源氏車ノ棗
今日もあまい、金木犀のかおりで目を覚ます。
今日は朝からあつい。
この家はエアコンなどないから、扇風機をまわしている。
二階のこの部屋は窓は開けていて、古い網戸がたてつけてある。
白地に藍のあさがお柄の浴衣でも、暑い。
金髪の髪の毛を軽くゆって、エリザベートは下にむかう。
「おはようございます。お嬢様」
「おはよう、楓」
使い魔の楓はこんなにも暑いのに、三つ揃えのグレーのスーツを着ている。
「お嬢様。最近食欲がないご様子ですが、お加減でも……」
「いいえ。楓。こう暑いと、いやでも食欲がなくなるわ」
「そうでしたか。それでは昼はそうめんにでも致しましょうか」
「そうね。それがいいわ」
今日の朝食は珍しく洋風だった。
レーズンの食パンに、スクランブルエッグ。つめたいパンプキンスープ。
「……ん?」
食事中、楓が顔をあげる。
エリザベートも、その「におい」に気づいた。
「なんのにおいでしょう……」
「これはお茶よ。楓」
「まさか、彼でしょうか」
「おそらくね」
正体がわかればどうということはない。
パンプキンスープをスプーンですくって、口に入れる。あまい、かぼちゃの味が広がる。
食事が終わったなら、彼に話を聞かなければ。
一回二階にもどり、軽く化粧をして、麻の着物に袖をとおす。
さらりとしていて、着心地がいい。夏には最適だ。
地は白藍。柄は金魚。
水草と赤い金魚、黒い金魚が描かれている。
「さて」
髪を結い、女郎花の意匠をかたどった、簪を髪に差し入れる。
再び一階へもどる。
8時すぎ。
そろそろ、店を開く準備をしなければ。
その前に、彼の話も聞かねばならない。
エリザベートが店に出ると、すでに楓が箱をもって待っていた。
紫色の紐をかけられた、立派な木箱。
そのなかに、彼がいる。
「開けてちょうだい」
「かしこまりました」
車箪笥の上に載っている、象牙の根付は今日はおとなしい。
いつもはおしゃべりなのだが。
「今日はおとなしいのね? みんな」
『だって、あいつを出すんだって言っていたから。みんな、あいつが苦手なんだ。はやく売ってくれないかなあ』
「いじわるなことを言ってはだめよ、仲間でしょう」
『えー』
根付がことことと動いている。
ここの骨董屋の商品は、いわくつきである。
客を選ぶし、無理やり売られていっては、戻ってくる。
そういうものがほとんどなのだ。
楓は紫色の紐をほどき、ふたをあける。
白いグローブをつけた手で箱から取り出したのは、螺鈿細工が施された、棗だ。
茶道具である棗は、芸術性の高いものとして、コレクターもおおいと聞く。
『ふう、やっと出れた。ずっと押し入れの奥にしまいっぱなしだったから、光を見るのも久しぶりだよ』
「あら、ごめんなさいね、気づかなくて」
『気づかない! この僕のことを、忘れていたっていうの!? これだから、魔女ってのは……』
「お嬢様を愚弄する気か? 噛み砕いてやろうか、直々に」
『う、うそだよ! なんでもないよ、まったく。この狼はほんとにおっかないなあ』
ぼそぼそと独り言を言っている棗は、やはり何か、用事があるようだった。
こちらをちらり、と見るような雰囲気を感じる。
「で、何の用かしら」
『今日でお別れだよ。エリザベート。楓。今日はお迎えがくるんだ!』
「あら、この前もそう言っていなかった? そうね……あれは5年くらい前かしら」
『あれは、その、家主と合わなかったんだよ。最初はよくしてくれたけど、飽きたら押し入れに仕舞いっぱなし。使ってもくれないし、飾ってもくれない』
「まあ、そういうこともあるでしょう。今どき、棗が絶対必要っていうわけではないでしょうから」
『はあ、これだから人間ってのは。でも、今度はちがう! 僕の運命の人だよ!』
その時、かたん、と建てつけの悪い戸がゆれる。
「ごめんください」
か細い、今にも消えそうな男性の声。
「楓。開けてちょうだい」
「はい」
この建てつけの悪い戸は、やはり慣れていないと開けることさえ難しい。
今度、直しでもいれようか。
「いらっしゃいませ」
「あなたが……店主ですか?」
「はい。雪華エリザベートと申します。あなたを心待ちにしていた子がいますわ」
線の細い、今にも倒れてしまいそうな青白い顔をした男性は、年齢さえも分からない。
楓はすこし、警戒しているのだろう。客から一歩、二歩下がって、じっと注視している。
「ああ……そうだ、この、棗……」
足がもつれそうになりながらも、その源氏車の柄を模した棗を薄い色素の目でじっと、熱心に見つめた。
「ずっと昔……僕の曽祖父が、手に入れた、大切な――」
「お客様。どうぞ、おかけになって。すこしは楽になるはずです。ずいぶんと、辛そうですから」
「………」
彼は名前を高橋一斗と言った。
