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いとこのポン酢〔お嬢様騒動〕弐

すみません‼

異世界にトリップできなくて、逃げてます。

もうすぐ、降りてくるんじゃない…カナ?


― 弐 ―


 明けて土曜日の朝、東京駅に車椅子を押して来たのは、遥でした。

 ゆうと馨は、駅に直接出向き、お決まりの中央通路・銀の鈴前にて麗お姉さまを待ちます。

 八重洲口から寿美が顔を出しました。

 小ぶりなボストンバッグを提げています。

「あら、寿美、おはよう。」

「うん、おはよう麗子。私もお供するわ。」

「まあ、雁子に言われたこと気にしているの?」

「いや、そうじゃないわ、一年生三人では不安があるもの。私も、麗子のお館組よ、あやや雁子がいないときは、私が詰めるのは当然じゃない。」

 これで、あやは小林拳を遣います。

 街の不良程度なら、一人で撃退することもできます。

 遥は天然理心流、ゆうは北辰一刀流、馨は柳生新陰流を遣います。

「ありがとう、寿美。」

「ばかね。」

「荷物は?それだけ?」


「必要になれば、向こうで買うわ。アマゾンのジャングルに行くわけじゃないもの。」

「まあ、それはそうね。標準体でよかったわね。」

「そうね、もう少しお肉があればと思うけど。」

 寿美はくすくす笑って言いました。

「私はお肉はもうたくさんよ。しばらくは、キャベツだけで暮らしたいくらい。」

 麗子は、若干重くなったおムネに辟易していました。

「あら、そのくらいの方が、殿方は好きらしいわよ。」

 寿美は、笑って麗子を諭します。

「そうかしら?」

「び、Bカップは貧乳じゃないですよね。」

 馨は、びくびくしながら聞いてきました。

「馨、まだまだ成長期でしょ?大丈夫よ。」


「ウチは代々貧乳で、牛乳とかいっぱい飲んでいるんですけど、成長しなくて…」

「十八までには成長するわよ、しんぱいしないで。」

「そうでしょうか…」

「ま、私もBカップよ、一緒にがんばろう。」

「遥さん。」

 上背のある遥は、さらにつるぺた感が旺盛で、思わず自分の胸を見下ろしてしまいました。

 丸の内中央口方面から、麗お姉さまが姿を見せました。

 ほっそりとした体を、クリーム色の訪問着で包み、帯は柿色。

 緑の刺繍が映えています。

 半襟も濃いお茶色(つまりは、深い緑色と言うことです)。

 う~ん、気合が入っていますねー。

「おまたせしました。みなさん、用意はよろしおすか?」


「はい、私たちはもう、いつでもよろしいわ、お姉さま。」

「おおきに、ほなまいりまひょ。」

 お姉さまは、後ろに紺のお仕着せの和服を着た、二人の女性を従えていました。

「ユリと椿どす。今日は、二人だけ連れて来ましたんえ。」

 さすがお姉さま。

 使用人も、ぴしりと和服を着こなして、隙がありません。

 二人は、麗子達にむかってゆっくりと腰を折りました。

「ユリでございます。」

「椿でございます。」

 余計なことは口にせず、すぐにお姉さまの後ろに控えました。

 お姉さまが、新幹線のホームに移動すると、ユリはするすると切符を用意して、全員を通過させました。


 新幹線のホームは十四番から十九番です。

 お姉さまは当然のように、グリーン車を目指し、麗子たちもそのあとに続きます。

「お姉さま、お荷物はそれだけですか?」

「へえ、そうどす。主人の実家へおみやげに用意したんどす。へえまあ、あとは向こうでなんでもあつらえられますし、未開のジャングルやおへんもんねえ。」

 あれま、寿美と同じことを言っています。

「向こうに行っても、あれこれと置いてありますし、心配はおへんのや。」

 聞くところによりますと、四条川端下がる団栗橋たもと付近に、新しく旅館を買ったそうです。(それって宮川町ですよねえ。)

 しかも、秋から改装を行ってつい先だって完成したそうで、お兄さまの手回しの早さには舌を巻きます。

 小振りな離れも用意されていて、なかなか凝った作りです。

 電車は午前十一時には京都駅にするすると入り込み、デカダンな雰囲気の駅舎に出ました。

 はっきり言って、景色が見えなくてサイテー。


 こんなに上に向かって大きくする必要があったのでしょうか?

 地下に向かって伸ばせば、スリムですっきりしたものになったでしょうに。

 無駄に広いエントランスも、必要があったのか疑問ですが、麗子たちは烏丸通口に向かって、ゆっくり移動を開始しました。

 塩小路通りを右に折れて、京都タワー前のスクランブル交差点から烏丸通を北上するのですが、距離にすれば三キロほどの距離なのですけど、麗子の車椅子のこともあってタクシーで移動することにしました。

 四条川端から少し下がって団栗橋下、宮川筋三丁目付近です。まあ、すぐそこに南座があったり、宮川町歌舞練場があったり、そうそう建仁寺はすぐ裏手です。

 四条河原町にも近く、好い場所です。まわりが雑然としているのが、気になると言えば気になるのですが、場所柄そう言うものなのでしょうか。

 お姉さまに聞くと、昔はここは祇園乙部と呼ばれて、遊郭などもたくさんあったそうです。

 旅館は木造の二階建てで、ヒノキの香りも漂ってきそうな、ぴかぴかの新築。

 なんでも、柱レベルまで分解して、すべて組みなおしたというお話。

 これは、もう、改装なんてレベルじゃありません。薄緑の京壁もすっきりした印象で、手すりのついた濡れ縁も風情があります。


 中庭、坪庭、飛び石につく苔の緑色もあざやかで、樫の寄せ植えもしっとりとしています。

 縞のお仕着せに、紺の前掛けの従業員は、きびきびと淀みなく動いています。お姉さま、気合の入った教育をしたようです。

 もともと、ここには古い旅館が多くあり、団体旅行の不振からあまりいい経営ではなかったようですが、カタオカが東京、大阪に次いで買い込んだ旅館がここだったのです。

 お兄さまのその後の行動は早く、改装が進むうちに従業員を集めて、ものの三ヵ月でここまでにしてしまいました。

 道路から歩道を経て、旅館の前には二間の石畳があり、植え込みと毛氈のかかった床几が見えます。

 もちろん、石畳は掃き清めたうえに水もまかれていて、いかにも京都らしい演出がされています。

 壁の下には犬やらいが並び、美しいカーブを描いています。

犬やらい

 そうした演出は、やはり京都人であるお兄さまらしいと言えるでしょうか。

 後で聞いた話では、かなりの出物だったそうで、お買い得とよろこんでいらっしゃいました。

 まあ、そんなこんなで、麗子たち一行は旅館に入り、お部屋をあてがわれて落ち着いたのでした。

「どうどす?麗子ちゃん、この旅館。」

「ええ、素敵ですね。小ぢんまりしているのに、中はゆったりとしていて、廊下も無理に滑ったりしないし。手すりもさりげなくてバリアフリーなんですもの。」

「麗子ちゃんが来ても、不自由せんように旦那はんに、図面引いてもうたんどす。これなら、合格点どすな。」


「もう、一二〇点ですわ。麗子は、玄関からここまで、一人で歩いてこれたのですもの。」

 そうです、この旅館の中では、車椅子を降りて歩くことができるのです。お兄さまの設計で、特殊な床素材を使って、滑って転んだりしない構造になっていたり、手すりが目立たないように配置されていたりするので、麗子はゆっくりならば自力で歩いて移動ができます。

「お年寄りが泊まっても、これなら十分ですわ。」

「そう、それはよろしおした。麗子ちゃんに来てもうたのは、まず、これが目的どすにゃ。旦那さんは、松本屋さんに泊まってはるやろから、また連絡入れるし。」

「そうだったんですか。麗子は、これからどのようにすればよろしいの?」

「へえまあ、このあと姉小路に行って、反物見ますし、お昼も食べるし、することはいっぱいおすえ。」

「そうですか、では出かけるときには、お呼びくださいね。」

「へえ、ほなら少し休まはる?」

「いえ、みんなとお茶でもいただこうかと。」

「そうどすな、ほな、あっこ使うとくれやす。抹茶もコーヒーも出せますえ。」

 お姉さまが指差したのは、中庭に面した一角で、畳敷きの床几が並んでいるコーナーでした。


 麗子はうなずいて床几のひとつに腰掛けて、ゆうを呼びました。

「ゆうさん、みなさんを呼んで、ここでお茶にしましょう。」

「はい、ただいま呼んでまいります。」

 ゆうは、ぱたぱたと、廊下の奥に消えていきました。

お姉さまは、ロビーで電話をしています。

「ちょっとダンはん、いまどこに居てますのん?は?吉野?まったくもう、急に移動しはって、びっくりしますやん。へえ、へえ、そうどす。いま、橘屋にきたんどす。」

 そうか、この旅館は橘屋っていうのね。

「いつお戻りどす?はあ、夕方…え!奈美子はんとも合流しはるんどすか?」

 なんだか機嫌が悪そう。

 麗子は、席に着いたみんなと、コーヒーを持ち上げました。

「ほな、ここに居てますよって、用事済まはったらすぐに来ておくれやす、よろしおすな。」

 電話は、唐突に切れました。あ、もう一軒電話を始めます。

「もしもし、へえ麗どす、へえお久しぶりどす。寧子さんおばさま、へえ、双葉ちゃんは居てはります?」


 あら、双葉に電話?双葉というのは、透吾お兄さまの従妹で、若葉という双子の姉が居ます。

 二人とは、一緒にパリに行きました。

 それが縁で、以来、親しくさせていただいています。

 婚姻による姻戚関係ですね。でも、脇坂唖莉洲なんかよりは、よほど仲が好い従姉妹と言えるのではないでしょうか。

 歳も同じだし。

「へえ、そうどす。お約束がないなら、これから一緒にお出かけしまひょ。四条川端下がった団栗橋のそばの、橘屋どす。へえ、わかります?ほな、よろしゅう。」

「お姉さま、双葉さんがいらっしゃるの?」

「へえ、若葉ちゃんはなにやら、お友達と出かけたはるらしいけど、双葉ちゃんは居てはるらしいわ。」

「そうですか、一緒にお食事?」

「へえ、そうどす。とりあえず、姉小路堺町の実家にも顔を出さなあきまへんよってな。」


「はあ、お嫁さんはたいへんですね。」

「そうなん、もう、気ィつかって、かなんわあ。」

「ふふふ、それでも楽しそうですわよ。」

「そらそうやー。こういうことしながら、夫婦になったなあって、実感するのんえ。」

「なるほど、おノロけでしたのね。」

「まあ、この子は、おナマゆって。」

 やがて、宝ヶ池から双葉がやってきました。

 なんの変哲もない絣の着物で現れた双葉に、みなぎょっとしました。

 百山亀甲絣(新潟県十日町の絣本真綿。

 百山亀甲の柄を重ね織りした紺絣。)ですね。

 男物っぽい亀甲紋の折柄も地味な着物ですが、双葉はきりりと着こなしています。

 半襟も、変哲のない白に小さな梅模様の刺繍だけ。

 帯も、銀鼠の少し黒っぽいものを合わせて、さりげなく着こなしています。


「ど、どうして普通の日に和服で来たの?」

「へえ、麗子ちゃんが来てはる言わはったよって、へんな服着てくるより、着物で来たほうがマシやなあ思うてなあ。ウチら、普通の家やよって、そんなによそいき持ってへんし、紺絣やったらどこに行ってもへんやないやろ?」

