紫三枚重
紫三枚重
さらさらと音がする。
ああ、また彼女がやってきたのだ。
髪の毛を日本髪にゆって、彼女はただ、歩く。
まっすぐに伸びる廊下を歩くすがた。
あれは――明治あたりの女性だろう。
紫づくしのきもの。
半襟の刺繍はめずらしい金盞花。襦袢は芍薬。きものは花家紋づくし。
帯はあやめとてっせんの刺繍。おそらく、絽だろう。
彼女は、決まって鏡のある部屋の前で足を止まる。
そして静かに涙をながすのだ。
そんな夢をみた。
金木犀の、あまい香りで目覚める。
どんなに寒い日でも、彼女は窓を開けて深呼吸をする。
その時は決まって、黒猫が金色の目でこちらを見上げているのだ。
そして、すっといなくなる。
いつもの光景だ。
彼女は金髪の長い髪の毛を柘植櫛で軽く梳いて、二階の自室から、階段をおりる。
はだしだから、古い木の階段はとても冷たい。
そして、彼女は台所にむかう。
ここでは「キッチン」という名はふさわしくない。
昔の長屋のようなこの家には。
「おはようございます。お嬢様」
グレーの三つ揃えのスーツで出迎えるのは、彼女のお付きであった。
「おはよう。楓」
今日の朝食は、きのこが入った味噌汁に、かぼちゃの煮物。そしてデザートはいつものりんごの入ったヨーグルトだ。
「夢を見たわ」
「どのような?」
彼女が席にすわると、楓も前の席にすわった。
「店の奥にしまってある、着物のゆめよ」
「あの紫の、ですか」
「そう。最近、ずっと見ているわ。一階の廊下に、鏡台のある部屋があるでしょう。あの部屋の前で立ち止まるの。見ているだけで、決してなかに入ってこないのよ」
「それはまた、いわくありげですね」
「きっとお客様がくるわ。衣桁があったわね。あの着物が求めているひとがくるはずよ。店のなかに入れておきましょう」
「かしこまりました」
楓は恭しくこうべを垂れた。
ここは柘榴堂。この町唯一の骨董品店だ。
置いてあるものと言えば、見かけはほかの骨董品店と何らかわらない。
掛け軸、やきもの、ガラス工芸品、漆工芸。それに明治、大正、昭和あたりに使われていた着物も取り扱っている。
まわりには、コンビニ、ビジネスホテルやカフェが連なる、すこしにぎやかな通り沿いにあるのだが、客足はあまりない。
懇意にしてくれているのは、カフェの店主。
古いが趣のあるカフェの店内には、骨董品が似合うと言っていた。
「着替えてくるわ」
朝食をおえて、彼女は自室にもどる。
彼女の普段着は、着物であった。
おもに彼女は銘仙を好んでいて(特に色合いが金髪にも似合ってしまうようなもの)特に大柄な花が織られたものをよく着ている。
帯をしめる。
すこし苦しいくらいがちょうどいい。帯締めを締めて、すっと背筋をのばす。
それから、鏡台の前にすわって、軽く化粧をする。赤みのすこし強い口紅をくちびるにのせた。
時刻は8時。そろそろ店をあける準備をしなければならない。
階段をおりて、楓がいる柘榴堂内にはいる。
ふるいもののかおりが、ふわりと漂う。
「おはよう、みんな」
彼女の名はエリザベート。
この柘榴堂の店主にして――魔女である。
古い車箪笥の上に載せている、象牙の根付がかたかたと動く。
『おはよう、エリザベート』
エリザベートと楓にしか聞こえない、古いものたちの声。
彼らは念がこもっている、いわゆる「いわくつき」のものたちだ。
いわくつき、という名にふさわしく、ただ売られるのを待っているだけではない。
彼らが客を選ぶのだ。
彼らが妥協するならよし、しないなら(もちろん、別のものをすすめるが)どうしても返ってきてしまう。
『今日は寒いね。エリザベート。こんな日は客足が遠のいてしまうね』
「ご心配なく。いつもそうよ」
「お嬢様、お持ちいたしました」
先に置いてあった衣桁に、着物をかける。
やはり、そうだ。
花の家紋づくしの、紫色の着物。
「ありがとう。楓。あと、そうね。絽の帯もなかったかしら。あやめとてっせんの」
「ございました。すぐにお持ちします」
楓がふたたび店の奥に戻ると、ふたたび根付たちが騒ぎ始める。
彼の前だと、彼らはすこしだけおとなしくなるのだ。
楓はエリザベートの忠実な使い魔――。銀色の毛並みがうつくしい狼だからだろうか。
へたに彼女の悪口を言えば、かみ殺されかねない。
『この店、着物なんてあったんだねぇ』
「あるわよ。ただ、昔の着物はあまり出したくないの」
『へえ、なぜだい?』
「この店にあるのは、いわくつき。あなたたちのようなね。着物というのは、わがままだし。あなたたちよりも」
『そりゃあ、賢明な判断だね!』
けらけらと笑う根付たち。エリザベートは彼らも分かっているのか、とすこし感心した。
こと、と同じ車箪笥に置かれている、唐代の観音菩薩金剛立像が身動きする。
おや、と思う。
彼が動くのは珍しい。
『なにかよくないにおいがします……。あの着物から。そして、楓が持ってくる帯から』
