牡丹の幽か
「エリザベートさん!」
「あら……」
急ぎ足で入ってきたまだ若い男性が建てつけの悪い戸を、無遠慮に開けた。
「坂木様。どうされたのですか? そんな急がれて」
坂木薫。
彼はこの柘榴堂の常連で、近くの店舗でカフェを経営している。
「た、大変なんだ、エリザベートさん!」
「楓。坂木様に冷たいお水を持ってきてちょうだい」
「かしこまりました」
楓が急ぎ足で台所にむかうと、エリザベートは薫に椅子をすすめた。
彼は深呼吸をして、椅子にすわりこむ。
相当動揺しているらしく、落ち着きなく周りを見渡しはじめた。
「前に……一か月くらい前に、掛け軸を一幅、買い取っただろう?」
「ええ。たしかに。牡丹図――」
「そうなんだよ、牡丹の。その掛け軸に、染みができてるんだ!」
「あら、珍しいですね? 坂木様が掛け軸を汚してしまうなんて」
「違うんだよ、あ、楓さん、どうもありがとう」
楓が盆をもって水を差し出すと、薫はそれを一気に飲み込んだ。
コップを盆にもどすと、彼はすこし落ち着きをとりもどしたのか、肩をおとした。
「汚れじゃないんだ。染み。それも、ひとのかたちをしたもの」
「ひとがたの染み……ですか。その牡丹図は今、お店に?」
「はい」
「では、今から行ってもよろしいでしょうか? すこし、私に心当たりがありますので。楓。出かけるから、準備してちょうだい」
「はい」
楓はエリザベートがじきじきに魔法を施した鍵を持つと、三人で店を出た。
盆を過ぎて、朝晩はすずしくなった。
けれど、昼はまだ暑い。
エリザベートは、柳に水鳥の刺繍をほどこされた淡香の地の着物を着ているが、この時期にはすこし、濃かっただろうか。
朝は涼しいものだから、しかたがない。
薫が運営するカフェ、「てまり花」は、ここから歩いて10分ほどだ。
その名を冠するにふさわしい、オオデマリが店のまえに植えられている。今は時期ではないから、葉の緑が目に眩しい。
「どうぞ。今日は臨時休業にしたんです。あまりにも……」
「? どうされました、坂木様」
「いや。不気味、と言おうとしたんだけど、そうじゃないんだよな……」
不思議そうに首をかしげる薫は、別に強がっているわけでも、嘘をついているわけでもないようだ。
エリザベートは、ふいにか細い女性の声を聞いた。
「案内してくださるかしら。坂木様」
「こっちだよ」
店内は、ぱっと見て茶色、というイメージだが、衣桁に振袖がかけられていたり、茶道具の茶碗が古くともいい箪笥の上に置かれていたり、薫の趣味がうかがい知れる。
『あれ、エリザベートじゃない。どうしたの、久しぶりだね』
茶碗が上機嫌にしゃべりかけてくる。エリザベートはその茶碗にわらいかけて、「あなた、牡丹図のことをしらない?」と問うた。
『ああ、あの牡丹図。なんだかとても悲しそうだよ。もっとも、牡丹図が、というより、そのあたりの空気が、っていう感じだけど』
「エリザベートさん? こっちだよ」
「今参ります。ありがとう、元気でね」
奥の座敷――薫の私室にそれは飾られていた。
作者は有名ではなく、しかも手慰みで描かれた簡素なものだが、薫はそれを気に入ったらしい。
この掛け軸は珍しく、「個」がない。
いわゆる、「いわくつき」ではないのだ。
だが、手に渡ってきた数がおおい。柘榴堂ではない、ほかの骨董屋から渡ってきたそれは、あまりいいうわさを聞かなかった。
「たしかに、ひとがたの染みのようなものがありますね。しかも、これは墨汁のようです」
「そうなんだよ。俺は別に書なんてたしなんでないし、確かに硯はあるけど、この部屋で保管していないし」
「まあ、そうでしょうね……。坂木様。あなたにお売りするときに、申し上げたような気がするのですが、これは多数の手に渡ってきたものです」
「ああ、聞きました。でも、不気味な感じも、いやな感じもしないし……」
「そうです。ここにあるのは不気味さではなく、哀しみ……というべきでしょうね」
エリザベートはひざを折り、掛け軸の軸先にふれる。
『あなたは……わたしの声が聞こえるの?』
「ええ、聞こえるわ。さっき、助けて、って言っていたでしょう?」
『ああ……やっと、助けてくれる人がきた。ねえ、どうか、助けて。このひとを』
ガラス戸が、かたかたと震えている。
風というには細かすぎる。
「うわっ!?」
「大丈夫です、坂木様。店主がいま、話をしているので。どうやら、助けてほしがっているようですね」
「ああ、エリザベートさんは骨董品の声を聴けるんだっけ……。いいな、俺も聞けたら」
「かしましいだけですよ」
楓が笑うと、薫はそれでも羨ましそうに、エリザベートを見つめている。