「そりゃあそうだけど、びっくりしたわ。」

「うん、今日はお茶のお師匠はんとこ行ってきたし、そのままこっちへ来たんよー。」

「そうですの。双葉ちゃん、紹介します西ノ宮寿美さん、ウチのクラスメイト。」

「こんにちは、おうわさは聞いてますよー。」

「まあ、どんな悪口やろ?」

 双葉は楽しそうに笑いました。

「それから、一年生の近藤ゆう、土方遥、沖田馨です。」

「「「よろしくお願いします。」」」

「へえ、よろしゅうお頼の申します。萱崎双葉どす。」

 双葉は、いと優雅にお辞儀しました、やはり、お茶のお免状を持っているくらいですので、所作が優雅で自然です。


 和服に着られた感じもありません。

「あれまあ、ゆりさん椿さん、ようおいでやす。」

「「はい。」」

 ユリも椿も面識があるらしく、会釈で返しました。

 橘屋旅館から祇園花見小路までは歩いても一〇分ほどですので、みんなで徒歩移動にしました。

「ああ、麗子ちゃん、自分で車椅子まで移動でけはるんやねえ、よかったわあ。」

「ええ、おかげさまで、なんとか少しずつ練習しているんですのよ。」

「よろしおしたなあ、これでお嫁に行けますやん。」

 ぴくりとみんなの耳が双葉を向きました。

「あれ?ウチヘンなこと言うた?なんや、パリでじっとウェディングドレス見てはったやん。エッフェル塔から一枚だけハガキ出さはって、男さんの名前どしたなあ。」

「うわわ、双葉ちゃん、だめー!」

 あわてて口をふさぎましたが、手遅れでした。

「やっぱり、あの縁談はうそじゃなかったんじゃない!」


「寿美―!」

 みんなの目にお星様がいっぱい煌めいて、麗子はいきおい小さくなったのでした。

 麗お姉さままで、にじにじ近寄ってきます。

 みんな、そういうお話に餓えているのね~。

 麗に先導されて一行がやってきたのは祇園松本屋。

 お茶屋で旅館で置き屋の、二〇〇年以上経た黒い柱と白い壁の町屋です。

 正面には格子戸が並んでいて、もちろん犬やらいもあって、着物の二人が立っていると、なにやら時代がわからなくなりそうな雰囲気があります。

「こんにちわぁ、お姉さん居てはるー?」

 からからと格子戸を開けて、中に声をかけますと、下足番のおじいさんが顔を出しました。

「こ、こりゃあ、片岡の若御料ンさん、ようこそおこしやす。」

「へえ、こんにちは。春菜さんお母さんは居てはります?」

「へえ、奥に。どうぞ、おあがりやして。」


「へえおおきに。ほなおじゃまします。」

 麗お姉さまは、皆を先導して松本屋に上がりました。

「まあまあ、聞いた声やと思うたら、友美ちゃんやないの、ようこそおいでやす。あらまー、双葉ちゃんに、大勢さん連れはって、どないしやしたん?」

 友美ちゃん?いま、麗お姉さまに向かって、友美ちゃんっておっしゃいました?

「みどりちゃん、久しぶりやねえ。元気にしたはったん?」

「ええもう、元気にしてますえー。友美ちゃんも、元気そうでよろしおしたなあ。」

「そらもう、ウチががんばらへんと、二十の会社が干上がってしまうんどすえ。そらきばりますわー。」

「あはははは、さあさあ、おぶうでもおあがりやす、キヨミはん、おぶう用意してー。」

 友美ちゃんって、麗お姉さまのことなのでしょうか?二人の会話はいまいちよくわかりません。

「なんやさァそんなとこで、つくなってへんと、みんなお上がりやす。初めての人ばっかやけど、春菜はんやよ。」

 麗お姉さまは、ころころと笑いながら、女将さんを紹介しました。

 春菜さんとおっしゃるそうです。なんでも、透吾お兄さまの同級生だったそうです。


 白い顔に涼やかなまなざし。

 今を盛りと咲き誇る芙蓉のような、華やかで凛として、それでいて儚げな、何とも言えない美しい女性です。

 麗お姉さまと二人並んでいると、そこだけ金色に輝いているような錯覚を覚えます。

 浅い翠の縞模様の大島をきりりと着こなして、長い髪をゆったりと結い上げた様子も、落ち着いていて鬢のほつれが色っぽく、襟足のなまめかしさは麗子たちが逆立ちしても追いつけそうにありません。

「みなさん、おこしやす。さあ、上がっとくなはれ。どうぞどうぞ。」

 女将さんに薦められて、座敷に上がった麗子たちは、黒光りする柱やつるつるの廊下に圧倒されたのでした。

「なんやもう、古いだけで…」

 女将さんはそう言いますが、じつに立派な大黒柱や、坪庭に歴史と伝統を感じます。これも、お姉さまが教えてくれたのですが、昨年、お兄さまの肝いりで大改装を行って、柱など重要なものはそのままに、土台や、壁など傷んだ部分を総入れ替えしたんだそうです。ですから、重厚なつくりはそのままに、構造自体は耐震構造に変更されています。見えないところに、鉄骨の箱が隠れているらしいのです。見た目では、ぜんぜんわかりません。廊下の照明なども、気を遣って暗さを感じさせず、そこかしこに採光を考えてあります。

「ここ、芸妓や舞妓ちゃんの置き屋さんなんやよ、ほんで、あの女将さんは祇園でも有名な、お三味線の名人。」

 双葉の小声の説明に、頭をよせあった一行は、ひそかにうなずいたのでした。

 そう言えば、玄関になにやら名札のようなものが、たくさん並んでいました。

 やがて、麗お姉さまの挨拶もすみ、一行は四条通に出ました。


 麗お姉さまが、どれほど女将さんを大事に思っているかが、伝わってくるような気の配り方で、麗子は自分が雁子やあやに、ここまで気を遣っているか、心配になるほどでした。

 なにしろ、花見小路は観光客でいっぱい。

 そりゃまあ、土曜日のこともありますから、出足がいいのは当たり前ですが、タクシーが通るのに苦労するくらい人でごった返しています。

 春先の、観光シーズン真っ盛りですものね。車椅子で通過するには、かなり前方に気を遣います。

 ぶつかったりすると、けっこう痛いんです、相手が。

 お姉さまは、縄手通りの一角にするりと入って、さして大きくない日本料理店に入りました。

 この辻は、鉛筆のようなビルが狭そうに並んでいる一角で、東大路に向かっていくつも細いビルが並んでいます。

 京都も、パリのように高さ制限や、建物の制限を早く行っていれば、ここまでひどい状態にならなかったのでしょうが、残念です。

 まあ、地元の人たちにとっては、ここも生活圏なわけですから、便利な方がありがたいのは当たり前ですけど。

「今日の人数なら、このへんで十分どす。」

 お姉さまにしては庶民的な選択と思ったら、大間違いでした。お魚の鮮度は最高級、もちろん選択もよく、技術も群を抜いています。

 一つ一つの素材の味がしっかりわかって、しかもこのムラサキ!

 東京では出あったこともないような、深くて味わいのあるしかも、味覚から全身に快感が走るようなお味。

 さすがに、学園の生徒たちはみな、その味に衝撃を受けてものも言えません。

 味がわかると言うことが、幸福なのか不幸なのか、判断にくるしむところですね。

 ただ一人、双葉だけがにこにこしながらお刺身に手を出しています。

「ふ、双葉ちゃん、このムラサキに驚かないの?」


「へ?これ、ウチとおんなじおしょうゆやおへんか?北野の御幸どすやろ?普段とおんなじ味どっせ。」

「ふ、普段使い!これが?」

「へえ、工場生産のええかげんなもの使うたら、舌がアホになる言うて、お母さんは昔からこれしか使いません。そやし、このおしょうゆは、ウチのお味どす。」

 麗お姉さまは、いたずらっぽく笑いました。

「お姉さま、はじめからわかってらしたのね!」

「うふふふふ、あ~おかしい。精華の子ならこの味がわかって当たり前やと思ったけど、ここまでびっくりしてくれはると、連れてきた甲斐がおましたなあ。」

「そりゃあ、驚きますわ。お父様が普段使っていらっしゃる料亭でも、こんなお味は出会ったことがありませんわ。」

「うふふふふ、お味噌もええもん使うてますえ。お食事を楽しんでもぅたら嬉しおす。」

 そりゃあもう、こんな小さなお店で食べられるようなお味とは思えませんでした。

「修行先はナイショやけど、ミシュランなら三ツ星当たり前の料亭で修行してきはって、ついこのまえお店出さはったんどすわー。まだ家族経営やけど、これから伸びますえ~。」


「そりゃそうでしょうけど、いきなり驚かされますわ。」

「安い高いは別にして、ええお仕事してはるお店は、見つけるのが難しんどす。評判言うもんは、尾ひれと思い込みが激しいもんどすさかい。自分の感性が一番大事やね。」

「でも、そんなにたくさん歩くのは大変ですわ。」

「そらそうや、ここはみどりちゃんが教えてくれたよって、知ってるだけやもん。そやし、そう言う情報に、アンテナ出して、ちゃんと吟味できるシステムは、自前やよ。」

 うわ、お姉さま、さりげなく厳しいことを言っています。感性の鈍いオンナは出来が悪いと言いたいらしいです。

「そやにゃ~、今夜は橘屋でお夕食にしまひょ。よしこはんも奈美子はんも集まりますし、みどりちゃんも来てくれはります。豪勢に、お姐さんもたくさん呼んで、お座敷遊びもしまひょ。」

 なんだか大変なことになりそうです。

 縄手通りから四条通に出て、四条大橋を渡って交番の横を曲がると先斗町です。ふらふらとそぞろ歩きながら、細い路地を抜けると河原町通りに出ました。お姉さまはあいかわらずぽくぽく歩いて行きますので、みなそれに従って後をついていきますが、どうやら道がわかっているのは双葉くらいのもので、ほかのみんなは、ぜんぜんわからないようです。


