少女
四日目の朝。
清々しい鳥の声、澄んだ空気、そして悲鳴を上げる身体。
起きた瞬間に襲い掛かる筋肉痛に顔を顰めて、寝ながらできるストレットをこなしていく。
ストレッチだけだとあまり効果は得られなかったので、定例のラジオ体操、屈伸、前屈で身体をほぐす。
体の芯に残るような疲労感はあるものの、少しは動けるようにはなったので川へ降りる。
いつも通り顔と体を洗って、ハンカチを巻きなおす。
右腕の傷は塞がりはじめ、洗っても血はあまり流れなくなっていた。
今日は昨日の分も蟹を食べようと心に決め、岩をどかしては逃げる沢蟹を捕まえては岩に叩きつけて締める。
小一時間探して三十二匹。まぁこんなもんだろう。
半分の十六匹は焼いて食べてを繰り返し、残る十六匹はペンケースいっぱいに入れる。
蟹は捕ったし、筋肉痛が酷すぎて今日はもう動きたくないから寝てしまおう。
這う這うの体で洞窟まで戻って枯葉の上に転がる。
寝れるか心配だったが、目を閉じると簡単に眠りに落ちた。
ふと目が覚めて出口を見るとまだ全然明るい。
外に出て太陽を仰ぐと中天、正午くらいか。
やることがないので、寝心地を改善するために落ち葉をかき集めながら、昨日山頂から見かけた馬車について考える。
やはりどうにかして接触を図るべきだろう。
村人に見つかればまた追われるだろうが、もしあの馬車が行商なら大チャンスだ。
村から町の方に戻るとするときに、山道で単独になったところを見計らって声を掛けてみる。場合によっては襲う。
複数人乗っていたらこっちが追われる可能性もあるが、弓矢が飛んで来たり槍を持って追いかけられることは多分ない……はず。
あの馬車が行商でなかった場合、計画は破綻だし、今まで寝ていた間に村から出発した可能性もある。
しかし、次はいつ馬車が来るのか分からない以上、それなりにリスクはあるが、村の近くまで下りて行動できるようにしておこう。
では早速動いたほうがいいな。
大量に集まった落ち葉を洞窟に入れてから均すと、メインの寝床以外にも広範囲をカバーできた。
杖と鞄を持って洞窟の外に出て、朝と同じように体操とストレッチで体をほぐす。
沢まで下りたら川を渡って、ここまで来た時と同じ砂利道を進んでいく。
一時間くらいで最初の川まで無事に戻れた。
ここから大樹の場所までは四十分くらいだっただろうか。
水を補給して、ペンケースに入れていた焼き沢蟹を半分食べる。
狼が出ないように祈りつつ、もし狼が出てきたら躊躇なく杖をフルスイングできるように気を付けながら大樹へと進む。
狼と邂逅した場所までは比較的簡単に戻ることができた。
ここまで来ればあとは傾斜が緩くなり、道も分かりやすいので迷うことはない。
出発したのが正午だとしたら今は午後一時ちょうどくらいか。遅くても二時前には大樹に到着できる。
折れた枝を確認しながら歩き、道しるべとして分かりづらいところは枝を折りながら進んでいく。
大樹のすぐ近くで前に見た耳の長いイタチを見つけたが、すぐに逃げられた。
最初に見たときは分からなかったけど、きっと異世界の動物なんだろう。現実の世界であの可愛らしさならペットとして人気が出るはずだし。
さらに三十分ほど歩いて懐かしの大樹の前まで戻ってきた。
村人達に追われたとき、この木の洞で一生を終えるのかと不安になったが、今のところはこうやって生きている。
噛まれた傷の後遺症が出る可能性もあるし、いつまた獣に襲われるかも分からないけど、生きていればチャンスはある。
馬車に乗って山頂から見えた遠くの町まで行ければ、ドラゴンが空を翔るこの異世界でも自分の居場所があるかもしれない。
……神様、もしこの世界に神様がいるなら、これから生きていけるように見守ってください。あとできれば元の世界に帰してください。
大樹をご神木に見立てて、祈りながら手を合わて拝むと、なんか衣擦れみたいな音がした。
顔を上げて洞の中を覗く。
何かいる。
「うあぉっ!」
条件反射で洞から飛び退く。
白い何かがいた。動物か?
