いとこのポン酢〔お嬢様騒動〕参
-参-
迎えてくれたのは、よしこさんの巨乳。どーん
白くて丸くて立派なの。
上にダイダイを乗っけたいくらい。
「はう~。」
「寿美・寿美、よだれ。」
「あ、えへへ。」
寿美は、うらやましそうによしこさんのおムネを眺めていました。
「あははは、よしこはん、え~なあ、お嬢さんがあこがれてはるえ、そのおムネ。」
「はあ、肩こりの原因でしかないねんけどなあ。」
「ええやん、それが元でこんどのA&Mになったんやろ?けがの功名やないの?」
「これ、怪我どすか?」
ずいぶんな怪我もあったものです。
四人で湯船につかっても、余裕があってほこほこと上がる湯気に、リラックスしたお二人の様子が浮かんでいます。
「あの…お姉さま、さっきのお話なんですけど…」
麗子は、おずおずと切り出しました。
「さっき?」
「ええ、おめでたって…」
「ああ?みどりちゃんのこと?へえ、さずかりましたようどすな。ありがたくいただきまひょ。」
「あ、ありがたくってお姉さま、それって浮気じゃないですか。お許しになるんですの?」
「許すも許さんも、そんなお話はウチとの結婚前に、全部わかってます。ましてや、みどりちゃんは友美ちゃんの死んだ後、どんだけ透吾ぼんを支えてきたものか。それを思ったら、こっちに足を向けて寝られへんくらいどす。そやし、ウチは受け入れているんどす。ま、一番とれへんかったのは、少しくやしいんどすけど。」
「あはは、お姉さん、くやしいのはそこどすか?」
「まあねえ、これがよしこはんやったら、ド突き合いのケンカになるかもせえしまへんけど。」
「なんやねんそれ。」
「あはははは、そやしよしこはんは、東京での透吾ぼんの生活をずっと支えて来はったんよ。よしこはんこそ、複雑なんとちがいますか?」
「そらそうどす。これで、相手がナミコはんやったら、ウチもド突き合いしてますわ~。」
「なんやそれ~、ウチのまねしんときよしー。」
「あはははは、これでふつうの家やったら、大騒ぎやろけどなあ。子供の一〇〇人や一〇〇〇人、食べさすことにこまらへんもん。」
豪快なお姉さんです。
実際、ウチのお父様は別にしても、兄は義姉が出産のたびに、悪さをしているようですし、男の方には困ったものです。
ただ、ウチの資産で言うなら。
子供の一〇人や二〇人養育するのに不都合はないでしょう。
政治家のスキャンダルとしては、いかがなものかとは思いますが…いや、アカンやろそれは。
後で兄の行動に関しては、釘を刺してもらいましょう。
「そやし、透吾ぼんの資産は二〇〇兆円やよ。東京都さえ養えるわなあ。」
「へ~、また増えたんどすか?」
「そうどす、麗姉さんが気がつかへん組織も増えてますし、この橘屋も向こう三年くらい予約いっぱいどすえ。」
「え~、ウチここ気に入ったんやけど。」
「お料理、よろしおしたやろ?」
「うん、よかった。」
「透吾ぼんが、わざわざ連れてきはったん。仕出しの松岡の次男坊、義昭さん。」
「あれまあ、祇園甲部の?松本屋さんの仕出ししてはるやん。」
「そうどす。まあ、あっこも経営厳しいて言うてはったし、腕は確かどすやろ?」
「そらもう、あの薄造りなんやら、包丁が絶品どす。」
麗お姉さまは、ざぶりと湯船を出ると、洗い場に移動しました。
「麗子ちゃん、こちらへおいない、お背中洗ってあげるし。」
「お、お姉さまにそんなこと、させられませんよ。」
「なに言うてはんのん。ウチらの間で、そんな遠慮はなしなし。さ、どうぞ。」
麗子はおずおずと、麗のとなりに座りました。
「ああ、足にもけっこうお肉が付いてきはったねえ。使うようになると、栄養も行き渡るし、筋肉もついてくるよって、きれいになっていくねえ。」
「そうでしょうか?」
「うんうん、これでお嫁に行っても、安心やね。」
「お、おヨメ?」
「そうえ~、そんなに遠いお話やないよ。五年くらいすぐに過ぎてしまうえ。」
「そうですか?」
「そうそう。しっかり勉強せんとねー。」
「あうう…」
麗子の成績は、特に悪いわけではないのですが、この調子では主席をとらないといけなくなりそう。
「そやないの、みんなと遊んで、いろいろな経験をして、思い出もいっぱいつくって、そうして大人になって行くんえ。」
「思い出ですか。」
「そう、この時期のお友達は、一生付いて回る、大事な友達になるねんよ。ウチも、無茶なこともいっぱいしたけど、ちゃんとフォローしてくれる友達はいてたもん。その子たちとは、今でも交流があるし。」
「そうなんですか。お館組の方達ですか?」
「まあ、そうやね。そやし、お館組でなくても、彼女たちとはお友達になってたと思うわ。」
「いい思い出ですのね。」
「そうや、現在進行形の!」
麗お姉さまは、力強く頷きました。
「それに、そこに居てはるお姉さんは、いま一番大事なお友達のひとりどす。そして、みどりちゃんも奈美子はんも、おんなじくらい大事な友達どす。」
「さあそこなんです。お姉さまには独占欲がないんですの?」
「そうやおへん。みどりちゃんも、よしこはんも、積み上げてきた時間と言うものがおすのや。それを思ったら、後から割り込んできたのはウチの方なんやにゃ。そやし、遠慮会釈もなしに言いたいこと言えるのも、お互いがあったればこそ言うことどす。」
「えっと、それって四人がお兄さまの奥さんということですか?」
寿美が、横合いから聞いてきました。
「まあ、そうやね。立場上、ウチが正妻となってますけど。」
