頷いてくれた。
それから昨日同様に場所を別れて下着と靴下の洗濯。
靴下は相変わらずの臭いし、一週間ほど着続けたパンツも塩気のある臭いを醸し出している。
思わず川に浸かって体を洗いたくなったので、下着を干したら深めのところにまで移動し、全裸になってゆっくりと浸かる。水風呂以上に冷たい。
水温に体が慣れたらザブザブと体を手洗いする。特に股は重点的に洗った。
こっちより下流の方にレティシアがいることを思い出し、ちょっとだけ申し訳ない気持ちになる。ごめん。
川から上がって軽く跳ねたり足をバタつかせて水を落としていると、下流から視線を感じた。
顔を向けると下流の岩場からこっそりこちらを覗き見るレティシアさん。
目が合うとすぐ岩場に隠れてしまった。マセガキめ。
言わないだろうし言葉もわからないけど、お父さんのより小さいとか言われたらショックだなぁ……。
男の人は冷たいとこだと小っちゃくなっちゃうんだよ、とわざわざ説明するのもなんか変だし……まぁ忘れよう。
気を取り直してジーンズで簡単に体を拭き、ちょっと水気を含んだジーンズを履きなおした。
下着が乾くまでに少し時間がかかるので、飯を食べた場所に戻ってレティシアを待つ間、手描きの地図を鞄から取り出して場所を確認しているとレティシアが戻ってきた。
レティシアも川に浸かったんだろう。髪がしっとり濡れている。
生乾きの下着を着ていたらどうしようかと思ったけど、ワンピースに透けてないしちゃんと干しているようだ。
『……****?』
「ん?」
地図を指差すってことはこれが気になるのか?
レティシアに見えるよう裏返しにするが首を傾げるだけだった。
まぁ丸と点線と日本語だけのこれを見ても地図だってわかるはずがないか。
隣に座るように川原を軽くポンポン叩くとこっちに来てすぐ座ってくれた。意外とジェスチャーだけでもなんとかなるもんだ。
レティシアに絵を見せながら、ペン先で「洞窟」と書いた小さな丸の部分を指し示す。
「これ、洞窟。あそこ、洞窟ね」
ペン先を洞窟に向けて、また地図の洞窟位置に戻す。
『あーあー』
声を上げながら首を小さく縦に振る。理解できたようだ。
次に点線を辿りつつ狼を殺した岩場を指したら、立ち上がってレティシアを指差してゆっくりと倒れるリアクションをする。ついでにレティシアの赤い擦り傷になっている膝小僧を指す。
『あーあーあー』
また頷く。
ペン先を岩場から大樹まで辿ったら一度地図とペンを置き、両手で大きな輪をつくる。洞の入り口の大きさのつもりだけど分かってくれるだろうか?
『んー?』
ダメだ。首を傾げられた。
今度はレティシアを指差したあとに手を合わせて自分の頬にあててお休みのポーズ。さらに俺とレティシアを交互に何度も指差す。俺たちが初めて会った場所という意味だけど分かってくれるだろうか?
『あーあーあー!』
分かってくれたらしい。これでダメならお漏らしのジェスチャーをするしかなかった。
そして地図の大樹にペン先を戻して村までの点線を滑らせる。村……これはどう伝えたらいいだろう。
思いつく限りのジェスチャーをしてみたけどやっぱり伝わらない。
しょうがないので、地図を裏返して企画書の文字がある方の余白に集落の家をいくつも描き、棒人間を何体も配置する。我ながら絵心はないがこれなら分かってくれるだろう。
リアクションがないので少女を見ると、俺の顔を見て驚いた表情をしている。
『……***、******?』
真剣な表情で、何かとても重要なことを言っている気がする。でも言葉が分からない。
顔をしかめたレティシアは俺が書いた集落の棒人間を指差した後、その指を俺に向ける。
『タチバナ、******?』
村人、俺。村人は俺。俺は村人か、ってことか。
「ノーノーノー。違う、俺は村人じゃない」
首を振って腕でバッテンをつくる。
『……』
かたい表情のまま無言で俺を見上げるレティシア。
この反応からすると、村か村人を嫌っているのか?
行きたくない、戻りたくない、ってことか。それも相当に強い意志を感じる。
どちらも言葉を交わさず、二人の周囲だけ時間が止まったように漂う緊張。
その空間を壊すように息をついたレティシアが口を開いた。
『……****。****、タチバナ*****』
言葉の意味は分からんが、とにかく納得してくれたらしい。
ペットボトルの水を一口飲んでレティシアに差し出すと、可愛いのどを鳴らして飲んでいく。
「あ、城っぽいのも見えたから説明しとくわ」
地図を戻し、洞窟をペン先で指して頂上の丸印までルートの点線を辿っていく。
山に見立てて両手の指先を直角になるように合わせ、山の頂上を指差す。
『あーあー』
また地図に戻り、頂上から離れた城の位置にペン先を置く。
「多分だけどここが城。城じゃなくても町は絶対ある。レティシアは知ってる?」
最初から城のジェスチャーは無理だと諦めてレティシアを見やる。
『***、******************。****************』
小さく首を振って何かを伝えるレティシア。なにか凄く重要なことを言っているはずなのに全然分からない。
「そっか、まぁなんとなく分かった。オッケー」
言いながら地図とペンを置いて背伸びをする。
するとレティシアがそれを持った。
『****』
レティシアの持つペンは、まず先ほどの町を指し、それから用紙の外へとはみ出してゆっくり動く。
山頂から町までの距離よりさらに進んだ辺りの中空でペンは止まり、レティシアはその地点と自身を交互に指差した。
つまり、レティシアがいた所ということだろう。
目を見開いて彼女を見ると自慢げな顔をしている。
『***、**********。***********……***********』
こっちの町の方が栄えているぞ、と都会自慢でもしてるんだろうか?