どうするべきか混乱する。
この角度で白いのが見えたということは結構大きいかもしれない。
獣、幽霊、大樹の神様……可能性が頭を駆け巡る。
触らぬ神になんとやらで、このまま見なかったことにするのもありだろうが……やっぱり気になる。
さっきの声に反応しないらしいし、とりあえず確認だけしておこう。
いつでも逃げられるようにした体勢で、足音を立てないようにゆっくり近づく。
洞をそっと覗きこむと暗がりの中にやっぱり白いのがいた。
何だこれは?
さらに顔を寄せて奥を覗く。
これは布……服?
獣ではなさそうなので身体ごと近寄って中を確認する。
そこには、白い服を着た金髪のラブドールらしきものがいた。
顔は角度と長い髪で見えづらいが、目を瞑って動かない。
やっぱりこれは夢なのか?
もう何がなんだか分からない。
「おーい」
声を掛けてみても動きはない。
「すみませーん」
……へんじがない、ただのラブドールのようだ。
一応触ってみようと恐る恐る手を近づけて顔を触ってみる。
ぷにっとした感触で少しだけ暖かい。おそらく生きてる。
人なのか?
「すいませーん、まーだ時間かかりそうですかねー」
大きめの声で起こしてみる。
さすがに反応して、その人らしきものが身じろぎした。
瞼がスローモーションのようにゆっくりと開いたその瞬間。
「ヒャグッ!」
こちらの顔を見て驚いたのか、洞の中でビクリと飛び跳ねたかと思うと、強かに後頭部を打ち付けた音が響く。
それと同時に変な声を上げた後、頭に手をやって小刻みに震えている。
「あっごめん……」
これはかなり痛そう。申し訳ないのでとりあえず謝る。
頭を押さえながらこちらを睨みつけ、何か文句を言おうとしたのか口を開いたまま、現状に気が付いたのかキョロキョロと周りを確認しはじめた。
開いた口は一言も発せられないまま閉じて、怒った顔がストンと何もなかったように無表情になる。
顔が小さければ身体も小さい。子供だ。
白い服を着た、長い金髪の女の子。
「あの、大丈夫、ですかね?」
明らかに日本人ではないだろう相手に日本語で問いかけるが、女の子は無表情のまま固まってしまったように動かない。
「あー、メィアイヘルプユー?」
無反応だ。通じてないっぽい。
同じように異世界で目を覚ましたばかりの可能性もあるので自己紹介してみる。
「マイネイムイズ、タチバナ」
……無反応。
さすがに誰でも知ってるような英語くらいは普通知ってるだろう。
やっぱり異世界だ。そして目の前にいるのは異世界人だ。
それにしても動かないな、この子。
とりあえず穴の中にいてもしょうがないか。
外に出られるように両手を差し出すと、ビクリと身体を震わせてこちらを見つめてくる。
これはもしかして怖がられてる?
「大丈夫だよ、とりあえず出よう」
……全然手を握ってくれない。
仕方ない。無理矢理になるけど出てきてもらおう。
ゆっくりと女の子の脇に手を入れて持ち上げるが、結構重い。三十キロ以上だ。
筋肉痛の非力なIT系もやしっ子が持ち上げるには無理がある。
こちらの苦しい表情を見て、女の子が自主的に洞の縁に手をかけて体を出してくれたのでそのまま引っ張って地面に降ろしてやる。
洞の中だと暗くてよく分らなかったが、服は洗剤のCMに出てくるくらいに泥まみれで、顔の良さとはかなりアンバランスに見える。
白人っぽいけどアジア系の血も混ざってそうな顔立ちで、子役かアイドルのように可愛らしいが、されるがままというか、人形みたいな感じで地面に突っ立っている。
……それにしてもこの子、ションベン臭い。
下を見るとやっぱり白いワンピースの下側が裾まで濡れていた。
女は男みたいに我慢が効かないとは知っていたけど、さっきのでそんなに驚かせちゃったか。
「あー、日本語わかんないと思うけど、本当にごめんね?」
人形のように整った幼い顔と百三、四十センチ位の身長から察するに小学四、五年だとして……大体十歳くらいか。
「……てぃろ」
少女はぽつりと一言呟くと、ゆっくりと森の方へ歩いていく。
「ん、どした?」
どこにいくんだろうか、さっきの「てぃろ」ってどんな意味だ?