「麗子お姉さま、ここはどこなんでしょう?」

 馨が不安がって聞いてきました。

「四条河原町の上の方だと思うわ。あの信号を渡ると京極寺町じゃないかしら?」

三条商店街

「あら、麗子さんようわからはりますねえ。」

 双葉が横から声をかけました。

「ええまあ、看板とか見ていますから。」

「なるほど、そやなぁ、ついでやから京極も抜けていきまひょ、麗さんお姉さん、信号渡りまひょ。」

「へえ、そうどすな、ほなそうしまひょ。」

 京極寺町は、雨が降っても平気なアーケード街で、下がきれいな大理石の石畳なので、車椅子でも楽に通れます。

 もちろん、ここも人出はものすごくて、九人が固まって歩くのは、けっこう大変。


 麗子の車椅子は、寿美が押しています。

「あたしは、運動不足かもしれないわ。ゆう、代わって。」

 寿美は、麗子の車椅子をゆうに渡して、離れました。

「はい、了解しました。」

 こんどは、ゆうが車椅子につかまります。

 比較的ゆっくり歩くので、それほど人ごみにぶつかることもないのですが、道にまでせり出したワゴンや商品が、車椅子にはじゃまになります。それでも、一行は程なく鳩居堂前にやってきました。東京で鳩居堂前といえば、路線価の日本でいちばん高いところと言われていますが、(二〇〇九年度まで二十四年連続、二〇〇九年度は一平方メートルあたり三一二〇万円)ここ京都ではひっそりとした、昔風の佇まいを見せています。もちろん、お店の中はお客様でいっぱいです。

 鳩居堂まえ

 麗子は、中に入ることがためらわれたので、道から見ているだけですが、寿美は遥を連れて中に入っていきました。

 だって、売り場の中はけっこう狭くて、車椅子で入るとほかのお客様の迷惑になりそうなんですもの。

 寿美と遥は、きれいなレターセットと、防虫香を買ってきました。

 なんでも、下着の引き出しに入れておくのだそうです。

「お土産を買うコツは、見たときに買うことどす。後で…なんて思うと、きっと帰ってから忘れてました~ってことになるんどす。」

「そう言うものですか?」


「へえ、そうどす。ほら、パリで買い忘れた、バラベルサイユ。あれはくやしおしたわ~、パリにしかない限定の化粧ビンがあるんどす。次に行くまで、デザインが変わってなければええんどすけど。」

「あ、なるほど、ラベルも変わるんですね。」

「そう、そうどす。ウチは、無理やり輸入するのは好かんのどす。そう言う、不自由があってこそ、楽しいと思いまへんか?」

「ええまあ、そうですね。」

 椿が横でくすくす笑いました。

「どねぇしたんどす?椿。」

 椿は赤くなって下を向きました。

「い、いえあの、奥様が水しか出ないシャワーに困っていらっしゃるところなんて、想像できなかったものですから。」

 麗お姉さまは、目を丸くして硬直しました。

「み、水しかでない?」


「私が高校の卒業のときに旅行したのは、奥様からは想像もできないような、格安ツアーでしたので、ホテルが三ツ星以下だったのですわ。それで、ボイラーが壊れて、シャワーが水しか出なくて、悲鳴を上げたことがあります。今となっては、良い思い出ですが。」

「まあ、椿は楽しいパリ経験どしたなあ。」

「ええ、もう不自由を満喫してまいりましたわ。日本やアメリカのような便利さを、パリに求める日本人はナンセンスだと思いました。」

「よいお勉強をしましたね。椿は、よい国際感覚を身につけました。」

「はい。」

 椿は、またするりとお姉さまの後ろにつきました。程なく、寿美たちが戻ってきたので、鳩居堂まえから西に向かいます。ここが姉小路です。するすると西に進むと、堺町通りと交差します、亀甲屋町と呼ばれる町の南カドが、姉小路和泉屋呉服店です。

「はい着きました、ここが姉小路和泉屋、透吾の実家どす。」

「「「うわ~~~」」」

 一年生は、片岡の実家を見て歓声を上げました。間口は八間半あって、格子戸で通りに面した障子を被い、出窓の下には犬やらい。大きなつり暖簾に通しの土間。昔ながらの町屋作りですが、その規模はこの界隈でも最大級ではないでしょうか。黒い柱も重々しく、歴史と風格を感じさせます。

「こんにちはぁ、ごめんやす。」

『へえ、おこしやす~。』


 麗お姉さまの声に、若い女性が答えました。

義姉(おね)ェさん、お久しぶりどす。」

 麗お姉さまは、丁寧に腰を折って、対応に出た女性に挨拶をしました。

 どうやら、この家のお嫁さんらしいです。

 透吾お兄さまの、お兄さま、大吾さんのお嫁さんだそうです。

『まあ、麗はんやおへんの、ようこそおこしやす。お父さん、お父さん、麗はんどすえ。』

 店の奥からは、少しやせ気味の背の高い男性が出てきました。

 深緑の大島に黄土色の縮緬の羽織を合わせて粋に着こなしています。

 帯は銀ねずみ色の角帯。

 なんと、羽織のひもは深い紅の色です。

「おうおう、麗ちゃん、よう来たなあ。お連れさんもいっしょか?はよはよ、上がりぃな。みなさんも、おいで。」


「お義父様(とうさま)、突然おじゃましてすんまへんなぁ。」

「なに言うてまんにゃ、もっと顔出してくれんと、寂しいやないかー。」

「へえ、おおきに、ほなみなさん、上がらしてもらいましょ。」

 めったに見られない、町屋の内部ですが、さすがに大店。道路側に一間の三和土があって、そこから商品の陳列用の座敷となります。

 横長なつくりかと思えば、商店の裏は居住区であり、座敷は中庭に面して広く取られています。

 お店の雑然とした雰囲気から、一気にぴいんと張り詰めたような静寂が、一種異様な雰囲気でもあります。

 うなぎの寝床とはよく言われますが、和泉屋の中は本当に広くて、町屋とはひとくくりにできないものだと気づかされます。

 ふつう、八畳の座敷に九人が座るとけっこうぎゅうぎゅう詰めですが、必要最低限の調度しか置いてない座敷は、広々と言うか閑散と言うか…仏間のふすまは締め切られていますが、座敷の二間は開け放たれて、奥行きが感じられます。そこから、中庭に面した廊下と濡れ縁。苔むした中庭は、木戸でおとなりと仕切られています。

「双葉ちゃん、寧子はどうえ?」

「あいかわらずどす。主婦は気楽でええなあと。」

「まあ、あの子は、お気楽極楽やねえ。」

「あはは、そのとおりどす。」


「祇園祭は?お手伝いに来てもらえるの?」

「へえ、笙子おばさんがええて言わはったらと、うちのお母さんも言うてました。」

「へえ、ほなよろしゅうお願いしましたえ。」

 そんな会話をしながら、奥からお茶を運んできた双葉は、麗子に笑いかけました。

「ここはムスメが居てへんかったよって、ウチらがムスメみたいなもんどす。」

「まあ、そうなんですの?」

「麗さんも遠慮せんと、いつでも顔出しておくなはれ。うちはほれ、むさくるしい男兄弟どすやろ?やっと大吾のとこにさくらさんがお嫁に来てくれて、華やかになったところどす。」

「ほらほら~、ウチら廊下のホコリあつかいどすにゃわ~。」

 双葉の声に、笙子おば様は苦笑を漏らします。

「これ、この子はもう~。」

 座敷の中には明るい笑いがあふれました。いいおうちです。


 麗お姉さまも、一緒になって笑っているお顔が、ご実家である脇坂のお屋敷に居るよりも、柔らかに見えます。

「今日は急にどうしたんや?」

「へえ、お父さま。ウチの透吾ボン言うたら、急に京都で悪巧みしてはるらしくて、大阪に奈美子はんを派遣して、自分はよしこはんと京都入りしてはるんどす。ヨメをほっておいて、いきなり出張はないやろと思いましてな。」

「あ、そら透吾が悪いわ~、いっぺん声くらいはかけるもんや。」

「そうどすやろ?そやし、モンク言うたろと思いましてン。」

「うんとこさ、懲らしめてやるとええわー。友美ちゃんの説教なら、聞かなあかんやろ。」

「へえ、そうどすな。」

 あ、また友美って言った。

「透吾ぼんは、このあと奈美子さんと合流して、宮川町でウチらと合流するんどす。」

「そうかー、昨日は寄って行ったがなあ。」


「ホンマ、ゴクラクトンボで。あら。」

「ええてええて、それがホンマや。」

「あはははははは」

 お姉さまは、ひとしきり笑うと、みんなを連れて町に出ました。

 ちょっと上がって御池通りに出ますと、西に向かってほんの五百メートル。

 二条城が見えてきます。時間も早いことから、今日は二条城の見学。

「ユリ、椿、あんたらは、橘屋に戻って料理のチェック!ええかげんなもん作ってはったら、遠慮のうダメ出しして。」

「はい、お任せください。」

「御意!」

 二人は、きびすを返すと、もと来た道を戻っていきました。

 二条城は二の丸御殿が、中に入って見学することができます。

 麗子は、内部用の車椅子に移って、見学することにしました。


 二の丸御殿の入り口は、黒々とした破風が立派な、重厚な建物です。

 破風の中にちりばめられた金細工の美しいことには目を見張ります。

 廊下は鴬張りと呼ばれ、寿美が横を歩くときゅっきゅっと音がします。

「広いわねー。」

「そうね、パンフレットには、大広間は一の間から四の間まであります。一の間は四十八畳もの広さがあり、続く二の間は四十四畳です。二の丸御殿の中では、最も格式高い部屋になり、第十五代将軍・徳川慶喜が、諸大名を前に、大政奉還を発表した歴史に残る部屋でもあります。二の間は、御水尾天皇の行幸で、能の見所としても使われました。なお、三の間は大名の控え室として使われ、厚さ三十五センチの一枚板になっているヒノキの両面透かし彫りがあります。…なんてことが書いてあるわよ。」