「そっかー、大分遠いな」
とりあえず遠いところに住んでいたことだけは理解できたので良しとしよう。
レティシアから地図とペンを受け取り、約五十キロ先に町有り、と一言だけ書き足しておいた。
それから地図を単語メモに持ち替えて、レティシア先生から異世界語レッスンを受ける。
体の各部位から始まり、身の回りにある石や川など、俺が指差したものをレティシアが答えるという流れで、俺が復唱して問題がなければ『オッケー』、間違っていれば『ノー』の後に正しい発音を言ってくれる。
俺はひたすら集中してメモ用紙に単語と異世界語のその発音を日本語で細かく書いていく。
俺はとにかく目につくものを手当たり次第に訊きまくり、レティシアはどう答えたらうまく伝わるかを試行錯誤しながら頑張って教えてくれた。
昼を過ぎてからは、動作や分かりやすい形容詞も含めて教わっていく。
これだけ集中して勉強したのはいつ以来だろうか。頭に血が巡っているのが分かる。
夕方に差し掛かるころには用紙が文字で埋まり、確認と復習を兼ねた口頭テストが一通り終わったところだった。
『オッケー、レティシア、ありがとう』
『フフフ、忘れる、ダメよ』
分かりやすいように教わった単語を区切ってくれるので意味がちゃんと理解できる。
『ご飯、蟹、食べる』
『そうね、お腹減ったわ』
夕食を済ませて洞窟へ戻ると、辺りの森は夕暮れで赤黒く染まっていた。
洞窟に入る前にふと気になっていたことを思い出し、レティシアにライターを見せる。
『レティシア、コレ、ライター、火』
『ああ、それね。小っちゃいけど良い****ね』
知らない単語だ。意味が分からなかった部分の発音を鸚鵡返しにする。
『え、分からないの? ****よ』
やはり分からない。火と言った気もするけど。
『火? 後ろ、分からない』
『んー……』
腕を組んでどう伝えたものかと悩むレティシア。
『明日教えるわ、今日は疲れちゃった』
ほどいた腕を軽く振って洞窟に入っていく。
『えー、昨日、夜、レティシア、ライター使った』
その後を追って洞窟に入ると真っ暗だ。手に持ったライターで自分の寝床を確かめる。
『私がライターを使った? 使ってないわ』
灯りに赤く照らされながらレティシアは首を傾げる。
「……マジか。じゃぁ俺の記憶違いかぁ」
『ライターはあなたが持ってる。私は使えないわ』
確かに彼女の言うとおりだ。
『ごめん、間違う、訊いた』
『ええ、気にしないで。トイレに行ってくるわ』
レティシアはそう言いながら落ち葉を踏み鳴らして外へ出ていった。
……やっぱり寝ぼけていたのか。それにしては現実感があったけど。
精神的なストレスが大きくて、頭がおかしくなっているのかもしれない。
こっちの言葉が喋られるようになれば大分違うはずだ。早く習得しないと。
横になって今日のことを振り返る。
やっぱりレティシアはこの世界の人間で、山頂から見えた町よりさらに遠くが故郷だった。
それがなぜ田舎の山にいたんだ。追われてるとしたらこの場所がバレたりしないだろうか。
そんなことを考えているとレティシアが帰ってきた。
『暗いわ』
入り口でぼやくので、起き上がってライターを取り出す。
しかし、手に持ったライターより先にレティシアの指先が赤い光を灯した。
「へっ?」
一つしかないライターは俺が今この手に持っている。つまり彼女はライターを持っていない。
レティシアはこちらを見ようともせず火を灯しながら自分の寝床へ向かう。
ピンと伸びた人差し指の先から少し上で火は揺らめいている。何も持っていない。
腰を降ろすと同時に火が消えて洞窟内を闇が包んだ。
……なんださっきのは。手品か。いや、まるで魔法のようだ。
『レティシア』
ライターを点けて少女の顔を照らすと、いつも通りの表情でこっちを見ている。
『前の、火、もう一回、もう一回』
『……顔、こわいわ』
苦笑いを浮かべながら片手を掲げると、さっきと同じようにして指先に火が灯る。やはり何も持っていない。
『あなた、****が分からないの?』
『****?』
『リジュツよ、リジュツ。火、水、**、土』
『**?』
『**は……教えてないわね。ビュービュー、分かる?』
火をつけた逆の手で、何かを斜めに大きく掻くジェスチャーをするレティシア。
『んー、ごめん、わからない』
『あ、これで分かるでしょ、コレよ』
灯した火を手で仰ぐと火が消えた。なるほど風か。
『分かった。風、分かった』
また真っ暗になったので今度は俺がライターに火をつける。
つまり、火、水、風、土。それを操作する超能力がさっきの単語だろうか。
やけに心臓がバクバクとうるさい。興奮。そう、これは興奮だ。
『そう、リジュツは火や水を動かすの。自然の理の術。理術よ』
彼女の説明がストンと腑に落ちる。自然の理の術。凄い。これができればライターのオイルが切れても蟹を焼ける。生きることができる。
ゲームを通じて子供の頃に憧れを抱いた超然なる力だが、思いつく使い道はいやになるほど現実的なものだった。
『俺、理術、できる?』
『んー、分からないわ。明日、教えるわ』
『分かった。ありがとう、レティシア』
『どういたしまして。おやすみなさい』
体を横たえるレティシアを見て俺はライターの火を消した。
正直叩き起こしてでもすぐに知りたいという欲求はあったが焦る必要はない。
心臓の鼓動が止まらないまま枯れ葉の上に寝そべり、瞳を閉じて今日教わった言葉を呟いた。
『おやすむなさい』