十メートル、二十メートルと遠くへ裸足で歩いていく少女を大樹の所から動かずに見守る。
もしかしてトイレ?
そして三十メートルくらい離れたところで少女がちらっと振り返ってこっちを見たかと思うと、森の奥に向かって一気に駆け出した。
「あ、え?」
逃げた。
俺の顔のせいなのか、服のせいなのか、言葉のせいなのか。いや、漏らしてたからか?
あんな小さい女の子からも忌諱されるのか。だとすると町に行ったところでまた追い回される可能性が高い。
いや、きっと村の子供が森で遊んでいただけだから、親から俺という不審者が森にいることは聞いているはずだし……。
ん、なんかおかしいぞ?
逃げられたショックで頭がうまく回らない。
そんなことを考えている間に、少女は百メートル以上遠く離れて小指の爪ほどの大きさになっていた。
「おーい、気をつけてなー!」
こちらに顔を向けながらダッシュで帰っていく少女に手を振る。
そのまま少女は見えなくなるだろうと思ったら、遠くで動かないまま立ち止まってこっちを向いている。
何なんだ一体……。
これからあの女の子が村に戻ると、十中八九この大樹付近は山狩りの対象になるだろう。
更に川までの道標として枝をがっつり折っているから、あの川まで追跡の範囲が及ぶとなると、洞窟が見つかってしまう可能性もある。
もしかして、俺がこれからどこに行くのか監視しているのか?
疑心暗鬼に陥ってしまったのか、ネガティブなことしか考えられない。
とりあえず沢まで戻ってみよう。遠くに突っ立ったまま追ってこないなら大丈夫だ。
水分を補給してから折れた枝の方へ歩き出す。
出来るだけ後ろを気にしないようにして五分ほど歩いたが、我慢できなくなって後ろを見ると、少女がしっかり追ってきていた。
距離は大体百メートルくらいか?
いや、前よりも少し近くなった気がする。
更に五分歩いてまた振り返ると同じ距離感をキープした少女がぴたりと動きを止める。
だるまさんが転んだかよ。
内心でツッコミを入れつつ、なるべく早いペースで沢へと歩を進める。
十分ほど早歩きで進むと、さすがに体格の差が出たのか結構遠くに少女が見えた。
これなら引き離せる。
更に早足で五分ほど駆けて狼がいた岩場で振り返ると、少女の姿はなくなっていた。
ゼイゼイと息を整える。
これで撒けたら儲けものだが、ここから沢までもしっかり枝を折っているから多分気づかれるだろう。
沢までなら問題なくても、洞窟までつけられたら死活問題だからどうにかしないと……。
かなり引き離せているし、今の内に急いで洞窟まで戻るしかないだろう。
鞄を軽くするためにペットボトルの水を飲み干して、後ろを確認する。
「げほッ! ゲホッ!」
いつの間にか追いついてきている少女が見え、驚いてむせてしまった。
しかもこっちを見つけて凄い勢いで向かってくる。
「あっ」
遠くの岩場で少女が思いっきりこけた。あれは痛そう。
しばらく待っていると立ち上がってヒョコヒョコと片足を庇いながらこっちに向かってくる。
不憫というか、こっちは悪くないのになぜか心が痛む。
少女の方へ向かおうかとも思ったが、また逃げられてイタチごっこになるのも面倒だし、やっぱり沢まで行こう。
折れた枝を確認しながら歩を進めて川原へ降りる傾斜の付近まで来たところで、ふと少女を捕まえる方法を思いつく。
振り返っても少女は見当たらない。
向こうから見えないように傾斜の周りに生える大きめ木の陰に隠れて、息を潜めて少女が通るのをじっと待つ。
三分ほどすぎただろうか。
ようやく渓流のせせらぎとは逆方向から足音と息遣いが聞こえてきた。
音だけだが、さっき脚を怪我したのは問題なさそうだ。
通り過ぎたら後ろに廻って……廻って……どうしよう?
捕まえたところでどうする。着いてきちゃダメって怒るのか?