 麗子が読み上げると、ほかの五人もうなずいていました。

「なんで、双葉ちゃんもうなずいているのよ。」

「そやし、そんなん聞くの初めてやもん。」

「入ったことないの?」

「小学校の、社会見学以来入ったことないなあ。」

「まあ、そうなの?」

「お金出して見るとこやおへんやん。」


「まあ、言われてみればそうかもしれませんわね。」

「そやろ?ウチは日本史にはあんまり興味がないもん。」

「そんなものかしらねえ?」

「まあ、場所によらず、日本史には好き嫌いもあるしなー。大政奉還=徳川慶喜なんて、当たり前やんなあ、みんな知ってはるし。」

 つまり、暗記のレベルが違うのね。さすが、名門進学校。八坂高校恐るべしね。

 しかし、一の間に来て、ずらりと並んだ水干姿の人形を見たときは、鳥肌が立ちました。

 まさに、そこで大政奉還が行われた場所。

 歴史の立会人が、この建物なのです。

 廊下からは、苔むした庭の様子なども伺えて、春の日差しに暖かそうな陽だまりを作っています。


 昭和十四年に二条城が京都市に下肢されてからは、このお庭の管理も市の職員のお仕事になったそうです。

 たいへんですね。

 無事一周してくると、預けておいた車椅子に乗り換えました。

 昔に比べて、この乗り降りがずいぶん楽にできるようになりました。

 お姉さまに連れられて、パリ(本当は、ヴェルサイユで手術したんですけど、面倒なのでパリで統一しています。)まで手術に行った甲斐があったと言うものです。すこしずつ、筋力もついてきて、自分が動きやすくなって来たことがわかります。

 本当に、家の中ならば、歩いて移動することが不可能ではなくなったのです。

 さて、二条城を出て、まだ時間があったので五百メートルほど下がりました。

 四条大宮です。

 ここは、有名な壬生寺があります。

 『壬生さんのカンデンデン』と呼ばれ、四月と十月に行われる壬生狂言は有名ですが、一部の熱狂的ファンにとってはここが新撰組の聖地です。

 新撰組に関する展示も多く、百円玉を入れると三橋美智也さんの「ああ新撰組」の主題歌が流れる石碑は、ほほえましくあります。

 加茂の河原に 千鳥が騒ぐ …ああ、いけません、一番を、全部聞いてしまいました。

 このまま三番まで聞いていきましょう。


 新撰組顕彰碑や近藤勇の胸像など、見所もいっぱいあります。

「どう?ゆう・遥・馨、あなたたちと縁がありそうね。」

「はあ、私は北辰一刀流です。まあ、近藤勇の道場とは近かったらしいですけど。ウチの道場はほら、坂本竜馬が居たところですよ。」

「遥は、天然理心流、近藤先生の流派です。日野市で土方製薬工業を営んでいて、サンヤックという打ち身捻挫の薬を作っています。」

 遥は、勢い込んで言いました。

「馨は柳生新陰流、縁がございませんね。」

 あいかわらず馨は、のほほんとしています。

 

 実は、私は新撰組の小説のかくれファンなので、ここは一度は訪れたかったところなんです。

 新人物往来社から出ている、大内美予子先生の沖田総司は、一度は読むことをお勧めしますわ!

 かならず三度は泣けること、請け合いです。

 …こほん、さて壬生寺の横には八木邸。

 ここも、新撰組の屯所のあったところで、今では和菓子屋として、誠最中なるお菓子を売っています。

「麗お姉さま、私、誠最中を買いたいのですけど、よろしいかしら?」

 麗子は、いたずら心を起こして、学園のみんなにお土産を買おうと思ったのでした。

「へえ、そうどすな、ほな中に行ってみまひょ。」

「あ、私も買いたいです。」

 遥が、あわてて着いてきました。結局、みんな中に入ったのですが、ごく普通の和菓子屋さんと言ったところです。


 格子戸を抜けて、カウンターがあって、どこにでもあるようなしつらえですが、ここが八木邸の離れであることを思えば、不思議な気持ちがします。

「そやし、麗子ちゃん、学校のお友達にお土産にしやはるんなら、あしたのほうがええんとちがう?」

「ああ、そうですわね、どうしましょう?」

「ほな、あした椿にでも取りにこさせまひょ。お姉さん、明日の午後にできたてを六〇欲しいねんけど、よろしおす?」

  誠最中

「はい、その時間に準備できます。」

「ほな、麗子ちゃん、あしたはそれで。今日は、ここで食べていきまひょ。」

「あら、そんなところが?」

「へえ、この奥にお抹茶と誠最中を出してくれはるところがおすねんよ。」

 麗お姉さまに椅子を押されて、奥に向かうと小さな一角に毛氈じきの床几があって、甘い香りが流れてきます。


「みなさんもお座りやす。」

 双葉も寿美も、それぞれ床几に腰掛けました。

「ほな人数分、お茶と最中を。」

「はい、お抹茶ですか?」

「そうどす。」

 アルバイトの娘さんは、そそくさと中に消えていきました。

「なんだか、お姉さまのほうがよほどネイティブですわね。」

「へえ、そうどすな。ウチは、もともと姉小路で…あらあら、アカンわ。これナイショ。」

 そう言って、お姉さまは襟元をなおすふりをして、横を向きました。

「麗さんお姉さん、若葉ちゃんが夕方合流したいて、メールが来てますけど。」

 すかさず双葉が声をかけました。ほんとうに、この子はタイミングの良い子です。

「そう?そら大歓迎やよ。すぐに来るよう返事しとくれやす。」


「へえ、ほなそうします。」

 双葉は、手早く携帯を操作しています。

『お待たせしましたー』

 数人の女の子が、誠最中とお茶をのせたお盆を持って出てきました。

 略式もいいところですが、まあそれは黙殺しましょう。

 さすがに双葉は、最中のお皿を持ち上げると、黒文字でさくさくと切り分けて、ぺろりと食べてしまいました。

「は~、双葉ちゃん、じょうずねえ。」

「そらまあ、これでもお茶はお免状どすえ。」

「おみそれしましたー。」

 一年生たちに負けず劣らず、寿美も苦労しているようすです。

「あ~、お茶はまあ、こんなもんと思ってましたわ~、これはガマンやね。」


「ほんとう、これはしょうがないですわね。」

 お宿で出されたお茶がおいしかったせいもあって、このお抹茶はイマイチ…。

「宿に帰ったら、双葉ちゃんにお茶たててもうたらよろしがな。」

「あら~、お姉さん、それは…」

「できますな。」

「ハイ…」

 お姉さまに念を押されて、双葉は小さくなっています。

「でも、この最中はおいしいですわ。ねえ、寿美。」

「ええ、小豆がぴんとしていて、これだけで十分ですね。」

「「「おいしいですー。」」」

「じゃあ、帰ったらこれでお茶会しましょう、ね、寿美。」

「え~、本当にやるの?」

「いいじゃない、たまにはソロリティに負けないお茶会を、クラスで開催しても。」


「そりゃそうですけどね、だってお茶たてる係りはあたしたちでしょ?」

「まあ、三十人分ですけど、五人で割ればすぐよ。」

「は~い。じゃあ、やりましょう。一年生も手伝ってね。」

「はい、お任せください。」

「がんばります。」

「…では、お茶室の使用を申請しておきます。あやお姉さまに、連絡しますね。」

 馨は、意外に目端の利いたことを口にしました。

 少しばかり、京都の観光を満喫した麗子たちは、夕暮れを背に四条川端に戻りました。

 ふつうのおうちも多い場所ですから、そこかしこから夕餉のにおいが漂ってきて、おなかもくうと鳴ってしまいます。


「おやまあ、麗子ちゃん、健康そうな音やねえ。」

「いやですわ、麗お姉さま。」

「ええやん、手術からこっち、どんなんかなあと心配してましたけど、これなら順調に回復してはるんやね。元気でけっこうなことどす。」

「はい、麗子はどんどん健康になっていますわ。」

「よろしい、お料理とかお菓子とかは、ウチが教えますし、お料理の家庭教師も付けまひょ。なんにもできしまへんでは、外聞も悪いしなあ。」

「外聞って…」

「そら、向こうの親御さんに、なんにでけへんヨメやなんて言われとうないもんねえ。」

「ヨメ…」

 思わず頬に血が上ります。

「ヨメですって。」


「やっぱり…」

「縁談…」

 うげげ、またハナシが蒸し返されています。

「縁談、結婚、言うものは家同士の結びつきやよってな、油断したらあかんよ。」

「はあ、はい…」

「うちのお父さまが、えらい怒ってはってなあ、白峰にヨメに行った綾子は、脇坂の顔に泥を塗るつもりかって。こんど、家庭問題で騒動起こさはったら、真面目な話、無一文で放り出すつもりえー。」

「お、おじさまが?」

 麗子の母親は、脇坂要氏の腹違いの妹に当たります。

 先代がたまには毛色のちがうところと縁を繋いでも良かろうと、白峰にヨメに出しました。

 出た以上は、ほぼ他人と言っても過言ではないでしょうが、そこは兄と妹のこと、多少の甘えは許されてきました。

 しかし、新年早々の夫婦喧嘩と長年の不仲とが重なって、脇坂の本家から呼び出しがかかりました。

 すべての権限の取り上げと、脇坂からの離縁を持ち出され、夫を立ててしっかり家を守るよう、釘を刺されたのでした。


 曰く、白峰の家を出るときは、脇坂の一切の縁故を許さず。

 協力や援助は一切なく、無一文で放り出すと言われています。

 母は、泣いて謝ったそうです。

 父も、これには驚いて、母をかばったそうです。

 これによって、白峰夫婦はもとの鞘に納まり、次の選挙でも脇坂の援助が受けられるようになりました。

 麗子的にはめでたしめでたしなのですが、まさか麗子の縁談にまで話が及ぶとは意識の外でした。

 これを止めてくださったのが、透吾お兄さま。麗子の縁談は、透吾お兄様が握ってしまったというわけです。

「まあ、ウチの人が麗子ちゃんの縁談を、脇坂の父から取り上げてくれはったよって、あのアホボンとの話はお流れになったけど、お父様もよりにもよって安田のアホボンを持ってくるやなんて、信じられへんかったわー。」

「や、安田の若様?静修学院でサッカー部のキャプテンの?」

「そうや、顔だけはええけど、アタマは最悪。性格も悪い。そのくらい知ってそうなもんやわ。」


「うわ、お姉さま、そこまで言う?」

「あたりまえやん、キャプテン言うても人望でなったもんとちゃうしな。ウチは、一人娘で脇坂の跡取りとして育てられて、そのくらいの情報源はいつでも確保してますえ。ましてや、あんたはウチの可愛い妹分や。あんたの幸せのためやったら、ウチはなんでもしますえ。」