「まあ、麗さんお姉さんが正妻でええと決めたんは、ウチら三人の総意どす。」
麗子と寿美は、顔を見合わせていました。
まあ、いかにも堂々とした愛人関係。
二人は絶句するしかありません。
格好は悪くても、どうしようもない状態に区切りをつける、それが一番の方法だったのでしょうか。
「まあ、一番は誰も食べるに困ってないことどすなー。麗さんお姉さんは言うに及ばず、奈美子はんには八〇〇億の資金がおますし、ウチには一四〇〇億の資金がおす。春菜はんも、そこそこ売り上げてはるよって、祇園甲部に居てはるかぎり食いっぱぐれはおへんわなあ。どうも、透吾ぼんはそう言う自立心のある女性に好かれるところがあるんやないやろか?」
よしこさんは、淡々とそう説明しました。
「まあ、そんなわけで、みどりちゃんに赤ちゃんができたことは、めでたいことなんどす。」
二人は、そう言ってお風呂を出ていきました。
「はあ…」
あっけにとられて、麗子は麗の出ていった扉を、気が抜けたように見つめていました。
「ほら、麗子、そんなところで座り込んだら風邪引くよ、もう一回湯船に入って。」
「あ、ええ。」
寿美は、だまって麗子の手を取って、湯船に導きました。
「まあ、なんだね、私たちの世界ではよくあることだけど、ここまでオープンな関係って、びっくりするくらい潔いよね。」
「まあ、明治時代にはお妾さんも戸籍に入ったこともあったそうですから、ふしぎじゃありませんけどね、ウチの父はそう言うことをしない人ですから。」
「ああ、耐性がないんだね。」
「あまり、経験がないわ。」
二人は、湯船から上がって、脱衣場に移動しました。
「ふうん、その方がいいね。ウチなんかしょっちゅうもめてるわよ。」
寿美は、麗子の体をタオルでぬぐいながら、照れたように言います。麗子は、自分でもあきれるくらいあっさりと、口を開きました。
「まあねえ、そうでなくても両親の仲が悪いのに、お父様もよく外に女性を作らなかったと思うわ。」
「エライね~。」
「そしたらね、このまえ本家の脇坂のおじさまが、お母様を呼びつけたの。」
「へ?」
「両親揃って本家に顔を出すようにって。」
「そしたら?」
「頭から湯気が出るほど怒ったらしいわ。お母様に、これ以上不仲が続いたら脇坂との縁を一切絶つって、おっしゃったそうよ。」
「うわ~~~~、それは恐ろしいわね。」
「そんなことされて、日本のどこで暮らせと言うのよ。」
「ほんとうだ、それで?」
「そこで、お父様が前に出て、お母様をかばったんですって。お母様ったら、借りてきたネコみたいにおとなしくなって、二人の言い争いがすっかりなくなってしまったわ。」
「へえ~、脇坂の本家の力だねえ。」
「もともと、ウチの両親の不仲は、親戚うちでも有名だったもの。私も肩身の狭い思いをしていたのよ。」
「そうか…」
「まあ、そんなわけでウチの中は、平和になったんだけど、お母様がどこまで反省しているかはわからないわ。」
「まあ、あのお母さんだからねえ。趣味のひとつも持てばいいのにね。」
「あら、そうね、こんど勧めてみるわ。」
「そうしなよ。お茶飲んでばかな話しているだけじゃ、いいことないよ。」
二人は、ゆったりと廊下を進みました。体があたたまって、いいきもちです。
政治家のヨメとしては、あまりいいヨメじゃないのかもしれません。
なんと言っても、選挙のときに使えるわけではないのですから。
あまり、泥臭いところに顔を出す人間ではないのです。
「それじゃ、お父さんも困ってるよね。」
「まあ、そうね。それでも落選しないんだから、兄たちのがんばりはたいしたものよ。」
「まった、ひとごとみたいに。」
「しょうがないわよ。娘なんて、政略結婚の道具くらいにしかならないんだもの。」
「納得してるの?」
「ばかね、納得なんかしていないわよ。ま、透吾お兄様のお話は、棚からぼた餅でしたけど。」
「へえ~、じゃあ、なにか反抗計画があったんだ。」
「そりゃそうよ。私だって、お人形じゃないもの。そうそう、お父様の言いなりになんか、なるもんですか。」
「麗子ってば、かくれじゃじゃ馬だったのね。」
「あはは、そうかもね。」
二人は、布団で話しながら、どちらともなく眠りについたのでした。
一方、別の部屋では…
「ホンマに産んでもええの?透吾ぼん。」
「ええに決まってはるやろ。麗かて、ええって言うてはんにゃし。なんにも心配せんと、どーんと産んだらええねや。あとの心配はせんとき。ちゃあんと面倒はみたげるし。」
「そんなんどうでもええんや、食べるに困るほど不自由してないし。ウチなあ、前に透吾ぼんのお子が流れてしもたやろ、ずっとくやしかったんよ。そやし、次はなにがなんでも、健康なお子を産んだる言うて心に誓ってたんどす。」
「そうか、苦労かけたなあ。なんぼでも産んどくれやす。百人でも育ててあげるよってな。」
「ホンマに透吾ぼんは、そねえに産んだら、ウチ何歳になりますのん?」
「あはは、ホンマや。」
「ま、がんばってきた甲斐もあって、僕もそこそこ儲けた。松本屋もまあまあ儲かってるし、ここはど~んと構えてはったらええやろ。」
「そうどすな、お店はマリカちゃんも居てますし、ウチはゆっくり産んでみます。」
そこへ、麗お姉様とよしこさんが乱入。
「みどりちゃ~ん。」
「あらまあ、奈美子はんは轟沈どすか?」
奈美子さんは、部屋の隅でぐっすり眠っていました。
「透吾ぼんがお布団かけてくれはったんよ。」