そもそも言葉が通じない。
見知らぬ三十代男性が小学生児童を追い回して捕まえるとか、地方紙の一面までありそうな案件じゃないか。
この世界だとそこらへんの法律はどうなってるか知らないけど、少なくとも人の命は安い。激安だ。
じゃなきゃ知らないヤツだからといって、俺に向かってすぐに矢を射るようなことはしないはず。
このまま見過ごして少女が村に帰るまで監視するのも面倒だし、下手を打って洞窟がバレるのも御免だ。
そんなことを考えている間に、木を挟んだ向こうから少女の足音が通り過ぎていく。
こうなったら……後ろをこっそり追跡してみるか。
落ち葉を踏まないよう、そろりと木を回って少女の後ろ五メートルの位置につける。
やはり転んだ足は特に問題はないのか、思っていたより普通に歩いていた。ちょっとだけ安心する。
俺の幻影を追って前へと進む少女だが、残念ながら俺は真後。
その後ろ姿を見て、このままだとあまりよろしくないことに気付く。
この川原は行き止まりだ。つまり川まで降りた後は、行き止まりへと逃げる少女を追い詰めることになる。追い詰めてどうする。それに自棄になって川に飛び込まれたら大事だ。
少しの怪我ならまだしも、大怪我だったり命に関わることがあれば、この子の親逹は本気で山狩りをして俺を殺しにくるだろう。
普通に声をかけてみよう。また逃げられるのも面倒なのでもう少し近づいてからがいいか。
影で気づかれないように四メートル、三メートル、二メートルと少女の後ろ姿に近づいて……。
よし、せーの。
「おーい」
少女はビクンと飛び跳ねて傾斜に躓き体勢を崩す。
あ、やばい。
すぐ先は川原前の下り坂だ。
「ちょっ、おい!」
両腕でバランスをとりつつも転がり落ちるギリギリのところで少女の胴に左手を回して引き寄せる。
後先考えずに引き寄せた反動で今度はこっちが後ろによろめいて、少女ごと地面に転ぶ。
石もなく枯葉のおかげで痛いところはない。
とりあえず悪戯で人を殺すことはなくなってホッと息をつくと、横たわった少女に視線を移すと目が合った。
「あー、大丈夫?」
まずは謝るべきだったかと思いつつも、どうせ言葉が通じないなら一緒かと他愛もないことが頭に浮かぶ。
少女はさっきの驚きが残っているのか、横向けに転んだまま素の表情でこちらを見たてピクリとも動かない。
気まずいので上半身を起こして顔や服についた枯葉を落としていると、少女は急に立ち上がった。
『******!、**********!』
わぁ、異世界語だ。
そんな怒ったみたいにまくしたてられても、何を言っているのか全然分からない。
驚かせたのを怒っているのか?
「あ、いや、あー、マイネイムイズ、タチバナ」
少女の剣幕に焦りながら、自分の胸に手を当てるジェスチャーで応えてみる。
『*******、****?、************』
こっちの慌てた言動に落ち着きを取り戻したのか、少女が矢継ぎ早に口を開く。
「あー、タチバナ、僕は、立花宗也、です。」
この少女から俺はどう見えているんだろうか?
「タチ、バナ?」
少女はいぶかしげに名前を呼んでくれるが、どう説明したらいいものか……。
「そう、タチバナ。あっ」
そうだ、鞄の中にいいものがあったはず。
鞄から財布を取り出し、一枚のカードを抜いて少女に見せる。
ペーパーだけどゴールドになった、と一言添えて友人に自慢していた免許証だ。
少女は若干腰が引けながらも、恐る恐る免許証を見る。
免許の写真と俺の顔を交互に見やり、顔を近づけているのは文字を読もうとしてるのか。
免許証を手元に戻して、名前の記載部分を一文字ずつ指差しながら発音してやる。
「タチ、バナ、ソウ、ヤ」
「タチ、バナ、ソウ、ヤ?」
「そうそう、立花宗也。君の名前は?」
胸に置いた手を少女へ向けて応えを促す。
少女は免許証とこちらの顔を何度か見て、考え込んでから口を開いた。
「……レティシア」
「れてぃしあ?」
おうむ返しで確認すると少女はコクリと何度か頷いた。
イエスのジェスチャーは日本と同じらしい。
『タチバナ***********、*********?』
ニュアンス的になんとなく俺のことを聞かれてたような気がする。
「俺は日本って国から来たけど分かる? ジャパン、ニッポン、えーっと、ジパング」
レティシアは困った顔をして固まってしまった。質問の内容が全然違ったか?