 お姉さまは、不適に笑って麗子の耳元に言いました。

「ええか、あんたの将来は、ウチがしっかり見張ってますえー。」

 ありがたいのかこわいのか、よくわかりませんわ。

 さて、橘屋旅館では浴室も小ぢんまりとしていて、八畳程度の大きさしかありません。

 周りが、住宅や旅館ですので、露天風呂と言うわけにも行きません。

 まあ、そこそこですね。

 お夕食の前に、みんなお風呂に入ることにしました。

 双葉は、若葉がこないのでロビーで待っています。


「お姉さま、支えてなくて大丈夫ですか?」

 遥が、横合いから声をかけてくれました。

「ええまあ、手すりとかありますから、大丈夫ですよ。」

 麗子は、にっこり笑って答えました。

 橘屋旅館は、そこかしこにかくれ手すりがいっぱいあって、もちろん見える手すりもあって、どこへ行くにも楽に移動できます。

「うわ~、お姉さまおっきい~。」

「へ?」

「馨、なに見てるのよ。」

「だって、遥さん、お姉さまのおムネ、おっきいですよ~。」


 二人の目が、麗子の胸に集中しました。

「そ、そんなに大きくないわよ。」

 麗子は、筋肉が少ないので、ぷにぷにしていますが、車椅子を回していた関係からか、腕から大胸筋にかけてはけっこう筋肉が発達していて、ムネも引き締まっています。

「ほらあ、馨はBカップで、しかも小さいんですよー。」

「ああ、ほんとだ、小ぶりだね~。」

「遥さん、ひどいですよ~。」

 麗子は、言い合いをはじめた二人を置いて、中に入りました。

 窓は明り取りのため、大きなものがついていますが、すべてルーバーが付いていて、外からは見えないようになっています。

 十人は入れそうな湯船に、しっかりお湯が満たされていて、湯加減も調度良い感じです。

「はあ~~~~~、いいお湯ですわぁ~。」


「お姉さま、ずるいですー。馨を置いていかないでください。」

「だって、あなたたちおしゃべりが長いんですもの。」

「すみません、馨が聞きわけがないので。」

「あ~、遥さんそれはひどいですー。」

「おっと、麗子はもう入っちゃった?」

「あら、寿美、遅かったわね。」

「うん、ちょっと外まで見に行ってきたのでね。」

「なにを?」

「この窓さ、覗いたりできないか確認にね。」

「あらまあ、それでどうだった?」

「ああ、よほど近づかなきゃ無理だね。安心していいよ。」


「そう、ごくろうさま。」

 寿美は、手早く服を脱いで湯船に近づきました。

「寿美さんもそんなにおっきくないですね~、安心。」

「な、なにが安心なのかなー?だいたい馨は、外見を気にしすぎなのよ。もっと、内面を磨きなさいよ。」

「そうね、見かけばかり気にしてはいけないわね。これから、Bカップって言うの禁止。」

「え~~~~~、そんなあ。」

「Bカップって言ったら、罰金ケーキにしましょう。」

「ああ、それいいわね。麗子と私に、学園ブラッスリーのケーキおごりなさい。」

「がーん」

 麗子たち五人が湯船に入っても、余裕の大きさなので、皆いたってのんびりしていたのですが、なにやら脱衣場から声が聞こえてきます。

「なんで急に京都やなんて、出かけはったん?」


「そやし、旦那はんが言わはんにゃもん、しょうがおへんやないの。」

「そんな、よしこはん。」

「麗はん姉さんが、気にするほどのことやおへんやないの。」

「いきなりイノダはんから電話が来たら、びっくりするのは当たり前どす。」

「まあ、そらそうやけど、今日のことは、もうええやおへんか。」

 からからと、軽い音がしてお二人が入ってきました。

 髪をアップに止めて、ほっそりした体が見えたとたん、麗子たち五人は硬直しました。

「お、大きい…」

 馨のつぶやきは、それだけですべてを語っていました。大きいんです。

 圧倒的に迫力を持って、麗子達の眼前に迫る二つの巨峰。


 国家安康の鐘もかくやと言うべきか…

 麗お姉さまのDカップが若草山に見えるほど、もう一人のおムネは立派でした。

「は、はう~~~~~ナンマンダブナンマンダブ…」

 思わず馨が拝んでしまうほど。

「なんやあんたら、ゆっくりしてはったんやねえ。なに、拝んではんのん?」

「お姉さま、彼女のおムネがあまりに立派なので、感動しているのですわ。」

「ああ、よしこちゃん?まあねえ、こんどのTOBもこのおムネが原因やもんねえ。」

「へ?TOBとおムネにどんな関係が…?」

「まあ、あとで説明してあげまひょ。よしこはん、背中流しておくなはれ。」

「へえ、賜りました。」

 よしこさんは、ゆっくりとお姉さまの背中を洗います。


「なんやサァ、こんなきれいな背中なら石鹸で洗う必要おへんわなぁ。」

「そんなわけあらへんやろ。」

「おっと、手がすべった。」

「うにゃ~~~!」

 よしこさんのオヤジ…

「おかえしやん!」

「ちょっとやめてぇな、これ以上大きいなったら、しまうブラがあらへんやん。」

「そやさかい、サネイを買収すんのやろ?」

 サネイ?下着メーカーの?麗子も愛用しています。


 丁寧に縫製されていて、好感の持てるメーカーです。

 その、サネイでしょうか?

「お姉さま、サネイって、下着のサネイですか?」

「そうえー、どうしても自分にぴったりした下着が欲しい言うて、TOBかけてはんの、無謀なお姉さんやろー?」

 む、無謀と言うか、大胆というか、不適と言うか…とにかく、豪儀なお話です。

「ちゃいますねん、ウチも含めた大きい人向けの下着が少ないって、言うてますのや。どうせ、全部買うても三百億ほどの話ですヤン。そやし、真面目に買い進んで来たんどす。ウチの涙ぐましい努力を汲んでおくなはれ。」

「はいはい、まあ、中小企業に毛の生えたような上場企業どすさかい、まあそんなもんやろうね。」

「そやし、ばれるのが早すぎた気もします。誰か、相乗りしてはるのかも?」

「さてねぇ、外国のファンドとちゃうの?ウチが動いたら、すぐばれるし。」

「そやねえ、お姉さんは二〇%の株式を持ってはったやろ?」

「うん、まあ手放すのは条件次第やね。純然たるウチの財産やし。」

「最悪、役員権限だけでも押さえたいんどす。姉さん、なんとかしておくなはれ。」


「しょうがないなあ、旦那はんはどう言うてはるの?」

「へえ、週明け早々にも公開買い付けに切り替えようかと…」

「ほならそれでええやん。ウチ、大もうけ~。」

「身内で儲けて、どないすんねん!」

「まあ、そらそうやなあ。委任状書いて、株価が落ち着いたらよしこはんに売ったげるわ。」

「ホンマ?そらありがたいわー。もうちょっとで五〇%越えるんやわー。」

「そやし、奈美子はんが大阪に飛んだんやね。よしこはんが、京都にもぐって。」

「そうどす。比例配分になりそうやったよって、先に別方向から押さえたろて、思いましたん。」

「そんで?勝てそう?」

「そらもう、ウチと旦那はんが手ェ組んでますねん、奈美子はんも手ェ出してますし、今回は土方はんも参加してます。まず、一〇〇%ウチの勝ちやね。ホンマは、公開買い付けせんでも五十一%に到達します。」

「あらまあ、ほな公開買い付けはどういうつもりで?」

「ま、ユーザーはんの、意識調査みたいなもんどす。ウチの会社になったとき、どの程度味方になってくれはるかは、重要なところどす。引き続き株主でいてくれはるようなら、将来性もあろうというもんどす。」

「へえ、いろいろ考えてはるんやー。」


「ま、そこはそれ、株式は一〇〇%手に入ったほうがええんどすけど、そうも行かんどすやろ?」

「まあねえ。」

「そこで、五十一%よりどれだけ保有できるか、やれることはやっておこうというのが、透吾ボンの考えなんどす。」

「なるほど。どちらにせよ上場廃止になれば、一緒やもんね。」

「その通り。」

「そうか~、つまり株主数が四百人を割り込む可能性もあるというこっちゃね。」

「うん、最終的には百人以下にしたい。その上で、だれも手出しでけへんようにするんや。」

「強気やねえ。」

「こんな小さい取引で負けたら、アホみたいやん。」

 ち、小さいって、三百億円からの取引がですか?

