いとこのポン酢〔お嬢様騒動〕七
― 七 ―
ROVAのファクトリーは御殿場にあります。
土地代が安いときに一気に買い込んだので、全長六百メートルのオーバルコースの中にファクトリーの整備工場が建っています。
もちろん、宿舎や売店などもあって、ここで部品なども購入できます。
麗子が行くと言うと、透吾は車を出してくれたのですが、麗子のお館組は六人になり、一年生は三人と所帯が増えてしまって、結果として脇坂観光からバスをチャーターして来ました。
なぜか、そのバスにはちゃっかり富子も乗車していて、一同びっくり。特にあやと雁子は、聞いていなかったのでよけいに驚いています。
「富子さま、ご一緒されるときは、一言お知らせください。私たちお世話係は、SPの方たちとか連絡が必要なんですよ~。」
「すまんのう、SPには今朝頼んで、麗子のマンションに送ってもらったのじゃ。麗子が電話をしたときには、時すでに遅くてのう。」
「そうなの?」
「ごめんね、あや、雁子。」
麗子も、これにはひたすら謝るだけでした。
「しょうがない、バスにはSPの人は乗ります?」
「いや、今日は別便じゃ。黒服といっしょにバスなんぞ、みんなも気が詰まるじゃろ?」
「そりゃそうですが、よく黒服さんが、納得しましたね。」
「そこはそれ、二年生も一年生もツワモノそろいじゃしの、なにより片岡のお兄さまがいっしょじゃもの、黒服も納得じゃろう。」
「まあ、お兄さま一人で十人分は働きますから…」
「おいおい。ボクは馬車馬かいな。」
「あら、ごめんなさい。でも、お兄さまの関節はずしは、自由自在って、お姉さまに伺いましたわ。」
「そらまあ、かんたんやけど。」
「そ、それはぜひ教えてください!」
土方遙は、身を乗り出して透吾に迫りました。
「ほな、こんどウチに来るとええわ、かんたんなコツくらいは教えてあげるよって。」
片岡のお兄さまの家の隅には、檜造りの道場があるんです。
「はい、ぜひ!」
「あ、遙ばっかりずるいな、お兄さま、私もお願いします。」
近藤ゆうは、ちゃっかり売り込んでいます。
「あっあっ!馨も馨もおねがいします~!」
「これ、あんたたちは、今日の目的を忘れるんじゃないの、ほら、危ないから座って。」
一年生は、襟首をつかまれた子猫のように、席に戻されました。
東名高速を西に向かって走るバスは、渋滞もなく快適に進みます。海老名のサービスエリアで一悶着。
富子さまが、どうしてもブタマンが食べたいとおっしゃるので、買おうとしたんです。
そしたら、黒服が飛んできて毒味なしで食べてはいけないと言い出す始末。
これも、透吾兄さまが納めて、無事富子さまはブタマンを賞味することができたのでした。
朝ご飯もちゃんと食べたんですけどねえ。
でも、富子さまはしごくご満悦のごようすで、ほかほかしたブタマンにかぶりついては、ころころと笑っていらっしゃいます。
その顔を見たら、SPの黒服も、苦笑をもらすしかありませんでした。
富子さまが笑うと、みんな幸せな気分になるんですもの。
御殿場は良く晴れて、バスは快調に進みます。
雑木の林を縫って、冨士の裾野に近づくと、さっと開けてROVAのファクトリーが見えてきました。
白い建物が、雑木の木立に映えています。
コースのまわりはずっと雑木林で、アスファルトと林の間は十メートルほど離れています。
コースの盛り上がったところが、トンネルになっていてオーバルの中に入っていきます。
「うわ~すごい大がかりなんだ。」
「まあ、F-1で世界と闘おうって事ですからねえ、大がかりでないと困るんですよ。」
「中嶋のおじさま!」
ROVAのオーナーで監督の、中島のおじさまでした。
「おいおい、監督自らが出迎えに来てくれはったん?」
「そりゃあ、一番のスポンサーさまだぜ、お迎えにも来ようってもんだよ。」
「あはは、そんな偉そうなもんやないんやけどなあ。」
「まあ、いいって事よ。お嬢さん達、まずは歴代のマシンたちを見てもらおうかな。」