『*************、************************』
言葉が通じないと本当にどうしようもないことを痛感する。
「俺が立花で、君がレティシアね。俺は三十二歳だけど、レティシアはいくつなの?」
言葉に合わせて、胸に手をあて、レティシアに手の平をかざして、右手で三本指を立てた後に左手の大きく開く。
そして再度レティシアに向けて手の平をかざして答えを促してみた。
『***? ***********』
何を言っているか分からないが、両手の人差し指を一本ずつ出してこっちに向ける。
「おお、十一歳ってことか」
『***************、***************』
よく分からないが、とりあえず意志の疎通ができたことに二人して笑顔を向けあう。
そのときレティシアからクゥ、と可愛らしい音が鳴った。
腹が減っているのだろうか、少し恥ずかしそうにしている。
『**、************』
なんだろう、腹が減ったって言ってるのか?
蟹も手持ちはなくなったし、水は……さっき全部飲んだか。
鞄からペットボトルを取り出して中身を確認する。
『****!』
レティシアがいきなり声を上げてペットボトルに食いついてきた。
「え、これペットボトル、って知ってるはずないか」
ペットボトルをレティシアに渡すと恐る恐る受け取った。
『***、**********、**********!』
突然興奮しながら何か言っている。おそらく凄いとかそんなところだろう。
この異世界だとペットボトルは超貴重、いや、オーパーツみたいなもんか。
それにあんな原始的な村に住んでたら尚更だろうな。
「ペットボトル。これは、ペットボトル、です」
ペットボトルを指差してゆっくりと説明する
「ペ、トボトル」
「そうそう、ぺ・トボトルじゃなくて、ペットボトルね」
「ペトボトル!」
惜しいけどもう正解でいいかと、苦笑して頷く。
「ペトボトルー!」
レティシアは目をキラキラさせながらペットボトルを両手で高く掲げた。
そのまま空を見るとそろそろ夕方が近そうだ。
さて、これからどうすべきか。
お互いに名前と年齢は分かったけど、他のことはさっぱり分からない。
このまま村に連れて行ってもらえたら……いや、殺されるのは絶対イヤだ。
一見無邪気な女の子だが、大樹の所から俺を追いかけてきたんだ。
名前と歳以外は何も分からないのに命を預けるのは軽率すぎる。
緩んだ気持ちを引き締める必要があることは分かっている。
ただ、数日ぶりの人との会話、そしてこうやって笑いあえているということがたまらなく嬉しい。
とりあえず今は喉が渇いたから川まで下りよう。
「レティシア、ペットボトル」
そう言うと素直にペットボトルを返してくれるレティシア。
よく考えると持ち逃げの可能性もあったか、いや、持ち逃げしても追いつけるから大丈夫だからそれはないか。
ペットボトルを鞄に戻して、川原へ下りる傾斜の方向を指差す。
「レティシア、川のとこまで下りるよ」
『*************』
なんとなく分かってくれたような気がしたので、斜面から伸びた木の根や草を掴みながら傾斜を下りていく。
レティシアは身体が小さいので大変そうだが、足元を確認してちゃんと下りてきている。
最後の段差はレティシアがこっちに手を伸ばして降ろしてと甘えてきたので、仕方なく脇から持ち上げて降ろしてやる。
今はまだ女性らしさはないものの、顔は良いし、あと四、五年もしたら性的な対象として見てしまうかもしれない。
生きることに精一杯でそんなことを考える暇がなかったからだろうか、幼い少女の体温が妙なほど手から離れなかった。
川原を降りて一緒に歩くと、レティシアが走りだし、手で掬って水を飲み始めた。
よっぽど喉が渇いていたのか。
その隣で腰を下ろしてペットボトルに水を入れる。
『****!』
水を飲みながらそれを見たレティシアが大声を上げた。
なんだコイツは。
「ペットボトルだよ、さっき見せたでしょ。ほら、水飲んで、これで蓋するの」
言いながら一口だけ飲んで最後に蓋を回してから、ペットボトルを横にする。
『**********、*********?』
何がそんなに衝撃だったのか、ポカーンとした顔をしながら何か問いかけてきた。
口で説明なんて出来るわけがないので水の入ったペットボトルをレティシアに渡すと、レティシアは蓋を回さずに引っこ抜こうとする。
「オイオイオイ、違うって。蓋は回すの、こうやって」
レティシアが持ったペットボトルに手を添えて蓋を回してやると、蓋がクルクルと持ち上がる。
その蓋を持って、不思議そうに色んな角度から観察している。
ボトルの螺旋構造に気づいたのか、蓋の裏側と見比べてから蓋をつけて回すと、当然蓋が回転して閉まる。
レティシアはゆっくりとペットボトルの傾けて真横にすると、自慢げにこちらを見てきた。
「はい、よくできました」
頭をポンポンしながら褒める。
するとなぜか唖然とした顔でこっちを見上げるレティシア。なんなんだ?
