明け烏の夜咄
からすの鳴く声がする。
ああ、もうそんな時間かしら。
そんなことはない。
だってまだ――。
エリザベートが目を開けたのは目覚まし時計が鳴る、十分前だった。
彼女は立ち上がり、カーテンを開ける。
朝日が出ていた。
まぶしい、と思い、目を伏せると、視界の端に黒いものが通り過ぎる。
「……何かしら」
再度黒いものが通り過ぎた場所を見ても、もう何もなかった。
彼女はわずかばかり考えて、くちびるに手をあてる。
からす、のような。
考えていても仕方がない。
エリザベートは揚羽蝶の刺繍をほどこされた着物を着て、鏡台の前にすわる。
かんざしを選ぶのは、彼女の楽しみだった。
今日は橙色の菊をかたどった、今では珍しいべっこうのかんざしを選ぶ。
豊かなブロンドの髪の毛を結い、かんざしを挿した。
それから窓を開けると、涼やかな風がほおを駆ける。
「いい風ね」
思わずほほえんで、一階へ降りた。
とたん、いいにおいが広がる。
卵焼きのにおいと、コーヒーのにおい。
キッチンには、三つ揃えのグレイのスーツを着た男が、フライパンを持っていた。
男――魔女エリザベートの、使い魔である楓は、わずか驚いたように、彼女を振り返る。
「おはようございます。お嬢様。今日はお早いですね?」
「おはよう、楓。今日はすこし、おかしな夢を見たわ」
「おかしな夢……ですか。お嬢様には、特別な力がありますので……何か意味がありそうですが……」
「そうね……。まあ、何かあれば向こうからやってくるでしょう」
楓はフライパンを戸棚にしまい、席に座った。
「いい色の卵焼きね。楓、また料理の腕があがったのではない?」
「ありがとうございます、お嬢様。よい卵を手に入れたので」
「よい卵? そう。卵によっても味が変わるのね」
「ええ」
白くつやつやとしているご飯。
あさりの味噌汁。
食後のコーヒー。
朝食がおわったら、店の準備だ。
骨董品店の戸の鍵は特殊で、エリザベートの魔法ではないと決して開かない。
人差し指を、すい、となでると、鍵が開く。
「……あら?」
戸を開けると、すぐ足もとに黒い大きな羽が落ちていた。
「からすの……羽ですね」
「からす……あ」
「お嬢様?」
今朝見た黒い影。
もしかするとやはり、からすだったのかもしれない。
「楓、からすの……たしか四曲一隻の屏風があったのではないかしら」
「はい。たしかに。出してまいります。しばらくお待ちください」
「お願いね。……さて」
エリザベートは店内を見回すと、ふいにカタリ、と動く根付に視線を下げる。
小棚に置かれているちいさな根付が再度、カタリ、と動いた。
『おはよう、エリザベート。また何かあるのかい?』
「おはよう、みんな。今日も元気そうね」
『やだなぁエリザベート。ただのツクモに元気も何もあるかい』
「あら。そうだったかしら」
『そういえばエリザベートが起きる前に、入口のあたりが少し、騒がしかったよ』
「……そう。ありがとう。やっぱり……」
からすだったのだろう。
ほおに手のひらを当てて、すこし目とを閉じる。
足もとに意識を集中させた。
ちいさな足跡。鳥の特有の、細くてちいさな。
それをたどると、やはり――、
「お嬢様」
楓の声で、視線を上げた。
店の奥まった場所に置かれた屏風は、確かにからすが描かれていた。
薄暗い、明け方の空に鳴く、明けのからすの絵。
歌や都々逸では珍しくはないが、こうした屏風絵では珍しいと思う。
「ありがとう。楓」
「それにしても、珍しいですよね。この四曲一隻の屏風絵」
「ええ。それに、このからすの羽。なんだか、意味ありげではない?」
「たしかに……。けれど、何事もなければよいのですが……」
楓が伏目がちにささやくと、がたん、と、木でできた戸を叩くような音が聞こえた。
エリザベートは、さっと裾を払い、戸を開ける。
「ああ……ここ、に……」
か細い声で、壁によりかかるように倒れている女性がいた。
エリザベートはすぐに肩を抱き、彼女の顔を見下ろす。
「大丈夫ですかお客様。楓。お水をお願い。さあ、こちらへ」
「……あ、ありがとう……」
お世辞にも広いとは言えない店内に、椅子を用意して彼女を座らせた。