中島に着いていくと、ギャラリーのように広い空間に、何台もレーシングマシンが並んでいました。
「これは、原がF-3000のチャンピオンをとったマシンで、そっちが、片山がマカオで勝ったマシンだよ。」
「うわー!片山選手って、今、ヨーロッパF-3に出てますね!」
響子が興奮して声を上げました。
「おや、よく知っているね、お嬢さん。マイナーな情報なのに。」
「私は、ヨーロッパから映像資料とか取り寄せているんです。いろいろなレースの情報も、入ってきます。日本はレースに冷たいですものね。」
「まあ、そうだね、F-1に出ていると言っても、ウチなんかあまり注目されないもんな。」
「私は注目していますよ、特に原さんの活躍は、すばらしいです!」
響子は、勢いを付けて力説しました。
「へえ、この子はよく知っているんだなあ。」
「まあ、自分でレースに出ているくらいやからなあ筑波のBOTTでは、前半トップをつついてはったよ。後半、熱ダレで順位を落としたけど。」
「お、お兄さま見てらしたんですか?」
「ああ、SRXの欠点は、オイルラインのアナが細いことやな。」
「うわ~、そこまで~!」
「なるほどねえ、じゃあ、そちらでお茶でも飲んでから、ファクトリーの工場を案内しよう。」
ギャラリーの壁には、テーブルと椅子が並べられていて、カフェテリアのようになっています。
「いや~、たまにお客さんも遊びに来るから、カフェテリアにしてあるんだ。」
謙遜していますが、休日の来訪者は一千人くらいはあるそうです。
今日は、麗子達が来るので閉鎖しているそうです、なるほど、富子さまがいらっしゃるし。
SPは、さりげなく角角に配置しています。
「…で、現在はROVAのメインスポンサーに、カタオカを迎えて、今年はマシンを四台作成できたと言うわけです。」
「なるほどー、これはぜひお兄さまと走ってみたいですね。」
響子は、膝を乗り出して、透吾にせまりました。
「ぼくはもう、そんなに走れるようなもんやないよ。おじさんやしなー。」
そこへ、トレイを持った原がやってきました。
トレイには、ケーキとシュークリーム(富子様がお気に入りだと聞いて、用意したそうです。)が乗っています。
コーヒーのトレイは、片山が持っています。
「お待たせしました、お嬢様たち。お菓子ですよ。」
「お、おちゃでございます。」
きれいな少女達を目の当たりにして、片山少年は少し緊張しているようです。
「わあ、原選手に片山選手!感激です。」
「そう?ごゆっくりどうぞ。」
響子は、二人のドライバーに会って、緊張しています。
「どうだい?透吾ちゃん、複座のF-1作ったんだけど、乗ってみるかい?」
「な、なんでそんなもん…」
「いや~、データ取りに一台ね、機材乗せたり、いろいろ使い道があるんだ。」
「なるほどねえ、中嶋カントクの遊びかと思ったわ。」
「なんでばれるの?」
「やっぱり…」
透吾は、あきれた目で、カントクを見たのでした。
「どうやろ?だれか乗ってみたい人は、居てはる?」
「はいは~い、あたし乗ってみたいです!」
一番に手を挙げたのは、雁子でした。
「そ、そんなもの、危険じゃないんですか?」
麗子の心配も、もっともです。
「まあ、全開にするわけじゃなし、雰囲気だけですよ。」
原の説明に、麗子はまだ不安そうな顔をしています。
「ほなら、原ちゃんの運転で、雁子ちゃんが乗ってみればええやん。」
「ああ、それなら大丈夫そうですね。」
透吾の運転というのが不安だったのか、それとも、透吾にけがでもされたら困ると思ったのか…
表のオーバルコースには、初夏の日差しがまぶしく照りつけて、どちらかというと盛夏のように汗ばんできます。
周りを囲む林からは、気の早い蝉の声も聞こえてきます。
路面温度もかなり高いらしくて、麗子の車いすはお尻のあたりがアセでしめって、気持ち悪いです。
本番のピットをまねて造ったというピットエリアで、発進の準備をしている複座のF-1には、日本製の三、五リットル市販車エンジンが載せられ、音も静かなものです。