「ウチ、こないだの儲けが、千四百億ほどありますのや、そやし、全額かけてもこの仕事は取ります。」


「あはは、まったくよしこはん言うたら、強気通り越して豪気になってはるわー。」

 あの、背中の流しっこしながらするお話ではないと思うのですが…

「はわわ~、おムネの大きな人は、話す内容も大きいですー。」

「馨、それは違うと思う。」

「えっと、ウチのサンヤックの年間総売り上げが、五百四十億円で、粗利が百八十億とすると人件費が…」

「これこれ、遥、なんの計算をしているの。」

「だって寿美さん、三百億儲けるのに、何年かかるかという疑問が…」

「まあ、スケールが違うので、なんとも言えないわね。」

 とにかく、あっさりと言い切るお姉さまたちの神経は、鋼鉄のワイヤーくらい強固と言えるのではないでしょうか。

 お姉さまたちは、頭まで洗うとさっさと湯船につかっていました。

「今日明日は、休養日にしましたん。まあ、お仕事の話はナシナシ。」

「へえ、そうどすか?ほな、これでお仕事モードは解除しまひょ。麗子はん、パリ以来どすなあ、お元気にしてはった?」


「はい、前より健康になりましたわ。」

「そうどすか?そらよろしおしたなあ。」

「小野寺さんは、今日もおしごとでしたの?」

「へえ、大体はきんのうで終わりどす。今日は、吉野の上千本に行ってきました。」

「まあ、吉野の桜はいかがでした?」

「へえ、もう終わり(しまい)かとおもいましたけど、まだ少しはもってくれてました。」

「うらやましいわ。私も見たかったですわ。」

「ほな、来年はみなさんと行きまひょ。ええ旅館も見つけましたし。」

「楽しみですわ。」

 お湯の中にぽっかりと浮かぶ『ひょっこりひょうたん島』は、白いお餅のようで、柔らかそうでそのうえぴんと張っています。

 馨は、そこから目が離せず、よだれが落ちそうな顔をしています。

「さわりたいの?」


「はう」

 馨は、まさにお手をしようとするワンコのように、ぱたぱたと手を動かしました。

「しょうがないわね、小野寺さん、この子にすこし触らせてあげていただけませんか?」

「へ?」

「この子があやかりたいそうですわ。」

 馨を前に出すと、小野寺さんは軽くうなずいて言いました。

「よろしおすえ、こんなもんでよかったら、なんぼでも触っておくれやす。そやし、それで大きゅうなるかはわからしまへんえ。」

「はい~。」

 馨はおそるおそる、小野寺さんのおムネに手を伸ばしました。

 ふょん…

 やわらかくて、ぷりんと跳ね返す、二つの水蜜桃。

「や、やわらかいです~」


「あ~もう、そんなんせんと、こうぐわしっと~!」

 いきなり横合いから麗の手が伸びて、馨の手のひらをよしこさんの胸に押し付けました。

「いたたたた、いきなりつかんだら、痛いやおへんか。」

「こんくらい、いっつもやないの。」

「最初はソフトに触るもんどす。」

「そうかいなあ?で?どやった?」

 声をかけられて、馨は真っ赤になってあたふたしています。

「あ、えっと、や、やわらかくてはりがあって、ステキでした。」

「そらよろしおしたなあ。はよう大きゅうなるとええねえ。」

「は、はい。」

「ほんまにもう、ウチは乳神様やないねんから。」

「あはは、まあええやないの、青少年の希望の先っちゅうことで。」

「はあ、ウチは小学校からこれで悩んできたのに。」

 よしこは、盛大にため息をついて、お風呂場を後にしたのでした。


 麗子も、続いてお風呂から上がり、浴衣に着替えてロビーに出ました。

 橘屋旅館では、浴衣の柄が選べるサービスがあって、温泉旅館のような旅館の名前の入った浴衣ではありません。

 麗子は紺地に金魚の赤い染め抜きの入った浴衣で、帯は赤にしました。

 寿美は、白に紫の朝顔が咲いている浴衣で、帯は紺です。

 春とはいえ、夜になると少し肌寒く感じますが、湯上りにはちょうど良い感じ。

 ロビーで、寿美と話していると、玄関から透吾お兄さまたちが入って来ました。どうやら、奈美子さんや佐織さんを迎えに行っていたようです。

「こんばんは、麗子さん。」

 一番に声をかけてくれたのは、犬塚佐織さんでした。

「ええ、こんばんは、佐織さん。大阪に出かけていらしたんですって?」

「そうなんですー。大阪でもそらもうえらい騒ぎで…」

 佐織の後ろから、背の高い影が入ってきました。

 お兄さまと奈美子さんは、なにやら話し込んでいる様子で、麗子に声をかけるのも簡単にすませて、奥に向かいました。


 最後に玄関をくぐったのは…

「あ、これはお嬢さん、こんばんは。」

「土方さん、こんばんは、おつかれさまです。」

 思わずほほの熱くなる麗子でした。

「もう、私はお嬢さんじゃありませんよ、土方さんは事務所をやめたんですから。」

「まあ、そこはそれ、クセというかなんと言うか。」

「これからは、麗子とお呼びくださいな。」

「れ、麗子さんですか。」

「ええまあ…」

 二人とも、なんとなく照れてしまって、赤くなっていました。


「お二人さん、こんなとこでなにしてまんにゃ?」

 玄関に立っているのは、春菜さんでした。

「い、いえ、ごあいさつを。」

「そうどすか?ほな、中にはいりまひょ。もうじき、ごはんどすえ。」

「はい、そうですね。」

 あらら、なし崩し的に麗子と土方は、奥へといざなわれたのでした。

 春菜さんは、さすがに花柳界を渡ってきた実力者だけに、色恋ざたもなんのその、すべてをくるりとひとからげにして、するりと回してしまいました。春菜さんのまわりには、うす緑色のそよ風のように渦を巻いた、麗子たちの思いが漂っているようでした。

 そんな想いを腰にまとわりつかせたまま、春菜さんは奥の座敷へと向かったのでした。

「行きましょうか?」

 麗子の声に、われに返ったように土方は、麗子を振り返ったのでした。

 そこに、ひょっこりと顔を出す人影。

「あらら、お姉さん、どこ行かはったんやろ?あの、すんまへん、ここを着物来たお姉さんが…」


「ああ、春奈さんならこの奥の座敷に行きましたけど。」

「そうどすか!よかった~、ウチお店を間違えたかと思って、肝ひやしましたんえー。」

「そうですか?このロビーの奥がお座敷ですよ。」

「へえ、ほなお邪魔します。」

 女性は、そこでぞうりを脱いで、ロビーに上がってきました。ぱたぱたと、急ぎ足で座敷を目指す手には、錦の袋を被った三味線がふたさお。

「僕たちも行きましょうか。」

「はい。」

 土方は、麗子の手を取って、ゆっくりと座敷に向かったのでした。

 寿美は、ため息ひとつ、その後をそっと奥に向かって歩き始めました。

 夕飯の時間になると、透吾お兄さまの事務所のメンバーが勢ぞろいして、いつぞやのような大騒ぎ。

 その一翼を担うのは、先ほど春奈さんを追いかけてきた女性でした。


 名前を工藤マリカと言うそうです。このマリカさん、お三味線を弾きながら歌うという、どこかの三人組のようなことをしています。

「マリカちゃん、ちょっと飛ばしすぎやよ。」

「えー、お姉さん、ウチ盛り上げようと思ったんどすー。」

「そんな、◎し◎しムスメやあるまいし、ちょっと修正しよし。ウチが弾くよって、あんた舞いよし。」

「へえ、ほならそうします、よろしゅうお頼の申します。」

 軽い音合わせの後、どこかで聞いたようなフレーズが流れます。

『月はおぼろに東山 かす夜毎よごとのかがり火に 夢もいざよう紅桜 しのぶ思いを振袖ふりそでに 祇園恋しや だらりの帯よ

 夏は河原の夕涼み 白いえりあしぼんぼりに かくす涙の口紅も 燃えて身をやく大文字だいもんじ祇園恋しや だらりの帯よ

 かもの河原の水やせて むせ瀬音せおとに鐘の声 枯れた柳に秋風が 泣くよ今宵こよいも夜もすがら 祇園恋しや だらりの帯よ

 雪はしとしとまる窓に つもるうせの差向さしむかい 灯影ほかげつめたく小夜さよふけて もやい枕に川千鳥 祇園恋しや だらりの帯よ』


 わあっと下級生たちが拍手を送ります。

「私、初めて見ました、すばらしいですね。」

 ゆうは、目を輝かせて、麗子に言いました。

「私もです。」

 遥の声に、馨も寿美もうなずきました。

「みどりちゃん、じょうずになったなあ。」

「もう、透吾ぼん言うたら、あれから何年たったと思っといやすの?」

「そやし、去年からでもまた腕が上がってはるんとちがう?」

「いややわあ、透吾ぼん。もう、そうそう腕が上がることもないやろ。」

「いや、そんなことないよ、やっぱ人間、成長言うモンは、一通りではないらしい。どれ、僕もやってみよか。」

 透吾お兄さまは、春菜さんの三味線を持ち上げると、軽く弾き始めました。

「黒髪どすか?そんな、なんども舞うような舞やおへんえ。」


「みどりちゃんの黒髪を、僕はみてへんやん。」

「承知しました、ほな、もいっぺん最初からお頼の申します。」

「お、お姉さんの黒髪どすか、ほな、拝見します。」

 マリカさんは、あわてて姿勢をただし、正座して前を向きました。

『黒髪の むすぼれたる 思ひをば とけてねた夜の 枕こそ ひとり寝る夜の 仇枕 袖はかたしく つまじゃといふて ぐちな女子の心としらず しんとふけたる 鐘のこえ ゆうべのゆめの けささめて ゆかし 懐かし やるせなや 積もるとしらで つもる白雪』

 低い、透吾お兄さまの声が良く通る地謡となって、座敷に広がりました。

 お兄さまの爪弾く三味線の音色も、哀愁をまとって美しく、切れ長の目の流し目が怪しく、娘たちは我知らずほほを染めたのでした。

「うわ~、ウチ、また練習しなおしやわ~、こんなん見せられたら、自分が練習足らんの、ばれてまうやないの~。」

 マリカさんは、半泣きで頭を抱えました。

「いつまでたっても、お姉さんに追いつけへんにゃ~。」


「もう、マリカちゃんたら…そやし、透吾ぼん、音色がまた変わりましたなあ。ウチとはぜんぜん違うんやもん。」

「そやな、いつまでも一緒やないなあ。」

 そんな二人は、芸事の話に入り込んで行きます。

 麗子は、土方の横でお酒のお酌をすることにしました。

「土方さん、どうぞ。」

「いいところのお嬢さんが、お酌なんてしなくても…」

「いいじゃないですか、麗子のお酌ではだめですか?」

「そんなことはありませんよ。」

 ごはんと言いながら、お座敷は宴会場の雰囲気をかもし出しています。

「ほならや~、ウチらも舞おやないの~、なあ若葉ちゃん。」

「あれまあ、ほなら透吾兄さん、音羽(作者の創作ですので、あるかどうかは知りません。)でも。」


「へえ、そんなんできるんや。」

 軽快な伴奏に、かわいらしい舞を披露した双子に、一同拍手喝采。

「どうどした?麗子ちゃん。」

「すてきだったわよ。二人ともあんなことも覚えているのね。」

「う~ん、実はこれだけは、練習させられたって言うか~、姉小路のおじさんがどうしても習ってこいって言わはって。」

「へえ、どうして?」

「お客さんが来たとき、舞妓ちゃんを呼ぶ手間がないときもおますやん。」

「なるほど、そこで二人が舞って見せるのね。」

「そうどす。そやから、ウチらは同級生のほかの子より、祇園言葉がきついんどす。」

「なるほど、そういう訳があったのね。」

「ほならウチも舞います~。」

 突然立ち上がったのは、麗お姉さま。


「へ?」

「旦那はん、八坂(これも、作者の適当な創作ですので、以下同文。)できます?」

「うん、できるで。こうやろ?」

「それそれ、ほなお頼の申します。」

 ややゆっくりした曲調に、優雅な扇の流れが、麗お姉さまの白い顔を引き立てています。

「麗はん、そんなんいつ覚えたん?」

 お兄さまは楽しそうに、お姉さまに声をかけました。

「ひとつくらいは京舞を覚えておいて、損はないと思いましてな。」

「なるほど。そこ、もう少し指伸ばして。」

「こうどすか?」

「そうそう。」

「友美ちゃん、右足、もう少し前。」


 途中から、春菜さんの指導が入り始めました。

「へえ、こうどすか?」

「そう、そこでお(いど)もう少し落として、そう。」

「みどりさん、こんどウチにも舞、教えてくれはる?」

「よしこさんも?へえ、いつでもどうぞ。」

 しかし、祇園でも名手と言われた春菜さんの三味線を、ナマで聞けたと言うことが、どれほどすごいのかは、あとになってわかりました。ここは、宮川町ですが、ここまでそのうわさは広まっていたのです。