女性の顔はひどく青ざめ、身につけているワンピースはところどころ、泥で汚れていた。
「どうされたのですか? こんなにお召し物を汚されて……」
「わ、私……追っていて……」
「追う?」
「ええ。……影、を。追って。鳥の、……影」
楓が持ってきた水が入ったコップを渡すと、女性は両手で受け取り、そっと飲み込んだ。
かすかなレモンのかおり。
レモンを入れた水を持ってきたのだろう。
よい判断だ。
「鳥……もしかすると、からすでは?」
「はい、そうです。からす……。からすが、ここへ私を連れてきたの」
「失礼ですが、どちらからいらっしゃったの?」
「N県から。そう、私……県を超えてきたの。そして歩いて……ここまで」
いくらか落ち着いてきた女性の名を聞くと、名は凪、と言った。
凪は長い髪の毛を梳きもせず、ひどくばらばらだ。
まるで、着の身着のまま家から飛び出してきたような。
「そうでしたか。それは……疲れたでしょう。よろしければ上へ上がってお休みになってください」
「……ありがとう、ございます。お言葉に甘えさせてください」
「楓。凪様を上へ」
「かしこまりました」
凪は楓に支えられ、上へあがって行った。
おそらく、客間へ上げたのだろう。
エリザベートはひとり、小棚に置かれて売られる様子もない根付に視線を下げた。
「どう?」
『どうもこうも。凪って言ったっけ。あの子、つられてやってきたに違いないよ』
『そうそう。絶対そう』
「やっぱり、からすが彼女を……」
エリザベートはひとつうなずき、戸へと人差し指を向けると、かちゃり、と音がして鍵が閉まった。
そのままきびすを返し、客間に通じるふすまを開ける。
「凪様。お加減は……」
横になった彼女は、先ほどよりも顔色はよくなっていた。
それでもまだ、立ち上がれるほどの気力はないようだ。
「ええ。だいぶ、いいです」
「まだ横になっていらして」
「はい……」
「何かあれば、おっしゃってください。お店におりますので」
「ありがとう」
エリザベートが再度、ふすまを開けて裏口から外へ出ると、楓が仰々しく頭を下げた。
彼の足もとに、猫がいる。
猫はにゃあ、と誇らしげに鳴いた。
「水破。久しぶりね」
『久しぶり。エリザベート』
「この、からすの羽」
水破の鼻のあたりに羽を差し出すと、彼女は黄金色の目を細めて、ひと声、鳴く。
『そのからすなら、エリザベートの家に入っていったよ。出したでしょ。からすの屏風』
「ええ。……凪様がここへ入るときに一緒に入ってしまったのね」
『入って行ってよかったよ。だって、その人の運命の人だもの』
彼女はあくびをして、後ろ足で顔を掻いた。
なんともないようなふりをして。
『あの屏風はその人と何かしらの縁があるのかもね』
「そう。参考になったわ。ありがとう水破」
彼女はにゃあと鳴いて、さっと裏口から走って去って行った。
「やはり、そうなのね」
「お嬢様。何かご存じなのですか?」
「あの明けのからすの絵は……凪様と関係があるようね。たとえば……恋人、とか」
「恋人……」
「ええ。凪様の体調がよくなったら、それとなく聞いてみましょう」
裏口から再び店頭に出て、屏風を見つめる。
明け方の空に飛ぶ、からす。
恋人の逢瀬を「もう時間だよ」と邪魔をする明けのからす。
「ねえあなた。聞こえる?」
屏風の端に手をおき、問いかけた。
話ができるのならばよいのだが。
『……僕の声が……聞こえる人、ですか?』
おだやかな、男性の声だった。
「ええ。私はエリザベート。あなたが彼女……凪様を連れてきたのでしょう?」
『はい。そうです。どうしても伝えたいことがあって』
「伝えたいこと?」
『彼女――凪に。僕を描いた彼は、ここに来てくれる。そして僕を連れて行ってくれる……』
「彼の名前は?」
この明けのからすを描いた人は、きっと、凪の恋人なのだろう。
そして彼も、ここにくる。
凪の恋人も、なにかにつられて来るのだろう。
『彼の名前は、直樹。けれど、このままでは』
「……お嬢様。こちらに貼られているのは……」
「これは……」
顔を近づけてみると、一羽のからすの下に、正方形の和紙が貼られていた。
今まで気づかないくらい、きれいに貼られ、上から塗られている。