『*、******************、***********、*******************、****************************************』
なんか急に顔を早口で喋りはじめた。どうしたの君?
「ごめん、全然分からん」
『***、************』
伝わったのか、なんとなく落ち込んでいることは分かる。
怒らせたわけじゃないみたいだから良かった。
それにしてもこれからどうするべきか思案していると、グゥと今度は俺の腹が鳴る。
「……蟹食うか?」
「カニクーカ?」
真似をして頭を少し傾げながら復唱するレティシア。可愛すぎだコレ。
こんな娘がいたら絶対溺愛していただろう。結婚した同級生たちが親バカになるのも分かる。
蟹が潜んでいそうな岩を持ち上げると、下にいた蟹がカサカサ逃げ出すのですぐに捕まえてレティシアの目の前に差し出す。
「かに」
「カニ!」
レティシアの手の平に落とすと、ワタワタと小躍りしながら手の中の蟹と格闘しはじめた。
蟹を触るのは初めてなのか?
もしかして毒を持ってるとか? いや、食べても全然平気だしそれはないか。
蟹は下流の方にもいるだろうし、田舎の子供が川遊びをしないはずはない。
前から頭の片隅にあった違和感のピースがパチリと填まった、ような気がする。
もしかして、レティシアは村の子供ではないのでは、という可能性が浮かび上がる。
そもそも俺という危険人物が山に逃げていて、親が子供を、しかもこんな可愛い女の子を外に出すか?
絶対ない。あの村の環境や俺に対する剣幕を考慮すると、厳戒令を出して女子供は村の内に避難させるだろう。
実は俺が徒党を組んでいて、偵察として単独であの村に行った、と考えても不自然ではないはず。
であれば、やっぱりレティシアが森の中にいたことはおかしい。
でも、家出して迷い込んだという可能性はあるか……。
一応その線も頭に残しつつ、蟹と戯れるレティシアを見る。
それにしても蟹を初めて触ったようなあのはしゃぎっぷりはとても村娘とは思えない。
女は村の外に出ちゃいけないとか、そんな風習でもあるのか?
それこそ家出して森の中に入ったという事実に矛盾する。
口減らしならこれからの若い娘より年寄りを……いや、価値観の違いはあるだろうからそこは分からないか。
「あーくそっ」
考えれば考えるほどに結論がまとまらず、いくつもの可能性が複雑に絡み合う。
家出、口減らし、俺と同じように他の世界からワープ、転移したのか、それとも……山頂から見えた馬車が関係しているのか。
家出の可能性は低い。俺を追ってくる理由がない。
口減らしだとすると……村から一時間ちょっとの大樹に捨てるか?