ふすまの向こうから、かさかさと衣擦れの音が聞こえてきて、そっと隙間から覗く目はいくつもありました。

 みしみしみし…がたがたがた~~~ん

「「「うっひゃあ~~~~~~!」」」

 数人の芸舞妓がはずれた襖の上に折り重なっていました、いずれも祇園町の芸舞妓です。

「わちゃ~、すんまへんすんまへん、すぐ退散しますよって。」

「あれ、雛よしちゃんやないの、そんなあわてて逃げへんでもええやない。」


「そやかて、お姉さん、ここはプライベートどすやろ?」

「へえ、そうどす。まあ、ほとんど家族みたいなもんどす。」

「そこをお邪魔するわけには、いきしまへん。」

「まあまあ、今日はお花かかってへんの?」

「すんまへん、お茶引きどす。」

「そうどすか、ほな、ウチのダンはんにお花つけてもらいまひょ、ねえ旦那はん、よろしおす?」

「ああ、ええよ。三人ともつけたり。」

「ほら、ウチの旦那はんは、ええお人どすやろ。みんな、ここに入りよし。」

 はずれた襖は宿の人がなおし、あらためて三人が並びました。

 と言っても、芸妓の雛よし、舞妓の豆よし、よし清の三人は、お化粧も普通で、衣装も普段着です。


「しもた~、どないしょ、普段着やんかいさァ。」

「ウチもほとんど素顔どすー。」

「ああ、わかったわかった、ここの奥に舞妓変身セットのある部屋がおますよって、そこできれいにしてきよし。」

 透吾お兄さまは、笑って指差しました。春菜さんに案内されて、奥に引き込みます。

「お兄さま、舞妓変身セットって、なんですの?」

「ああ、読んで字のごとく、この旅館には舞妓ちゃんに変身できる特典があるねん。」

「まあ、それは初耳ですわ。」

「まあねぇ、まんだ稼動初めてへんさかい、ま、これからっちゅうことで。」

 お兄さまは、にこにこ笑いながら、説明してくれました。

 なんでも、季節のかんざしがなかなか揃わないそうで、本物を探しているらしいです。

「そいじゃあ、場つなぎにあたしが歌おうかな~。」


 奈美子さんが出てきました。

「ダンナ、伴奏をお願い、嵯峨野さやさや。」

「ああ、ええよー。」

 お兄さまは、気軽に三味線を構えました。あら、指でアルペジオが弾けるのね。

『京都嵯峨野の 直指庵 旅のノートに 恋の文字 どれも私に よく似てる

    嵯峨野笹の葉 さやさやと    嵯峨野笹の葉 さやさやと

雨の落柿舎 たんぼ道 藪の茶店で 書く手紙 きのう別れた あの人に

   京都嵯峨野に 笹が鳴る    京都嵯峨野に 笹が鳴る

朝の祗王寺 苔の道 心変わりをした人と 責める涙が ぬらすのか

   嵯峨野笹の葉 さやさやと    嵯峨野笹の葉 さやさやと

京都嵯峨野に 吹く風は 愛の言葉を 笹舟に のせて心に しみとおる

   嵯峨野笹の葉 さやさやと    嵯峨野笹の葉 さやさやと

   さやさやと』

『嵯峨野さやさや』昭和50年 JASRAC Code No.036-4971-7

 作詞:伊藤アキラ 作曲:小林亜星 歌唱:タンポポ 編曲・制作:滝野細道

「すてきー、誰の曲ですか?聞いたこともありませんよー。」

 寿美が、興奮して聞きました。


「そうだねー、三〇年くらい前の曲だもの、あたしも生まれてないさ。でも、きれいな曲だから覚えたんだ。」

「すごくきれいな曲ですね。」

「そうだね、高音に苦労する。」

「やあ、奈美子はん、ボイストレーニングに通ってはると思ったら、こういうことやったんやなあ。上手やったやん。」

「そうかい?そりゃよかった。」

 こころなしかほほを染めながら、奈美子さんは席に戻りました。

 やがて、お化粧をすませた三人が座敷に戻ってきました。お衣装も、宿のものを借りたようです。

『あらためまして、こんばんはァ、雛よしどす。』

『豆よしどす。』

『よし清どす。』

 きれいどころが三人そろって、お辞儀をします。舞妓さんのブラがしゃらりと鳴りました。


「ほなら、ご挨拶代わりに舞妓が二人で舞います。」

「ほな、ウチが三味線を…」言いかけた春菜さんに、雛よしさんが手を上げて止めました。

「あ、すんまへんお姉さん、ウチ伴奏しますよって、ダメだししとくなはれ。」

「ええのん?」

「へえ、今の実力を、まず見てもうてから、改めて教えを請いたいと思います。」

「そう?ほな、拝見します。」

 春菜さんは、透吾お兄さまの横にやってきて、すとんと座りました。

 お座敷はけっこう広くて、二十畳以上もあるでしょうか、十二人が膳を並べて座っても、余裕があります。お舞台は少し上がったつくりで、金屏風が後ろに立っています。

「ほな、ウチも見せてください。」

 マリカさんも、春菜さんの横に座りました。

 二人の舞妓さんに緊張が走ります。春菜さんは三味線の、鞠香さんは舞の、ともに祇園甲部でも名の通った名手ですから。

『つぅ~き~は~…』


 場慣れした雰囲気ではあっても、雛よしさんの緊張は、こちらまで伝わってくるようで、額の汗がそれを物語っています。

「ものすごく緊張しているようですわね。」

 麗子は、土方の隣でお酌をしながら、二人の舞を見ていました。

「そうですね、あ、トチった。」

 土方さんも、わかるくらい舞妓の手がつまりました。それでも、止めははいらず、とうとう最後まで舞いきってしまいました。

「ふうん、麗子はん、どう思います?」

「わ、私ですか?えっと…」

 そう言われても、どう言ったら良いのでしょう。

 麗子が困っていると、春菜さんは、雛よしさんに言いました。

「そうどすな、ウチのところへ三月通っておいなはれ、お母さんにはウチからお話ししまひょ。」

「う、ウチですか?」

「そうどす、雛よしちゃん、もう少し手直ししたげますよって、よろしな?」

「へ、へえ、よろしゅうお頼の申します。」


「そやし、ほかのみなさんにはナイショやよ。」

「へえ、わかりました。」

「お姉さん、ホンマに?」

 マリカさんは、心配そうに聞きました。

「しょうおへんやんか、こうしてウチのこと頼ってきはったんやもん。」

「そうは言うても…」

「なんや、あんたがウチに来たときみたいやんかさァ。」

「うわ、古いこと持ち出さはって、イケズやわあ。」

 そこへ、透吾お兄さまが声をかけました。

「ほならやー、みどりちゃん、こういうの聞かせたらどうや?」

 春菜さんにそっと耳打ちします。

「ああ、昔習った…」


 三味線を手に、つま弾きます。

『やさしい雨の 祇園町(ギオンマチ) 加茂の流れに写る あなたの姿 あれは 初めての恋

  見詰め合う 見詰め合う瞳  あなたとふたり

おぼろ月夜の 清水(キヨミズ)で  初めて触れた あなたの白い指 あれは はかない約束

  涙に 涙に濡れた  あなたとふたり

桜散る散る 嵐山  何も言わずに別れて あなたはどこへ  あれは 去年の今頃

  想いは 想いはつのる  あなたとふたり』

「何という曲ですの?」

「加茂の流れにやよ。三味線に合う曲どすやろ?」

「ええ、はい、そう思います。」

「昔なあ、透吾ぼんが高校生のとき、教えてもうたんどす。」


「まあ、高校生?高校生で、お三味線が弾けたんですの?」

「そらもう、透吾ぼん言うたら、そのころから上手で、たくさんお弟子さんかかえて、教えてはったんよ。」

「まあ、そうですの?お兄さま。」

「まあ、そんなたいそうなもんと違うけどな。」

「ちっさいお師匠さんって言われてなぁ、そらもう舞子ちゃんだけやのうて、大きいお姉さん達も透吾ぼん、透吾ぼん言うて、通ってきはってなあ。」

「そうそう、透吾ぼん言うたら、あれもうたこれもうたって、なんや訳のわからんもんを持ってはってなあ。ウチは気が気やなかったわー。」

「そやろ?友美ちゃん。ウチ、ほんっまにはらはらしどおし。」

「うん、みどりちゃんの気持ちもようわかるわー。」

 二人はうなずきあって、手を取り合う始末。

「でも、お姉さま、そのころのお兄さまを、どうして知ってらっしゃるの?」

「ああ、この記憶は友美ちゃんの記憶どす。ウチのやおへん。」

「友美ちゃん?」

「へえ、ま、これは聞かんときよし。」

「はあ…」


「舞子ちゃん二人は、ウチの所にきよし。」

 鞠香さんは、二人を手招きしました。豆よし、よし清の二人は、神妙な顔をして前に座ります。

「まず、あんたら空いた手ェに、ちゃんと舞させよし。動いてへんときこそ、目立つもんどす。それと、よし清ちゃん、おいどの位置が高すぎ。若いんやから、もっと膝使うて、ぐっとおとさなあかんやろ。豆よしちゃんは、右手。月のところできっちり止めて、最初の見せ場やよ。そこからだらけたらあかん。」

 厳しい指導が入っています。

「みどりちゃん、二人でひとさし、舞ってみるか?」

「そうどすな、ごちゃごちゃ口で言うより、見た方が早よおす。マリカちゃん、ええな。」

「はい、お姉さん。」

 もう一度、透吾お兄さまが三味線を構えました。雛よしさんの喉が、ごくりと鳴ります。

『月はおぼろに東山…』

 お兄さまの低く通る声が聞こえてきました。

 二人舞の祇園小唄ですが、見ている麗子達には、二人の姿がとても大きく見えました。


 振り付け自体は、先ほどの舞子たちと同じものなのに、存在感がまるで違います。

 広いはずのお座敷が、ずっと狭くなったように感じます。

 二人の舞姿から目が離せなくなって、麗子達は硬直していました。

『だらりの帯よ』

 一番だけの舞でしたが、二人が頭を下げたところで、みな一斉に息をはきだしていました。

「はあ~、先ほどの一人舞もすばらしかったですけど、この二人舞は引き込まれますわ。」

「き、緊張しちゃって、息止まってた。」

 寿美は、息を整えながら、麗子に向きました。

「私もよ。」

 舞子二人は、おおきく息をはいたあと、がっくりとうなだれてしまいました。

「どうなさったの?」


 麗子に聞かれて、二人は顔を上げました。

「へ、へぇ、ウチら一人前のつもりでいましたけど、やっぱ舞子は舞子どすにゃなあ、お二人の舞に圧倒されてグウの音も出ェしまへんにゃ。」

「ホンマ、お姉さんの言うとおりどす。もっと、精進せなアカンなあって、思ったんどす。」

「それがわかるなら、合格どす。ウチらの舞が目に残ってはるうちに、もう一度舞いよし。」

 マリカさんの声に、二人は立ち上がりました。

「ほな、ウチが唄います。」

 春菜さんの声に、二人はびくりと立ち止まりました。

 先ほどは、雛よしさんの唄でしたので、緊張がなかったのですが、春菜さんの唄となるとどうなりますか。

 精華学園の生徒達は、みな、真剣な顔をして二人を見つめています。

 大人達は、てんでにお酒を飲んだり、お料理をつついたり、この差はなんでしょうね?