「だいじょうぶ。彼女が気に入ってくれるお客様がくるわ。きっとね」
「お待たせいたしました、お嬢様。やはりこの帯、ただの帯ではないようですね」
「でしょうね。――泣いていたもの。この子のあるじは」
衣桁のとなりにかけた絽の帯。
そっと触れて、なでてやる。彼女は沈黙を守ったままだ。
ただ、不安そうな感情がながれこんでくる。
「きっと、あなたの悲しみを取り払ってくれるひとがくるわ」
「お嬢様」
帯にふれていた手を、楓が制するようにやわらかくつかむ。
「お嬢様でも、あまり触れられますと……」
「そうね。わたしでもどうなるかわからない。この子が選ぶのは、わたしではないから。――あら」
あまり建てつけのよくない扉を開けようとする、人影。
あの人影は、女性だろう。
少し苦労しているようなので、楓が手伝う。そのおかげで、引き戸の扉は難なくあいた。
「ああ……すみません。ありがとうございます」
彼女は、20代くらいだろうか、紫色のワンピースを着ていた。
「いらっしゃいませ。お客様」
ほほえむ金髪の主人に、彼女は驚いたように目をひらいた。
そして戸惑ったように、そして気弱そうに、「あのう」と呻くように呟いた。
「あなたが、店主さん、ですか?」
「ええ。エリザベートと申します。ご用件は、こちらの着物と帯ですね?」
「え……」
驚いたように、女性はふたたび目をひどく見開いた。
無意味に手をいじっていて、とても狼狽していることは目に見えてわかる。
「そ、そうです……。この生地……。間違いありません。私の……祖母の」
「おばあさまの?」
「はい。昔、祖母はある大家で世話になっていたんです。その時に、同じ家で下働きしていた祖父と出会って……」
女性は記憶を紐解くように、つかえながらもこの着物の出所を探ろうとしている。
「どうぞ。お座りください」
楓が腰かけを女性に差し出す。
彼はぎこちなく座り、ふう、と息を吐き出した。
「祖父と祖母が一緒になっても、その家で過ごしてました。けど……そこのお嬢さんが祖父のことを好いてしまっていて」
「ゆるされなかったと」
「そうです。お嬢さんは大家の一人娘です。けど、祖父はただの庭師……。身分が違います」
では、エリザベートが見たあの女性は、彼の言う大家の一人娘だったのだろう。
だから泣いていたのだ。悲しんでいたのだ。
「けど――そのことを旦那さんにばれてしまって、祖父と祖母は家を追い出されてしまいました。手切れ金があったので、何とか食つなぐことはできたんですが……。そのあとです。お嬢さんが亡くなったのは」
「亡くなった? まさか、自死を?」
女性は重く、そして深くうなずいた。
エリザベートは、分かっていた。
女性のはなしは嘘ではない。
けれど、ここにいること自体、おかしなことだと。
なぜなら――。
「お嬢さんは、池で死にました。橋から飛び降りたんです」
「そのときに着ていたのが、この着物だったわけですか」
「そうです……。祖母に聞いた、そのままの柄です」
「楓。着物と帯をおろしてちょうだい」
「かしこまりました」
楓は白い手袋をして、衣桁からそっとおろした。
さらり、と音をたてて。
「これは、あなたのものですね?」
「え……? これは、祖母の」
「いいえ。お客様。これはお客様のものです。お客様は見たところ20代のご様子。そのおばあさまなら、年代があいません」
エリザベートはそっとその着物を彼女に手渡した。
ふるえている、彼女の手。
「そうだ、私……。私、思い出したわ……。この振袖……。お父様とお母様が買ってくださった振袖と、絽の帯……。これを着て、私は身を投げたんだわ……。あのひとを想って」
彼女はそっと涙を流した。
振袖と帯を抱きしめて。
「ああ、ありがとう……。私、やっと冷たい川の底から上がれる気がするわ」
「お客様。今度こそ、間違わぬように。暗い場所にずっといることもないですから」
「ええ……。そうね。もう泣かないわ」
彼女はほほえんで、消えていった。
振袖と、帯もろとも。
「さて、あのいわくつきの着物のゆくえも分かったことだし、すこしは奥の間もすっきりしたんじゃないかしら? 楓」
「ええ、まあ……そうですね」
「歯切れが悪いわね?」
「いえ、まさか幽霊が自分の着物をとりにくるなんて思わなかったので……。それに、売れればいいお金になったのでは」
「世の中には不思議なこともあるものよ。それに、売ってもまた戻ってきてしまうわ。これがいちばんいい供養だったのよ」
エリザベートは上機嫌にほほえみ、彼女の置き土産を拾った。
この時期には決して咲かない、藤の枝と花。あやめの花びら。
「ほら、楓。こんなにきれいな紫色、わたし久しぶりに見たわ」
「お嬢様にお似合いです」
楓は藤の枝をとって、エリザベートの髪の毛に差した。
「上手ね。楓はいつも」
上品にほほえんだ楓は、エリザベートの髪にそっとほおを寄せた。