「そらけっこう。みどりちゃん、からだ大事にして、りっぱなお子を産んでおくれやす。」
「友美ちゃん、ええの?」
「ええも悪いもおますかいなー。みどりちゃんが、どんな思いでいままで過ごしてきたか、ウチがいちばんわかってます。そやし、ええ子を産んで、幸せになってほしいんや。」
麗の言葉に、よしこがチャチャを入れます。
「ひとごとですかいな、お姉さん。」
「よしこちゃん、ちゃちゃ入れへんの。ウチ、真剣なんやから。」
「へえ、そうどすな。ウチも応援しますよって、春菜はん、ええ子を産んでおくれやす。」
「へえ、よしこはん。おおきに。」
透吾は、膝に置いた手で、軽く足をたたいて言いました。
「さて、ほならやー、よしこちゃんと奈美子はんの、海外進出計画もそろそろ本腰入れへんか?土方君が来てくれたよって、僕のところはまあまあ動くようになったし。」
「そうどすなあ、あら?当の本人は?」
「ああ、部屋で轟沈してはる。」
「あらまあ、奈美子さんと飲み比べでも?」
「そうそう、双方痛み分け~。」
「あはは、ほな先日見てきたルーブルの物件は?」
「あれかー、あれは事務所やもん、狭いやんかさー泊まることもでけへんし。よしこちゃんの家も兼ねた、ちゃんとした拠点がほしいと思うんやー。」
「そうどすなあ、モンパルナスのあのホテル、アリッサはよかったどすなあ。」
「あそこかー、あのそばにあると便利やな。アリッサは売らへんて言うてたもんなー。」
「そうどす、いっそアパルトマン一軒買いますか?」
「ああ、それでもええわ。たいした買い物ンやないし。」
「あらー、よしこさんええなあ、ウチの部屋もとっといとくれやす。」
「そらもちろんやー。麗部屋、奈美子部屋って書いておきます。」
「なんや、おすもうみたいやないの。」
「なんぎななぁ、僕の事務所は佐織と土方くんで回すとして、パリとフランクフルトは、現地調達するか?」
「そうどすな、向こうの国にも、恩を売っておいた方がよろしんとちゃいます?」
「わ、麗姉さん、さっそく厳しご意見。」
「そやし、日本語のできるスタッフもいるやろ?」
「そんなもん、日本語学校に行けば、なんぼでも居てはるやろ?」
「なるほどね。」
「いちいち面接言うのも面倒やけどなあ。」
透吾は頭をかきながら、ぼやきました。
「ああ、それはウチの方でやります。ウチの事務所の人間やし。」
よしこの声に、透吾は安心したようです。
「そうか?まあ、それならええけど。」
「さしあたり、サネイの買収だけすましたら、すぐフランスに飛びますわ。」
「わかった、僕の方でサネイのことは、引き受けるわ。」
「そうしてもらえたら安心どす。透吾ぼん、よろしゅうお頼のもうします。」
「旦那はん、ウチの会社の監査も入ってますえ。」
麗の声に、透吾は振り向きました。
「え?いつ?」
「六月朔日。」
「あれまあ、それはあわてるねえ。」
そんな話がされていたのでした。
朝は、どこにいても朝のにおいがします。
麗子は、ぐっすりと眠れたので、すっきりと目覚めました。
午前七時。
着替えを済ますと、車いすに乗ってロビーに出ました。
「お嬢様、おはようございます。」
麗のところのメイドの、椿でした。
「あら、椿さんおはよう。」
「おはやいですね、お茶でもおもちいたしましょうか?」
「そうね、紅茶をお願い、アールグレイのミルクで。」
「かしこまりました。それではこちらへどうぞ。」
椿は、麗子の車いすを押して、中庭に面した席へ向かいました。
「ユリさんは?」
「はい、朝食の確認に行っております。」
「そう?じゃあ、よろしくね。」
「はい。」
椿は、お茶を淹れるため、カウンターに入りました。
ロビーのカウンターの中には、コーヒーや紅茶のほか、煎茶や抹茶も用意されているようです。
紅茶の良い香りに、麗子は思わず空腹を覚えたのでした。
土方は、百八十センチ弱の体に浴衣をひっかけ、備え付けの雪駄をぺたぺた言わせながらロビーに現れました。どうやら、完全なOFF仕様のようです。
「おはようございます、お嬢さん。」
目聡く麗子を見つけ、その車いすに近づいてきました。
麗子は黙ったまま、振り向きもしません。
「お嬢さん?」
「麗子です。」
「へ?」
「麗子です。土方さんは、もうウチの秘書じゃないんですから、お嬢さんなんて言わないでください。」
「れ、麗子…さん?」
「はい、おはようございます。」
麗子は輝くような笑顔で答えました。
「座っても好いですか?」
「どうぞ。遠慮なさらないで。」
土方は、麗子の向かいのソファに腰掛けました。
麗子のゆかたは、紺地に紅い金魚が泳いでいる、かわいらしい柄で、帯は紅色の無地です。
細めの帯で、結びの部分だけ、若干柔らかくなっています。
先ほども出てきましたけど、これは橘屋のオリジナルサービスで、選べる浴衣と帯の豊富さが自慢です。
もちろん、同じ浴衣は一枚もありません。
これは、姉小路和泉屋というバックボーンがあってこその事業でもありますし、実家だけにとどまらず、烏丸界隈の呉服商に顔の利く、透吾の存在があってこそのことと思います。
土方の引っかけた浴衣にしても、帯こそ焦げ茶の兵児帯ですが、生地はネズミ色に白い染め抜きがあって、その中には紅のアクセントがある一品モノです。
寝間着にするにはもったいないですね。
「その浴衣、おにあいですよ、麗子さん。」
「そうですか?少し子供っぽいかと思ったんですけど。」