もしかしたら捨てた所からレティシアが大樹の所まで戻ってきたということも……そんな半端な捨て方はしないだろうからやっぱりこの線も薄い。
可能性が高いのは俺と同じ異世界からの転移と、件の馬車か。
言葉は通じないけど、西洋人っぽい外見なのにペットボトルであの驚き方というのは少し不自然だと思う。
仮定だが、俺と同じ世界からじゃなくて、また別の世界から来たという可能性はあるかもしれない。
あとは村へ向かっていた白い幌の馬車。
馬車で旅する行商だと勝手に想像していたけど、もしかしたら奴隷商かもしれない。
どちらにしろ、山賊か獣に襲われて逃げ出して一人になったか、村に着いたら俺みたいに追いかけられて一人になった。
他にも見落としている可能性はあるだろうけど、思いつくのはそんなところか。
重要なのは、村の人間じゃないなら洞窟で一緒に住めるということ。
レティシアはまだ子供だけど、一人より二人の方がいい。
孤独のまま洞窟で過ごすのは嫌だし、知恵を出し合えば獣の対策も出来るかもしれない。
それにレティシアがこの世界の人間なら、時間はかかるだろうけど言葉を教えてもらえる。
そうしたら意志の疎通をとって村に入れる日がくるかもしれない。
しかし、今までのレティシアは全て演技で、実は村の偵察だとしたら。今も木陰から別の村人が俺を監視しているとしたら。
不穏な想像に恐くなって辺りを見回すが、俺たち二人以外に誰もいない。
レティシアは手からこぼれた蟹をどうにか捕まえようと右往左往している。
「なーにやってんだよ」
もしこれが演技なら、死んでもしょうがないか。
それから蟹を二十匹ほど集めて岩で叩いて締める。
レティシアは沢蟹をペットにでもするつもりだったのか、その様子を見てドン引きしていた。
やっぱり村の人間じゃないのかと思案しつつも、子供心に少し悪いことをしたかなと思ったが、これがメインの食料なんだから自然の厳しさと大切さは教えておくべきだ。
それに、俺だって蟹を食べたくて食べてるわけじゃないし、できれば米とか穀物の方がいい。納豆ご飯食べたい。
二人で枯れ枝を探し集めて、いつものように蟹を焼く。
百円ライターを見たレティシアが飛び跳ねて驚くだろうと思ったのに、結構普通のリアクションだった。なんで?
焼いた蟹をまず俺が食べる。
バリボリと音を立てて噛み、嚥下したらペットボトルの水で流し込む。
それを見たレティシアがこんがり焼けた蟹をつまみ上げ、匂いを嗅いだり繁々と観察してから口の中に放り込んだ。
意外と好きな味だったらしく、こっちを見て笑顔になると二匹、三匹と食べ続ける。
塩が効いてたらもっと美味しい、ということを伝えたいけど伝える手段がなくてもどかしい。
蓋を開けたペットボトルを差しだして、飲んでいいよと顎をしゃくって促すと、嬉しそうに水を飲み始めた。
それから十匹ずつ食べて腹六分目くらいだが、レティシアは満足そうにお腹をさすっている。
『「カニ」、******、*****』
俺に分かりやすいようにか、言葉を区切って言う。カニが美味しかったってことでいいのか?
聞こえてきた言葉をそのまま復唱してみる。
『蟹、オイシカッタ、アリガトウ』
目を丸くするレティシア。
『かに、オイシカッタ、アリガトウ』
大げさな手振り身振りでさっきと同じことを言ってくる。
地面を指差して『かに』。発音は俺に合わせて日本語っぽくなっている。
パクパクと食べる動作の後にお腹を押さえて笑顔で『オイシカッタ』。笑顔だから美味しいってことか?
こっちに向けて手の平を差し出して『アリガトウ』。これは感謝の言葉か。
『蟹、おいしかった。ありがとう』
真似をしてジェスチャー付きで復唱するとレティシアはにっこり微笑んだ。
意味が合っていれば、もう二つも異世界語を覚えてしまった。
それからしばらくは二人で笑いながら何度も三つの言葉を言い合った。
この異世界でも時間の流れは不変であり、空は茜色になりかけている。
あれからレティシアは帰る素振りを見せず、俺と一緒に保存用の蟹を何匹も捕って焼いていた。
「レティシア、帰るとこないの?」
日本語で尋ねると、レティシアは蟹の焼ける香ばしい煙に目を瞬きながらこっちを見て、地面に視線を落とす。
『******、*************、***……タチバナ******************』
しょんぼりして何かを言ってるけど、タチバナの部分しか聞き取れない。
リアクションからして村に帰る感じではない。
時間もないし、腹を括るか。
「よっし!」
鞄から出したペンケースに焼き終わった蟹をさっさと詰めて、焼きかけの一匹は俺が食う。
飲み込むと不安そうにしているレティシアの手を掴んで、出来るだけ笑顔を向ける。
「一緒にいくか」
『**!』
返される笑顔で、俺でも「イエス」の返事だと分かる。
さっきのは『はい』か『うん』だろう。
川原から一旦山道に戻って、洞窟への道を進む。
レティシアの進むペースに合わせているため、一時間くらいかかるとなると到着は夕方ギリギリか。
とにかく安全が一番だから、内心では焦っていても怪我をしないよう、急かさず慎重に進んでいく。
手を繋いで川を渡って傾斜を登り、洞窟に着いた頃には空には月と星が輝いていた。
「到着でーす。あー疲れたぁ」
ここまで来る間、一言も喋らなくなったレティシアは暗がりの中、どうも緊張しているように見える。夜が怖いのか?