指ですっと撫でると、和紙が剥がれ落ちた。
「お嬢様……!」
「だいぶ、執念深いわね」
彼女の魔力がたまる場所である人差し指のうすい桃色のマニキュアが剥がれている。
人の思いというものはひどく強い。
これを貼った人間の、思いも同じく強かった。
エリザベートは軽く手をふると、人差し指には再度、桃色のマニキュアが塗られた。
「けれど、きっとこれで凪様の恋人を連れてこられるでしょう」
「からすが二羽……。これで意味がまるで違って見えますね」
「そうね。きっとつがいのつもりで、直樹様は描いたのね」
隣に飛ぶ、からす。
二羽目のからすの思いはここにはない。きっと、今、空を羽ばたいて、直樹を連れてくる。
かたん、と音がした。
引き戸が開く音だった。
「あの……すみません……」
急いで走ってきたのは目に見えている。
ぜいぜいと呼吸をしながら、よろめくように店内に入った。
「ぶしつけですが、直樹様ですね?」
男性は、やさしい目をしていた。
短い黒い髪。
黒いシャツにグレーのカーディガン。
黒いパンツに黒いブーツ。
からすの色だ、と、エリザベートは思う。
「はい。……はい。僕が直樹です。からすを追いかけて……それて、凪がここにいるかもしれないと、そう思って」
「よかった。お客様がいらして。楓。凪様をお連れして」
「かしこまりました」
楓は上品に首を垂れ、客間へ向かった。
椅子をすすめても、直樹は首をふるだけだった。
それだけ、精神が高ぶっているのだろう。
「あなたが、この四曲一隻の屏風を描かれたのですね?」
「はい……。ですが、もうだいぶ前のことです。まさか、骨董品店に売られているなんて」
「こちらは特別ですの。預かっていたものですから」
「預かっていた……?」
「ええ」
エリザベートは深くうなずき、どこから預かったかは言わなかった。
この四曲一隻の屏風は、隣町の美大から預かったものだった。
そして、美大であの正方形の和紙を貼られたのだろう。
直樹はわずかに視線をさげ、それ以上問われることはなかった。
「直樹……!?」
「凪!」
顔色がだいぶ良くなった彼女は、驚いたように両手でくちびるを覆っている。
直樹は凪のもとに走り寄って、よかった、また会えた、とささやいた。
「二羽のからす。これは僕たちだよ。凪。きっと、また会えると思っていた……」
「直樹……直樹、ありがとう。また会えただけで、私、うれしい」
直樹は、絵の具だらけの手で、凪の手をぎゅうとにぎった。
彼の横顔は、温厚で、やわらかだった。
「からすが、繋いでくれた縁です。どうか、こちらの屏風をお持ちになって。配達させていただきますから。そして、もう手を離されませんよう……」
「はい。ありがとうございます」
直樹は深く頭を下げる。
そして頭を上げてから、彼は昔の話をするように、目を細めた。
「僕たち、10年も前に離れ離れになってしまったんです。その時には携帯電話も持っていなかった。凪の家を訪れた時にはもう、彼女の家は空だった……」
「私の家は、売られたの。ある日いきなり、片手で持てるだけの荷物を持って、違う場所へ連れていかれた。ここと、ふたつも県をまたいだ場所だったから、まだ小学生だった私は、ひとりでここに来ることもできなかった……」
そして、凪は言った。
私を見つけてくれてありがとう、と。
「でも、また直樹とこうして会えた。きっと、あなたとこの屏風に描かれた、からすのおかげだわ」
「縁は、とても大切なものです。二つとない縁もあるものです。どうか、その縁を大切になさいますように」
「はい。……この屏風なのですが、本当に僕たちが引き取っても……?」
「ええ。お客様が描かれたものですもの。持ち主であるあなたの手に戻るのは自然なこと」
「ありがとうございます」
ふたりは手をつなぎ、店を出ていった。
ほんとうにありがとうございます、と言って。
「この屏風、運賃いくらになるのでしょうか……」
「どうかしらね。けれど、よい結果になってよかったっわ」
「お嬢様……」
「ふふ」
もう、縁の糸が切れぬように、とエリザベートは思う。
明けのからすの屏風絵は、もうなにかをささやくことはなかった。