「背伸びしなくても、いやでも大人になっていくんですから、ムリして大人っぽくする必要はありませんよ。」
「まあ!」
麗子はぷくりとふくれて見せました。
それでなくても土方とは五歳離れていますので、麗子はたいへん気にしていたところです。
横合いから椿が、お茶のカップを、テーブルに置きながら、すまして声をかけました。
「お嬢さま、そんなお顔をされますと、元に戻らなくおなりでございますよ。」
「だって椿さん。」
「まあまあ、椿のいれたおいしいアールグレイでございますよ。ミルクはどちらになさいます?ティーアフター、ミルクアフター。」
「ミ、ミルクアフター。」
麗子は、くちごもりつつ、わずかに不平のにじんだ声を出しました。
椿は、そんな声には気がつかなかったふりで、土方に声をかけます。
「土方さまは、いかがなさいます?」
「じゃあ同じで。」
「かしこまりました。もうじき朝食でございますので、お菓子はございませんよ。」
「ええ、いいわ。」
椿は、テーブルにのせたカップに、素早く紅茶とミルクを注ぎ入れ、それぞれの前に並べると、すっと引いてカウンターに入りました。
麗子は、ソーサーごとカップを持ち上げて、左手にソーサー、右手にカップという格好で、カップを口に運びました。
「あらおいしい。椿さんの紅茶は初めていただきましたけど、こんなにおいしく紅茶をいれるのね。」
同じくカップを口に運んだ土方も、目を丸くしました。
「しまった…これならミルクなんか、入れるんじゃなかったな。」
「うふ…でも、このお茶は、ミルクを入れる前提でいれているんですもの。」
「ああ、ストレートでは、濃いんですか。」
中庭の池の周りには、竹筒から水が流れ出して、池の水に波紋を生んでいます。
緑の苔も美しく跳び石を囲っています。
いましも、紅白の錦鯉がざぶりと音を立てました。
「土方さん?」
「はい、なんでしょうか?」
二人は、そんな様子をながめながら、淡々と言葉を交わします。
「麗子をお嫁さんにしていただけます?」
「ぶへ!」
思わずむせた土方は、真っ赤になって麗子を見つめました。
「お兄さまから、お話があったのでしょう?」
麗子も頬を熱くして、土方に向き直りました。
このあたり、ふつうのお嬢さんとは違います。
自分の意志を強く持つ、麗子独特の姿勢です。
もうひとつ、拒否されることにも慣れてしまいました。
いやなことなら、さっさと済ませたいと言うのが本音でもあります。
気丈なお嬢様です。
「はあ、はい…」
土方の方が押され気味というのも、間のぬけたはなし。
「どうなさるの?」
真顔の麗子に見つめられて、土方はかえって落ち着きを取り戻しました。
「ビンボーですよ。」
土方は、意地悪く笑って言いました。
「はい。」
「服の一枚も買えないかもしれませんよ。」
「はい、それから?」
「住むところだって、狭いですよ。」
「わかりましたわ。」
「ご飯だって、食べられないかもしれない。」
それはオーバーでしょう?
「ええ、そうですね、それから?」
「それでも、お嫁さんになってくれますか?」
「私こそ、こんな体ですよ。傷跡も薄くなったとは言え、まだ残っていますよ。」
「それがどうかしましたか?」
二人は揃って笑みを浮かべました。
「まあ、たいした障害ではありませんね。それに、お兄さまのところで働いているんでしょう?」
「まあそうですね。昨日、三億円ほど借金ができました。」
「あらまあ。」
「ま、、そんなのすぐに取り返しますけどね。」
若いなあ土方さん、そんなに突っ張らなくてもいいのに。
「頼もしくおなりですのね。」
「もっとがんばります。麗子さんの着物が買えるように。」
「はい、早く麗子を迎えにいらしてね。」
「そうですね。大学はいかれますか?」
「そんなの無意味だわ。」
「では、どうします?」
「う~ん、それは、卒業までに考えますわ。土方さんも、私の卒業と同時に結婚では、大変でしょう?」
「まあ、それも魅力的ではありますね。」
二人は肩を揺らして笑い合いました。
「あらまあ、長年連れ添ったみたいに、タイミングぴったりどすなぁ。」
「あ、女将さん。」
「お・か・あ・さ・ん。お母さんどす、松本屋は置屋でお茶屋どす。」
麗子は、春菜の茶目っ気を含んだ言葉に、自分もはずんだ声で答えました。
「はい、お母さん、お早いですね。」
「なんや目がさめてしもて~いっつもなら九時頃に起きますのやけど。」
それはそれで、のんびりしすぎの気もします。
「なにやら楽しそうにお話してはったので、声・かけづらおしたんやけど、朝ご飯のまわしができたそうどす。」
まわし…準備ができたと言うことですが、淡路島生まれの麗子には、すぐ理解できましたが、日野高幡宿の生まれの土方には、理解不能のようでした。(おすもうさんを思い出した様子です。)
「土方さん、麗子のイスを押してくださる?」
「はい、いいですよ。」
「ほな、まいりまひょ。」
春菜は先に立って、朝食の座敷に入りました。
座敷にはすでに、全員が顔をそろえていました。
賑やかに朝食が進んでいました。
「ンま~い!こんないも棒食べたことないわ~!」
佐織はひときわ賑やかに、膳が進んでいます。
「食べ過ぎへんようにな、佐織~。義昭くんの味付けは、松本屋といっしょやさかい、口に合うっちゅうか、合いすぎやんなあ。」
透吾の声に、隣の麗がにこにこ顔で、お箸を持ち上げていました。
「そうどすなあ、旦那はんが義昭さんを連れてきてくれはって、ホンマにありがたいことどす。」