「なんやこれ、なんちゃってF-1やんかさァ。」
「貴重なレーシングエンジンなんか載せられるかよ。ボディの挙動なんか、このエンジンでも十分わかるんだよ。」
「音もサルーンみたいに静かやし。」
「まあいいさ、とりあえず発進準備はできたな、原、たのむぜ。」
「はい。」
原のシートの後ろに、同じシートがもう一つあって、そこに雁子が乗り込むのですが、なにせいあのペチコートです、押し込むのがたいへん。
「うわ~、響子みたいにジーンズにするんだった!」
「いまさらよねえ。」
「お姉さま、次は私ですよ~!」
馨は、出発していく雁子に手を振りながら言いました。
「おわわわわわわわわわわわっわわわ」
ドップラー効果の尾を引きながら、雁子はF-1のシートに押しつけられて行きました。
考えたら、レーサー用エンジンではありませんが、V型の六気筒は、それなりにパワーは絞り出してあったり、車体が軽量であったりしますので、加速Gはけっこう強烈なんですね。
帰ってきた雁子は、その当たりを伏せて馨を送り出しました。
「う~、横の力が強くて、胃に来るわ~。」
「履き古しのレーシングタイヤでも、けっこうグリップしてはるみたいやねぇ。」
「う~ん、あれ先々週のモナコで履いたヤツだろ?市街地用だから柔らかいんだよ。」
「へえ~、モナコねえ、ウチのが別荘欲しがってはったねえ。」
「やめとけって、あんなとこ。カジノ意外は、寝て暮らすようなところだぜ、カビが生えちまうよ。」
「またまた~、カントクってば、ナマグサいんやから。」
「うひゃひゃ、おっといけねぇ、お嬢さんたちの前だった。」
おじさま二人は、しゃきんと姿勢を正しました。
「のう、片岡どの、私も乗ってみたいのじゃが、よいかのう?」
「と、富子さまがですか?ええっと…」
透吾が、ピットのスミの黒服を振り返ると、盛大にバツ印を作っていました。
「アカンて言うてはりますよ。」
「残念じゃのう、いろいろと体験してみたいのじゃが、危険なことは許してくれんのう。」
「みなさま、富子さまが大切なんですよ。その気持ちに免じて…」
「うむ、船岡!シュークリームをもつがよい。」
「ははっ」
船岡と呼ばれた黒服は、あわてて皿を持ってきました。
「次はバレンシアだからな、モナコ以上に気を遣う。」
「タイヤのええのが入るとええなあ。」
「まあなあ、壊れない車はないしなあ。」
「バレンシアでは、少しパワーを落として、中速重視で行ってはアカンの?」
「ウチのエンジンはかぶるからなあ。」
世界を回りながらレースをするという、コンチネンタルサーカスには、気の休まるときがありません。
いま、日本に居るのだって、開発やテストのためであって、休息のためではないのです。
インターバルをいかに上手に使うかで、次の順位が変わってきます。
バレンシアまでは、あと一週間。早くも対策パーツが開発されているそうです。
「日本グランプリにはまた、みんなで来てくれよ。ピットパス用意して待ってるからさ。」
「麗子ちゃんがいてたら、ウイリアムズのおっさんが近寄ってきはるえ~。」
「なんだよ、車いすのカントク同士ってか?」
「ほな、中嶋カントクいらへんやん。」
「おいおい、そりゃあないぜ。」
「麗子ちゃんがカントクなら、ボクはすぐに優勝できそうな気がする。」
「おい、原!」
ピットは、笑いの渦になっていました。
「ま、ボクは夏休みにまた陣中見舞いに行くかもしれへん。」
「え~、透吾さんヨーロッパに来るんですか?」
「なんや片山くん、来たらアカンの?」
「だって、F-1とボクのF-3じゃ開催日程がちがうんだもん。」
「ほな、片山くん優先で行こうか?登山とかマラソンとか、メニューは豊富やし。」
「げ~、なにしにくるんですか~?」
「あはは、まあ、おいしいごはん食べさせてあげるわ、原ちゃんもなぁ。」
「お願いするよ、楽しみだ。奥さんも来るのかい?」