先に洞窟に入ってから入口をライターで照らしてやると、レティシアが恐る恐る洞窟に足を踏み入れた。
ライターをつけたまま葉っぱの絨毯の上に胡坐をかいて腰を下ろすと、同じように胡坐で座ってくれた。
「よし、後は寝るだけだけどデコボコには気を付けてな」
ライターの火を消して横になり、居心地がいい場所を探してもぞもぞ移動する。
真っ暗になった洞窟の中、レティシアは座ったまま動かない。
「レティシアも寝ていいよ?」
声をかけても動かない。意味は分からなくても返事くらいしてほしい。
「寝る前にトイレいくわ。ちょっとゴメンな、あ、水はここに置いとくから好きに飲んでいいよ」
入口のそばに置いた鞄からペットボトルを取り出して置いておき、洞窟を出ようとしたとき。
『***! *********!』
なんか怒られたっぽい。何もしてないのに。
急に立ち上がったレティシアが俺の服を掴んでくる。
ああ、もしかしてさっきのは『一人にすんな』ってこと?
服を掴む手を握って外に出る。
「ちょっと待っててな」
繋いだ手を離して頭をポンポンと軽く叩くと、少し離れた木のそばでチャックを下ろして用を足す。
気になって後ろを見るとこっちを凝視するレティシアと目が合ったかと思えば、お互い気まずくてすぐに目を逸らす。
「ごめんなー、レティシアはトイレ大丈夫?」
用を足して振り返ると月に照らされたレティシアがもじもじしていて可愛い。
こっちにきて俺の手を取るとそのままの勢いで洞窟と逆方向に歩き出した。
木の前で止まると、こっちを見ながら両耳を塞ぐジェスチャーをした後に洞窟の方を指差すレティシア。
おう、一丁前に恥ずかしいのか。
しょうがないので耳を塞いでから五メートルくらい離れると、レティシアは木の後ろに周って見えなくなった。
心配なのでちょっとだけ耳から手を離すと水音が聞こえる。
もしかしたら大きい方かもと思い、さすがに手を当てなおして耳を塞ぐ。
そうしていると一分もしない内にレティシアがダッシュで戻ってきて俺に体当たりをかましてくる。
なんだコイツは。
俺の服を握りしめて体に顔を当てたまま動かなくなったと思うと、手を震わせ、声を潜めて泣いていた。
……十一歳の女の子だ。よく考えたら当然か。
どんな事情であの大木の洞にいたのかは分からないけど、いつか話せるようになったら分かるだろう。
早く異世界語を覚えないと。
そう考えながらレティシアを抱きしめて背中をなでると、堰をきったように声をあげて泣き出した。
それからしばらく、少女の嗚咽が森の中に響いていた。
レティシアが落ち着くまで二人で月に照らされてから洞窟に戻ると、一応レディーファーストを気取ってレティシアを奥に、俺は入口の方で寝転がる。
奥は真っ暗でレティシアの姿は見えないので目を瞑ってから一声かける。
「んじゃ、おやすみー」
『ありがとう、タチバナ。*******』
早速覚えた異世界語が出てきた。最後の言葉は分からなかったけどなんだろう?
そう考えている間に、意識は眠りへと落ちていった。
異世界後は『』表記です。中の文字『*』は一つあたり一文字の平仮名が入ります。
セリフはちゃんとあるのですが、投稿時に消してから投稿しています。
リクエストがあれば公開します。