麗の言葉を受けて、奈美子もほめています。
「そだねー、義昭さん、いい仕事してるねー。あとで、厨房に大入りを出してあげよう。」
なにやら、ご満悦なようすです。
「まあ、大入り?そらよろしおすなあ。ほな、ウチからも出しまひょ。」
麗も、奈美子の意見にのって、にこにこしています。どうやら、厨房はすごいことになりそうですね。
「ほなら、ウチはお部屋係とフロントに出しまひょ。」
よしこが、横合いから声を出しました。
「なんだよ、それじゃ全員じゃないか。」
「不公平があってはなりまへん。まあ、オープン前にこのできなら、十分と違いますか?」
「うん、あたしもそう思うよ。」
「そやな~、菜の花漬けはいまいち塩が足りてへんような…」
「ささいなこと引っ張って、出鼻くじくなよ。こんだけ出来てれば、合格点だろうさ。それに、漬け物の味は万人向けが原則だよ。」
「へえへえ、わかりました。お嬢さんたち、どうどした?」
寿美は、すぐに頷いて、一言口にしました。
「お部屋もお部屋係も、気持ちよくて、特に笑顔が良かったと思いますわ。」
近藤ゆうは、「お料理がすばらしかったと思います。関東とは味付けが違うのに、素直においしいと思いました。」
土方遙は、「浴衣が選べるのがうれしいです。」
沖田馨は、「芸舞子さんと遊べるのが、すばらしいです。」
それぞれの感想を言い合っていました。透吾は頷いて、麗、よしこ、奈美子に言いました。
「ほな、この内容でGOサイン出しまひょ。」
三人は、明るく頷き、部屋の隅で控えていた支配人は、あきらかにほっとした顔になりました。
もともと、地元の人間を採用し、接客に優れた人員を用いていますので、すぐに及第点には到達したのですが、そこからの坂道が、乗り越えるのに時間がかかったのです。
もちろん、営業職などは、よしこが面接で選びに選んだことは言うまでもありません。
このご時世、廃業を余儀なくされた旅館・ホテルは数多くあり、ベテランホテルマンが路頭に迷うと言うことも、あながち無視できるレベルではありません。
昨年、四人で考えた基本プランに沿った、レベルの高い和風旅館ができあがりました。
食事が済んで、皆が着替えた頃、よしこが麗子の部屋にやってきました。
「麗子さん、ちょっとよろしおす?」
「あ、小野寺さん、なんでしょう?」
「へえ、少し相談なんですけど、来年・卒業後の進路が決まってはらへんとか?」
「ええ、エスカレーター式の学校ですから、そのまま何もしなかったら、大学もフリーパスなんですけど、そのままでいいのか悩んでいます。」
「そうどすか?悩みついでに、もう一つ悩んでほしいんやけど。」
「もう一つ?」
「選択肢どす。来年卒業しはったら、オノデラに来まへんか?パリ支局に駐在して、ウチの仕事を手伝ってほしいんどす。」
「まあ!パリに駐在するんですの?」麗子はすぐさま、パリに滞在していた麗を思いました。
「そうどす。オノデラはこれから、カタオカの西ヨーロッパ方面を担当する予定なんどす。特にフランスとイタリアを中心に活動します。パリは、その根拠地となるんどす。」
「楽しみですね。事業展開はどうなさいますの?」
「ええまあ、M&Aが主体どす。あちらに根の張ったお商売をしようと思ってます。」
「わかりましたわ。父ともよく相談してまいります。」
「へえ、よろしゅうお頼の申します。」
『わちゃ~、よっちゃんに先を越されちゃった~!』
大きな声は奈美子でした。
「せっかくフランクフルトに駐在員として連れて行こうと思ったのに~。」
「ほほほ、早い者勝ちどす~。」
麗子は、ここまで自分を必要としてくれたことに、感動すら覚えていました。
自分が人の役に立てる…その喜びはなんと表現したらよいのでしょうか。
「そうなんだよ、今年のお正月の麗子ちゃんを見ていて、使える子だと思ったんだよ~。フランス語もドイツ語も、日常会話くらいは覚えてるし、物腰は柔らかいし。車いすのハンデなんか、まるでないね。」
「そこなんどす。麗子さんのはきはきした様子とか、好い悪いの言い方は、ヨーロッパでも十分通用しはると思いまへんか?」
「そうそう。イエスノーがはっきりしてるのはありがたいよね。」
「現地で調達するメンバーにも、ここまでの子はいないと思いますえ。」
ずいぶんな褒めちぎりです。
麗子は、顔がほてってきました。
「ほめすぎですわ。小野寺さんも甚目寺さんも。」
「よしこでよろしおす。」
「あたしも奈美子でいいよ。」
二人は笑いながら部屋を出て行きました。
麗子にとっては、自分の前に道が開けていくようで、わくわくする気持ちが抑えきれなくなりました。
自分が一人の時にやってきた、よしこの気持ちもありがたく思いました。
さて、玄関前のロビーでは、透吾と麗が話しています。
「それでやー、今日はウチのお母さんと、寧子おばさんが東京に下らはるので、三時に京都駅に集合してくれればええんや。」
着の身着のまま、ふらりとやってきた透吾には、持つべき荷物もありません。
麗は、廊下を出てきた麗子に聞きました。
「麗子ちゃんは、お土産買いに行きたいやろ?」
「そうですねー、清水寺を見ていないので、見に行きたいです。」
「ああ、そうなんやー。ほな、どないします?旦那はん。」
「そやな、土方君に麗子ちゃんについてもらおか。僕と麗は姉小路の実家に行かなあかんし、メイドは誠最中を取りに行かせるし。」
「ほな、ウチと奈美子はんが、一緒に行きますわ。」