「わからん、たぶん誰かは一緒に行くと思う。」
「なるほどね、そのときはよろしく。」
御殿場から東京までは、けっこうな距離があるため、一行は早めにファクトリーを後にして、車中の人となりました。
あらためて、透吾の友好関係にギモンも出てきましたが、行動力の広範囲なこともそれに拍車をかけます。
よしこに下った指令は、アルザス=ロレーヌの鉄鋼会社の買収でした。
透吾の夏のヨーロッパ行きは、どうやらこのへんに訳があったようです。
麗子は、密かにこれにくっついて行けないものかと、考えていました。
よしこの仕事内容に、惹かれるものがあったためです。
もちろん、夏休みのお遊びも含めてた楽しみなのですが。
「ちょっと、麗子、ナニ考えてるの?」
あやは、麗子の様子がそわそわしているので、気になっています。
「え?ど、どうして?」
「ほら、あさって見てる。そう言うときの麗子は、なにか悪巧みしているのよ。」
「わ、悪巧みってひどいわねー、私はお兄さまにくっついて、ヨーロッパ行きたいなあって、思っただけよ。」
「ほら~、自分だけそういうことしようと思う~、これ、悪巧みね。」
「そうなの?」
「今年は、海に行こうと思っていたのよね。日本海とかさ、能登半島とかさ。でも、地中海もいいわね。」
「ニース?モナコ?」
「うん、イタリアやギリシャも、捨てがたいわね。」
「じゃあ、みんなで相談ね。よしこお姉さまや奈美子お姉さまは、向こうで家を買ったそうだし、お兄さまといっしょだと、なにかと便利よ。」
「わお、そう言うことなら、私と寿美で手配するわ。」
「んが?なに?」
「あんたは寝てたの?まあいいわ、もう一度寝てなさい。」
「ほえほえ~。」
バスは軽快に進み、日の暮れあたりには赤坂の、富子のホテルに着いていました。
「富子さま、今日はおつきあいいただき、ありがとうございました。」
透吾が、うやうやしく頭を下げると、うれしそうに首を振りながら答えました。
「こちらこそありがとう。楽しかったぞよ。」
「そう言っていただけますと、私もうれしいですよ。」
「そうか?透吾どのは、なにごとも気が利いていて、私はたいへん満足じゃぞ。」
「それはよろしゅうございました、それではお休みなさいませ。」
「いやじゃのう、そんな標準語のような言葉は、都の言葉でよいのじゃ。」
「そうどすか?ほなら、おやすみやす、富子さま。」
「そうじゃ、それでよいのじゃ。ではの、皆もせわになったの。」
富子が軽く手を振ると、バスの中から皆が手を振りかえしました。
黒服に伴われて、ホテルに姿を消す富子の背中には、なにやら寂しげなものがありました。
「富子さま、どうかなされたのかしら?」
麗子は、少し不安げに透吾に聞きました。
「…富子さまは、体験入学と言わはったでしょう?長くは、こちらに居られへんのどす。」
「あ…」
透吾の言葉通り、富子は体験入学の期間が終わり、夏休み前に実家のある京都に帰って行ったのでした。
「麗子、私も麗子のように、未来を見つめてみようと思う。ただ、ここにいる間に、恋というものをしてみたかったのう。」
「富子さま、いずれできますよ。ええ、そんなこと、かんたんですよ、きっと。」
かんで含めるような、麗子の言葉はやがて涙に変わって、途切れていきました。
「麗子、雁子、あや、寿美、やゆ、世話になったの。クラスの皆も、世話になったの。富子は楽しかった。きっとずっとわすられぬ思い出になろうぞ。」
富子はつんと前を向いて、福々しいほほに涙をこぼしました。
「もっとわがままを言ってもよかったのに…」
富子の乗った車を見送る麗子の声に、あやはうなずきました。
「でも、あれで自分ではわがままを言っているつもりだったのかもよ、シュークリームとかブタマンとかね。」
雁子は、振り向いて二人に言いました。
「そうね、お屋敷ではそう言うことも言えないものね。」
来たときと同じように唐突に、富子は居なくなりました。
麗子たちは長く、その空いた席に思いをはせたのでした。