隣町の美大の生徒で、日本画を専攻しているという。
「いつからそのような?」
「……あなたには、見えるんですね。俺の影が」
「ええ。あなたに憑く、悪い影。ひいおじいさまが、この棗の持ち主だったのですね」
「はい。俺が小さいころ、曽祖父がよく茶をたててくれました。立派な、茶室があって。そこで見たんです。でも、父がそれを売ってしまって……。それからです。体調がよくなくなったのは」
少なくとも、5年はずっと体調が悪いことになる。
それでよく持っていかれなかったものだ。けれど、悪い影だけはない。その影から守るようにもうひとつの影がある。
おそらくだが、この影が曽祖父なのだろう。
「おねがいします……。売ってください。この棗を。俺の体調のことだけじゃない。父はひどい人でした。曽祖父の骨董品をすべて清算してしまって、金にかえてしまった。俺と、曽祖父、祖父との思い出が、金になってしまったんです」
「この棗も、それを望んでいるわ。ねえ?」
一斗がきてから、この棗はひとこともしゃべっていない。
『ああ、懐かしいにおいがする。僕を使ってくれたひとのにおいが』
「……エリザベートさん?」
「あなたは、私がこの子たちの声が聞こえる、と言ったら信じていただけるかしら」
「え……骨董品の声、ですか?」
「そう」
エリザベートはいたずらっぽくウィンクをして、「私は魔女なの」と囁いた。
「魔女……」
「冗談はこのくらいにしておきましょう。でも、この棗があなたを求めているのは本当よ。帳簿に書いてあったわ。――高橋一樹様。この源氏車の棗を6年前、売却。一樹様というのは、あなたのお父様ですね?」
察して、楓が持ってきた帳簿を指でなぞる。
確かにそこに、一斗の父親であろう名があった。
「! そうです。一樹は俺の父の名です。やっぱり、ここで売っていたんですね。骨董屋はこのへんでは、柘榴堂さんしかありませんから」
「そうですか。なら、お売りしましょう。それが、一番の供養です。あなたを守っている、ひいおじいさまの影の」
「……その、俺に憑いている、影とは何なのでしょう……。ずっと、体調が悪くて、このせいだと思っていたんですが」
「それは、お金に憑かれているんですよ。あなたのお父様はもう、お亡くなりになっているのでしょう?」
「はい……。父は確かに金の亡者と呼ぶべき人でした」
「そうですか。お金というものは、大事なものと同時におそろしいものです。呪い、恨む。そういったものも生み出してしまう。志半ばで亡くなったあなたのお父様は、あなたに莫大な遺産を遺してしまったことが、とても――恨めしかったのでしょう」
「――そう、でしたか」
目を伏せ、すこし辛そうに膝に手をあてた。
それでもすぐに、青白い顔を上げて、エリザベートに笑いかけた。
やっと、影の呪縛から逃れられるのと同時に、曽祖父が大切にしていた棗が手に入るのだから。
『そうだ。僕は、家主を守るために生まれたんだ。ねえ、エリザベート。お願いだよ。お金はいらないって言ってよ。僕、この人のところにいるのが一番いい』
「そうね……」
「エリザベートさん?」
「これは、あなたに差し上げます。私たちの仕事は、儲けがほしいのが一番じゃないのだから。おくるべき場所へおくる。それが私たち柘榴堂の住人の使命なのですから」
「え……でも……」
「いいのです。この子がそう言っているんですもの。さあ、楓。この子を箱に仕舞って」
「かしこまりました」
一斗は青白い顔のまま、あわてたように腰をあげた。
それをエリザベートが制し、微笑みかける。
「いいの。これが一番の供養ですもの」
「……分かりました。エリザベートさんがいいなら」
楓は紙袋に入れて、棗を差し出した。
それを受け取った一斗は、ほっと安堵の息をこぼす。
おさまるべき場所へ、おさまったのだ。
「本当に、ありがとうございます。大事にします」
「ええ。大事にするのはいいけれど、日の目を見せてあげてください。この子は、日なたが好きなようですから」
「はい。分かりました」
一斗の青白い顔はもうなく、父である一樹の恨み、ねたみが綺麗に去ったように影がなくなっていた。
それを見送ったエリザベートと楓は、その影が消えるまで店の前に立っていた。
「これでよかったんでしょうか」
「いいの。彼は、納得してようやく、消えていけたのだから」
「また、客が幽霊とは……。ここはお化け屋敷ではないというのに」
「いいじゃない。せっかくのお盆。地獄の釜の蓋が開く、っていうでしょう?」
「地獄ですか……」
そう、一斗はもう死んでいた。
彼岸と此岸の間があいまいになる時期。
自分が死んだことすら、忘れているひともいるだろう。
エリザベートは上機嫌に、そして楓はまたお金にならなかったことに頭を痛めながら、柘榴堂に入っていった。