よしこが、声をかけました。
「たのめるか?佐織は僕とおいない。振り袖と、打ち掛けと、見に行かなあかんし。」
「は?旦那はん、本気やったんですか~?」
「ホンキも本気、本気と書いてマジと読むんや~。」
小娘たちを送り出すと、ロビーは途端に静かになりました。
春菜は、そんなロビーの隅に、ひっそりと立っていました。
「みどりちゃん、一緒に行くよ~。お父さんに報告せなあかんしー。」
春菜は、ぱあっと光を放つように、明るく笑いました。
「ほらな、こんな顔されたら、なんでも許してしまうわなー。」
麗は、苦笑をこらえきれず、また、愛おしさもひとしおな、複雑な顔をして独りごちました。
「アホやな~、僕の奥さんは。」
奥さんと言われて、春菜以上に明るい笑顔を見せた麗でした。
フィフティーズのように、ふわふわフレアースカートの一行(学校の制服の影響で、みんな普段着までこんな感じです。)は、タイトスーツの二人に引率されて、宮川町から建仁寺を抜けて、金比羅さんから東大路に出ました。そこは、東山安井交差点。石の鳥居をくぐって、坂道を上りますと霊山観音の前に出ます。麗子たちは、そこから一本南の道を上がりました、法観寺坂です。ポスターなどによく使われている、八坂の塔に向かう道です。
顔を上げると、八坂の塔が大きく見えます。
八坂の塔のすぐ手前、金剛寺前を左に折れて、一年坂に出ます。
ほんの百メートルほどの短い道のドンツキ(突き当たり)から右に折れると、二年坂です。
近藤ゆうは、前を歩くよしこのおしりを見ながら、傍らの遥に言いました。
「なんだか、修学旅行の引率みたいね。」
よしこは振り返って言います。
「あら、ウチは教員免許、持ってますえ。」
「は~~」
二人は、ため息で見上げました。
きりりと髪を結い上げ、背筋のぴいんとのびたよしこの姿は、まさに女教師といった風情です。
日曜日と言うこともあって、二年坂は時を過ごすごとに人口密度が増すようで、車いすの麗子はなかなか進まなくなってきました。
おせんべいやさんを右に見て、はも茶漬けの店を左に過ぎると、石段の道になります。
石段から左に入りますと、坂本龍馬のお墓や幕末維新ミュージアムの前に出ます。
麗子たちは、石段を登って三年坂に向かいます。
登り口には夢二亭。竹久夢二が下宿していた家があって、そこではきんつばを売っていました。
よしこは、店に立ち寄って、注文しています。
「おかあさん、黒豆十個とお抹茶十個、包んどくれやす。」
麗子は、それにつられるように、店の階段に足をかけました。
寿美が、さりげなく手を握ります。
「麗子はなにがいい?」
「そうね、黒豆とお芋と栗で。」
「事務所の分?」
「ええ、両親にもね、甘いもので少しは気持ちも柔らかくなるといいんだけど。」
「あはは、そりゃいいわ。じゃあ、お母さん、黒豆十個お芋十個栗十個包んでください。あ、黒豆はもう十個、別に包んで。都合四十個。」
「そんなに持てるの?」
「いざとなりゃあ、麗子の車いすに乗せるわよ。」
「あら。」
その車いすは、石段の上まで土方が持ち上げてくれました。
寿美や馨に手を引かれて、石段を上がると坂は産寧坂になりました。
突き当たりは不織庵奥丹という湯豆腐のお店、そこから軽く右にカーブしながら登り道です。
清水焼の絵付け体験ができる、窯元六々堂や文の助茶屋清水店、よーじやにくろちくなど、聞いたようなお店がずらりと並んでいます。
地味な建物なのに、なぜか華やかな通りは、石畳を歩く人々であふれかえっています。
「あんた、チリメンサンショなんて、地味なもの買って、どうするの?」
「ええ、これは雪江さんのお土産よ。」
「なるほどね。彼女、そういうの好きそうだものね。」
クラフトの忘我亭に立ち寄って、猫のお財布を見つけたり、風雅堂でお茶碗を見たり、東京にはないような色柄が豊富にあります。
「さて、イノダはんがあるよって、ここでいっぷくどす。麗子ちゃん、疲れたやろ?」
「いいえ、ぜんぜん。昨日、寿美にマッサージしてもらったから、平気です。」
「そう?まあ、ここでコーヒーでもいただきまひょ。」
そう言って、よしこはイノダコーヒ清水支店に入りました。
落ち着いた店内には、ざわめきとコーヒーの香りが漂って、何とも言えない雰囲気です。
三宮界隈に慣れた麗子には、なぜか落ち着く風情ですが…
「うわ~、これはこれで京都的っていうの?すてきねえ。」
「はい、すてきです~。場所も場所だしー、いいですねえ。」
ゆうは、寿美にノせられて、ほほを紅潮させながらはしゃいでいます。
「だねだね、私、こっちに別荘が欲しくなったよ~。」
「ああ、いいですね。この近くで。」
こういう会話を、てらいなくできてしまうのが、精華学園のこわいところ。
しかも、ほとんど本気でそう思っているところが、もっとコワイ。
「あのなあ、ここの地価がいくらすると思うてますのん?無茶言うたらアカンよ~。」
さすがのよしこさんも、二人の会話にはあきれ顔です。
「え~?おいくら万円?」
「えっとね、あら?意外にお安いまんえん?平米二十五~三〇万円ですって。そんなら、そうお高いわけでもありまへんなあ。」
ちなみに、これは二〇〇七年度の地価分布から引用しています。
橘屋では、もう少しお高くて、平米四十五万円~五十五万円のあいだですが、まあ、その時々で地価は上下しますから、たいした問題ではありませんね。(たいした問題だわよ!)