「あなたは、誰を助けたいのかしら?」
『……殺されてしまう……。彼の家はおおくの借金をしていて……それでも、絵への情熱は誰よりも強った。このひとの家族は昔は事業家で、栄えていたけれど……失敗してしまった。骨董品をすべて売り払っても、まだ借金はなくならなかった。家族は、何度も彼に筆を折ろうとさせたわ。でも、安物の絵具と紙で絵を描き続けた。でも、借金取りがおおぜいやってきて……』
「殺されてしまう、と?」
『そうなの。でも、わたしは……助けられない。わたしだけではだめなの。おねがい、彼をたすけて』
「――あなたは、彼が描いた、絵なのね。だから、見ていることしかできなかった」
見ているだけしかできなかった。
もう、彼女の言う、「彼」はとっくに死んでいる。
有名ではないから、よく知らないが――別の骨董屋が、殺された、と言っていた。
『そうよ。わたしは、彼が描いた、恋人だったひとの写し。彼女は肺を悪くして、若くして亡くなってしまった……。でも、そのひとの思いがわたしを生んだの。かたちを得ることができなくても、わたしは……彼が心配で』
「そう……。残念だけれど、彼はもういない。いまは、ずっとずっと先の未来なの」
『え……?』
「彼は殺されてしまったわ。あなたの絵を抱きしめたまま。その絵は彼と一緒に燃やされた。だから、もう悲しまないで。あなたがいま、この世界にふたたび来てしまったのは、この牡丹図が彼の最期の作品だから」
『う、うそよ! そんなこと……! どうしてそんなことを言うの!?』
「お嬢様!」
ガラス戸のガラスが、ぱん、と割れる。
その破片はまっすぐにエリザベートのほうへと向けられた。
薫がいちばんすぐそばにいたのにもかかわらず。
「う、うわあ!!」
楓がエリザベートの身体を抱き込まなければ、ガラス戸の破片がすべて、彼女の身体に突き刺さっていただろう。
「ありがとう、楓」
彼の身体には、傷一つない。
破片が消えている。
ひとつ残らず。
「え、えええエリザベートさん、楓さん、大丈夫ですか! ってあれ、ガラスは? どこへ?」
「ちょっとした魔法です。それより……」
立ち上がり、掛け軸を見据える。
そこには、染みだったものが、くっきりと、まるであたかも最初からそこに描かれていたように、女性が立っていた。
表情はぼんやりとしていて、微笑んでもいないし、怒っているわけでもない。
「……絵が……変わってる……」
「悲しい絵ね。ねえ、あなた。彼はもう亡くなってしまったから絵は描けないけれど、あなたがいる。あなたとその牡丹だけが、彼の生きた証になっているわ。今でも、そしてこれからも、ずっと」
『わたし……が、あのひとの……』
「忘れろなんてひどいこと、言わないわ。どうか、覚えていてあげて。彼のことを」
『……わかったわ……。でも、わたし、ひとりきりだと寂しいの。だから、ここにいさせて。せめて、彼が描いた、牡丹のそばに』
「坂木様」
呆然としている薫に向き直り、彼女が言ったとおりのことをそのまま伝える。
ここにいたいのだ、ということを。
「そりゃ、いいよ。この女性、美人だし。美人と牡丹は目の保養になるしね」
「あら、いいのですか?」
てっきり、こんな恐ろしい目にあったのだから、突き返されてもおかしくないと思っていたのだが。
薫は、先ほどのことなどすっかり忘れてしまったかのように、朗らかに笑っている。
「だって、ほら、こっちには何のケガも被害もないし」
割れたはずのガラス戸は、きれいにはめ込まれている。まるで時間が巻き戻ったかのように。
すべては楓の力なのだが、それさえも知っているのだろう。
楓が人間ではないということは、一切口外していないのだが、彼には分かっているようだった。
「ほら、絵の相も変わってる。うんうん、やっぱり女性は笑ってるともっと美人だよなぁ」
エリザベートが掛け軸の絵を見ると、牡丹をいとおしそうに見つめ、ほほえんでいる彼女がいた。
「どうもありがとう。エリザベートさん、楓さん。お礼にコーヒーでもごちそうするよ」
「あら、いいのですか?」
「もちろんだよ。一幅の掛け軸が二幅になった気分だしね」
薫は上機嫌に、水出しのコーヒーを淹れ始めた。
「ここのご主人はやはり、どこか変わっていますね」
「そう? 今時、すてきな主だとおもうけれど」
「お、お嬢様、まさか……」
「いやね、そういう意味じゃないわ。ここにいる子たちはみんな、いい主に出会えて幸せそうだもの」
そう言い、エリザベートは店内を見渡した。
「たまには、こういう出来事もすてきね」
「肝を冷やしましたが……お嬢様がご無事でなによりです」