窓の外には、行き交う観光客が、波のようにたゆたっていて、道の向こうには人力車夫のお兄さんが一休みしながら客引きしています。
ほんの二十年前には、この人力車さんは居ませんでした。
わりと、歴史は浅いですが、市民権を得るのは早かったようです。
確か、最初は嵯峨野方面に居たような気がしますが…どちらが早かったんでしょう?
できれば、次は渡月橋界隈に行ってみたいと思う麗子でした。
「そう言うことなら私は、嵯峨野にほしいわ。」
「まあまあ、そこまで考えへんでも、京都には松本屋もおすのやさかい、心配せんでもええよ。姉小路和泉屋もおますのやし。麗子ちゃん、遠慮したらあかんのよ。」
「よしこさん、そうはおっしゃいますけど、松本屋はともかく、和泉屋は気を遣いますわよ。」
「まあまあ、あそこのお母さんは、心の広い人やから…まあ、京都で泊まるところに苦労はないわねえ。余計なお世話どしたわ~。」
よしこは、ころころと笑って、コーヒーのカップを持ち上げました。
このお店のコーヒーは、最初に言っておかないと、ミルクが入った状態で出てきます。
ブラックの方はご注意…
イノダさんから二〇メートルほどで、また階段になります。
階段の横には、坂本龍馬が密談に使ったという、明保野亭があります。
突き当たりを左に上がると、そこは清水坂(松原通)です。
「はぁ~、すごいですねえ、こんなに人が歩いていますよ。」
「こんなん、竹下通りでも似たようなもんと違いますか?」
「ちがうの。ほら、外国人の服装が、カジュアルなのよ。東京じゃスーツの方が多いの。」
「あれまあ、そう言えばそうどすな。」
それでも松原通の新陳代謝ははげしく、先日あったはずのお店が、いつのまにか変わっていたりします。
むずかしいものですね。
電動アシストの付いている麗子の車いすは、するすると坂を上ります。
後ろには土方がハンドルをにぎって付いてきます。
「ねえ、土方さん。」
「なんですか?」
「私が、パリに住んだらさみしい?」
「そりゃあ遠いですねえ。もちろん寂しくなりますね。」
「そうじゃなくて、あなたは会えなくなってもいいの?」
「そりゃ困りますよ。」
「ちっとも困ってるように聞こえないわ。」
「これでも十分困っているんですけどね。」
「ふうん、私、精華高校を卒業したら、パリに行くかも知れません。」
「パリですか…まあ、飛行機に乗れば十二時間、遠くはないですよね。」
「そうかしら?」
「いいかげん、慣れました。カタオカのメンバーは、ものすごくフットワークが軽いんです。思ったら、即行動していますよ。ですから、距離とか時間とか、頭で考えないようにしています。」
「まあ、そうなの?」
「そうです。まあ、十二時間が長いか短いか、悩むところですが、今度のTOBがうまくいったら、僕の資金も増えて、パリの往復くらいはラクに出せるようになりますよ。」
「そうなの?それはうれしいわ。小野寺さんが、パリの事務所にこないかって、言ってくださったのよ。」
「へえ、小野寺さんはけっこう厳しい人ですよ。あの人に見込まれたなら、おじょ…麗子さんもたいしたもんです。」
「そうだといいけど。」
やがて、坂は行き止まり、石段が行く手を遮っています。
石段の上には、極彩色の山門が見えます。
「どうします?舞台まで上がってみますか?」
「この石段を上がる自信はありませんわ。」
「そうですね、どうしましょうか…」
「麗子さん、こちらの裏道から行きまひょか。確か、奥の院に出られるはずどすえ。」
「拝観料はどうするんですか?」
「そうどすな、お姉さん、お願いできますか?」
「ああ、まかしときな、人数分そろえてくるよ。」
「へえ、よろしゅう。」
清水寺は、近年バリアフリー化が進んでいて、音羽の滝の短い階段などをスロープにかえています。
山門から左に回りますと、身障者の車椅子用入り口が見えてきます。
本殿に参って石畳の道を歩くと、上に地主神社があります。
麗子の目的はここでした。
「えっと、この上が地主神社。縁結びの神様どす。」
よしこの説明に、佐織の目がきらりんと光りました。
「なんでも、ウチの知り合いのおじさまが、関係のない女の子とここに来たところ、数年を経て結婚してしまったという、曰く付きの神社どす。」
「そ、それ本当なんですか?」
佐織は信じられない様子で聞き直しています。
「へえ、そうどす。そのころ、おじさまには別につきあってはるひとがいたそうで、そらもうびっくり。」
「ものすごい勘違いの神様なんじゃありません?」
「さあ?とにかく、くっつける力はあるんとちゃいますか?当たるも八卦当たらぬも八卦って言いますやん。」
「それ、神様じゃないし。」
麗子は冷や汗をかきながら、よしこの言うことを聞いていました。
みんなが登り切った後、土方に手を引かれて上がってきた麗子は、社殿でゆっくりお参りをしました。
佐織はやけに長く参拝していますし、寿美にいたっては鬼気迫るものがありました。
よしこと奈美子は、そんな娘たちを優しく(生暖かく?)見守っていました。
やがて、買い込むものを買い込んだ一行は、清水の舞台に出ました。
「わあ!すてきー。」
馨は端まで寄って眼下に広がる景色に見入っていました。
「もう、お姉様をほったらかして、なにしてるの馨。」
「あ、えへへ、すみませんお姉様。」
「いいわよ、遙、ゆうも端に行って見ていらっしゃい。」
眼下には、遠く西山が浮かんでいます。
こうしてみると、京都の町ってけっこうビルとか、多いんですね。
それなのに、日本的な部分をなくさないというのは、住民の努力なんでしょうか?
もちろん、日本家屋もたくさん残ってはいるんですが、それがひとつひとつ意味があるような気がします。
もちろん、住宅街などに入れば、今風の建物も多いものですが。
そこはそれ、人の住むところですから。
気がついていなかったのですが、清水寺って、お屋根が檜皮葺なんですね。
すっごく厚くって、びっくり。柱は麗子より太いし、黒くてすすけているし。
やはり、イメージで覚えていることのほうが多いんじゃないでしょうか。
「は~、なつかしいですねえ。」
「あら、佐織さんは、来たことが?」
「ええ、小学校の遠足は京都でしたよ~。清水さんにも来ましたし。」
「まあ、私たちはここまで来ませんでしたよ。」
「ああ、そうなんかなあ?距離の問題ですねえ。」
「ふうん。」
本殿の西には、弁慶がはいたという鉄の下駄や、金棒があって、重くて持ち上がるようなものではないのですが、佐織や寿美はおもしろがって持ち上げようと四苦八苦していました。
「うっひゃ~、二人がかりでも持ち上がらないわ~。」
「そうですねえ、ゆう、てつだってぇ~。」
「はいはい、こうですか?」
金棒はゆっくりと持ち上がりました。」
「さすがにゆうは、力持ちねえ。」
「お二人とは鍛え方がちがいますから。これでも、北辰一刀流目録ですよ。」
「はいはい、お見それしました~。」
寿美はおどけて返しています。まあ、そうでなくては麗子のお館組などと言えるものではありません。
「よしこさん、なにをしていらっしゃるの?」
「へえ、御朱印帳を買うてきましたん。これに、奥の院で記帳してもらおうと思いましてン。」
「あら、いいですね。」
「へえ、日付も書いてくれはるので、記念になるかと…」
それを目聡く見ていたのは、遙。
「じゃあ、私も買います。お姉さまの分も買ってきますね。」
そそくさと駆け出す姿は、子鹿のようです。
地主神社の階段を過ぎて、社務所の売店に寄ると、錦の布の貼られた御朱印帳を手に入れました。
「はい、お姉さま。紅いのと蒼いの、どちらになさいます?」
「そうね、蒼いのがいいわ。」
「では、どうぞ。」
遙の差し出した御朱印帳には、真ん中に梵字が書かれていて、今日の日付が左に書かれていました。
「まあ、これが御朱印なのね。」
「ええまあ、地味なものですね。」
「そりゃあ、お寺ですもの、地味でちょうどいいんじゃない?」
「そう言うものでしょうか。」
「ありがとうね、遙。」
「どういたしまして。」
麗子達は、戻ることにしました。奥の院に立ち寄って、御朱印をいただいたことは言うまでもありません。
茶碗坂から下がって、東大路に出たところから、北に上がってふたたび四条通に戻った一行は、とあるビルの八階に上がっていました。
「日本料理だけが京都のごはんと思ったら、おおまちがいどす。中華もいけてますのんえ。」
そう言って案内したよしこに連れられて、中華料理のお店に入っていました。
「おまかせにしてあるよって、食べられへんものがあったら、手ェださへんくてええからねー。」
よしこは、おおらかにそう言って、ほがらかにわらっています。
「あの、TOBのことはいいんですの?」
「え~、旅行に来て、おいしいもの食べてはるのに、仕事のことやら思い出すのもつまらんやん。まあ、話に出たよって、一言だけね。」
「はい。」
「らくしょう。」
「へ?」
「夕べのウチに話はついたんよ。麗さんお姉さんの株を、ウチが買うことにしたんよ。二〇%。」
「に、二〇%あったら、全部で六八%じゃないですか。」
「そう、もうサネイはウチのもんやー。」
「まあ、どんな密約が?」
「特にはないなあ。強いて言うなら、みどりさんの懐妊祝いゆうことやろか。」
「はあ…」
「麗さんお姉さんも、ホンマに嬉しかったんやなあ、みどりさんのこと一番気にしてはったし。」
「そうそう、どうして春菜さんは、麗お姉さまのことを友美ちゃんって、呼ぶんですか?」
「あら、そんなことに気が付かはったん?そうやねー、ここで話してもええかなあ?」
よしこは奈美子にちらりと視線を投げました。
「そうさね、いいんじゃない?」
「ほな、さわりだけ少し。透吾ぼんには、友美ちゃんって言う幼なじみがいてはってね、十七の夏に亡くならはったんよ。そやし、透吾ぼんが好きで好きでしょうがなかった友美ちゃんは、とうとう透吾ぼんの近くにきてしまってな。」
みなごくりとのどを鳴らしました。
「たまたま、顔が似てはった麗さんお姉さんと混ざってしもて、その記憶も共有するようになったんよ。」
「あ!」
麗子は唐突に声を上げました。
「だからあの口調が変わったのも、そのせいなんですね!」
「ご明察。そやし、みどりちゃんは透吾ぼんとは、八坂高校の同級生で、友美ちゃんも同級生。」
「…」
あまりに重い話を、さらりと説明して、よしこはにっこりと笑いました。