 ついっとすべらせるバチの、なめらかな動きと色っぽさ。


 麗子たち小娘には出せない雰囲気です。

『つぅ~きぃは~』

 さあ、始まりました。

「はい、右手、気を付けて、左手、演技して。そう、よし清ちゃん、おいどもう少し、五センチ下!豆よしちゃん、左手三センチ引いて。」

「うわ、細かい!」

「でも、良くなってるわ。」

 素人の麗子が見ても、あきらかに先ほどの舞とは違って見えます。

「よろし、ほなここまで。」

 マリカさんの声に、二人は息を止めて振り向きました。

「ようなったやん。次のお座敷までに、いっぺん松本屋にきよし。もういっぺん、おさらいしたげますよって。」

『へえ、お姉さん、おおきにありがとうございます。』

 二人は、声をそろえて、深々と頭を下げたのでした。

「ほならやー、金毘羅ふねふねしよか~。」


 透吾お兄さまの声に、春菜さんが顔をほころばせました。

「へえ、そうどすな。せっかくお姉さんたちが来てくれはったんやし、お座敷遊びのひとつも披露せな、東京からきはったお嬢さんたちが、たいくつしますえー。」

「いえ、もう、今のでおなかいっぱいですー。」

 麗子は、ほんとうに驚いたり、興奮したり。上手と呼ばれる人の技を見て、肝を冷やしたりしたので、お座敷を堪能していたのです。

「まあそう言わんと、少し遊んでみとうみやす。」

 麗お姉さまも、にこにこしながら言うものですから、みんな顔を見合わせてしまいました。もちろん、興味はあるんです。芸舞妓と遊ぶと言うことが、どんなことか知りたいと思いますし。

「透吾ぼん、どうぞ。」

 春菜さんは、お調子を持ち上げて、お兄さまに勧めました。

「うん、おおきに、ほなご返杯。」

 杯を受けて、口元に運んだとき、春菜さんは口元を押さえて、部屋を出ました。

 その後を、よしこさんが追います。

「なんどすやろ?みどりちゃん。」


 麗お姉さまは、不思議そうに首を傾げました。

「あの子が、呑みすぎで気分悪くなったとこなんか、見たことないよ。」

 奈美子さんも、そうおっしゃいます。

「まあ、よしこちゃんが付いてはんにゃから、心配はいらへんわ。ほら、マリカちゃん。」

 透吾お兄さまは、お銚子を持ち上げて、毬香さんに勧めました。

「え?あ、おおきに…おとと」

「お姉さんが、お迎えとは、ちと、はしたないんとちゃう?」

「なにをおっしゃいますやら~、マリカはオヤジで通ってますやん。」

「あれまあ、弱ったお姉さんやなあ。」

 麗子は、そっと部屋を出て、廊下を進みました。手すりのお陰で、車いすでなくても大丈夫です。

「どうどす?春菜さん、気分はようなりはった?」

「へえ、すんまへんなぁ、よしこはん。へんやなあ、風邪ひいたわけでもないのに。」

「春菜はん、ひょっとして、おめでたちがいますか?」


「ひぅぇ?え、え、え?」

「あれまぁ、麗子さん、そこに居てはったん?」

「あ、あの…」

 麗子は、そうとううろたえて、立ち尽くしていたようです。

 自分の足が弱いことも忘れていました。

「へえまあ、按配のわるいことどす。しばらくは、伏せておいてくれはる?」

 よしこは、心配顔で麗子に言いました。

「はあ、はい。」

「松本屋の春菜が、てておやのわからん子を作ったとは、世間に言えまへんやろ。」

「ちょお、待ちよし、よしこはん。祇園甲部でなら、春菜の子のてておやがだれか、みんな知ってはるえ。そやし、よけいな斟酌は無用に願いまひょ。」

「そやし、春菜はん。」

「へぇ、気分も戻ってきましたよって、お座敷にもどりまひょ。後のことは、当の本人と相談しますよってな。」


「へえ、お姉さんがそう言わはんにゃったら、しょうがおへんけど。」

「ええんどす。さあ!ころっころに肥えてみよかなあ。」

「そんな、お姉さん。二〇キロも増えたら、戻すのに三年かかりますえ。」

「あはは、そうどすなあ。」

 麗子は、あっけにとられていました。

 あいた口が塞がらないとはこのことです。


 なにゆえ、ここまで明るいのでしょうか?

 麗子は、そのまま、のろのろとトイレに向かうと、ばたんとドアを閉めました。

「ななな、あの二人は、何を言ってらっしゃるの?に、妊娠よ、出産よ!てておや…父親がわからない子供?うそうそ、いくら華街の女性とはいえ、しっかりした置屋のお姉さんだもの、そんな簡単に………もしかして…うそ!まさか…」

 麗子は自分の考えに、青ざめていました。

 そんな予想が当たらないに越したことはないと、自分で自分に言い聞かせるように、なんどもうなずいてみました。

 お兄さまが、お姉さまにかくれて浮気…

 麗子は、歯の根が合わなくなるほど動揺していました。

 こんなこと、だれにも相談できない。

 麗お姉さまにも、お話するわけには行きません。

 額に脂汗がにじんでくるのがわかりました。

「麗子ちゃん、だんない?」


「ふ、双葉ちゃん…」

 遅い麗子をさがして、双葉がのぞいてくれたのでした。

「どないしやはったん?立てへんの?」

「あ、はい、少し…」

「そう、ほなウチが手伝いさせてもうてもええかな?」

「ええ、お願い。なんだか起き上がれなくて。」

「そう、はい。」

 双葉は、ゆっくりと麗子を持ち上げて、立たせると個室を出ました。

「なんやなあ、いきなり力が抜けるのは困ったもんやなあ。」


「そうね、もう少し体力が必要ね。」

「そやなあ、麗子ちゃん軽いもん。なに食べてはるの?ってくらい、軽かったわー。」

「そう?これでも太ったのよ。」

「へぇ、そうどすか?太ったのはおムネだけとちゃいますのん?」

「いやな双葉ちゃん。」

「あはは。」

 麗子の足は、同年代の女の子の足に比べると、はるかに細くてたよりがないんです。

 でも、双葉のおムネは、麗子より細くて薄いんです。

 座敷では、あいも変わらずにぎやかにお三味線が鳴り響いています。

 金毘羅ふねふねの歌に乗って、なにやら不思議なことが行われていました。

「あ~、もうくたびれた~。マリカちゃん、うますぎ~。」

「そらもう、旦那はん、これが商売どっさかい。」


「あはは、そらそうやー。ほならやー、そろそろお開きにしよかー。」

「お花がついた時間は、もう少しおすのやけど。」

「雛よしちゃん、そろそろお子たちは、部屋に帰る時間やよ。」

 見れば、馨は船を漕いでいました。

「馨、かおる。」

「ははい、麗子お姉さま。」

 麗子にゆすられて、馨は目を覚ましました。

「こんなところで寝てしまったら、風邪を引くわ。さ、お部屋にもどりましょう。」

「はい…」

 それを頃合と、麗子たちは席を立ちました。

「双葉ちゃんと若葉ちゃんはどうするの?」

「へえ、ウチらは帰ります。そんな遠いところでもないので。」

 お姉さまは、すでにタクシーを呼んであるそうです。


「そう?今日はありがとう。」

「いいええ、ウチこそ呼んでもらえてうれしおした。また、お会いしまひょ。」

「そう願うわ。あなたは、一番近しい従姉妹よ。」

「ふふふ」

 双葉は、ゆっくりと腰を折って、そこを離れると、若葉ちゃんを伴ってタクシーに乗り込みました。

「お姉さま、お手を。」

 見送った麗子を気遣って、遥が声をかけました。

「ありがとう、遥。」

 遥に手を引かれて、部屋に戻るとお布団が敷かれていて、部屋も暖められていました。

「お姉さまお一人で大丈夫ですか?」

「ええまあ、大丈夫よ。あなたたちこそ、三人で狭くない?」


「ぜんぜん平気です。私たちは三人でひとセットですから。」

「ばかねえ、それじゃ寿美にでも来てもらおうかしら?」

「わかりました、それではお布団を宿の人に頼んできます。」

「よろしくね。」

 遥は、今来た廊下を戻っていきました。

 麗子は、広縁のラタンの椅子に腰掛けて、灯篭の灯りに浮かぶ中庭を眺めました。

 祇園の夜は始まったばかりのように、夜の明かりの中を歩き回る酔客たち。

 燈籠が浮かび上がる、鴨川のせせらぎが聞こえるようです。

 でも、麗子の頭の中にはずっと、先ほどのことが引っかかっていました。

「麗子、だいじょうぶ?」

「え?ええ、だいじょうぶよ、ちょっと足から力が抜けただけだもの。」

「それが、大丈夫じゃないのよ。どれ、すこしマッサージしたげる。」


 寿美は、有無を言わさず麗子の足に手をかけました。

「ちょ、ちょっと寿美。」

「いいのよ、だまってさせなさい。」

 寿美のマッサージは、ツボにはまって痛いんです。

 麗子は、うめき声をあげながらじっと我慢をしていました。

「ちょっと~、あたしがいじめているみたいじゃないの、そのうめき声はやめてよ。」

「だって、痛いんですもの。」

「いたい?気持ちいいでしょ、あたしはツボははずさないわよ。」

「だから、痛いんじゃない。」

「じゃあ、きっと疲れが溜まっているのよ。どんどん追い出しましょ~。」

 寿美は、麗子に馬乗りになって、ぐいぐいと背中を押さえました。


「いたたたたた、いたいいたい、そこイタイ~!」

「うりうりうり、ここか?ここがええのんか~?」

「うぎゃ~、そこだめ~!」

「お姉さま!どうしました?」

 襖を開けて、ゆうが顔を出しました。

「ゆ、ゆう、助けて~、寿美がいじめる~。」

「ちょっと、冗談じゃないわよ、マッサージくらいで悲鳴あげない!」

「あ、あの~、もう少しお静かに…」

「うるさい、あんたたちも手伝いなさい。ほら、そっちの足、押さえて。」

「は、はい。ここですか?」

 ゆうは右足を、遥は左足を押さえました。」


「そうそう、じゃあ、いくわよ。」

「いたたたたた、いたいいたいいたあ~い。」

「ゆう、遥、足裏。土踏まずのところ、ぎゅっと押さえて。」

「「こうですか?」」

「たははははは、いたいよ~~~~~。」

「まあ、それでもこれだけイタイんだから、神経がつながっているってことよ。よかったわね。」

「そんないいもんじゃないわよ~、あたたたたたたたほあたぁあああああ!」

「なによ、そのケン●ロウ。」

「あ、足の裏アシノウラ~、いたいいたい。」

「ふうん、そんなに疲れていたんだ。今日はけっこう歩き回ったものね。」

「そ・そうね~、腕も疲れて…あたたたたた  たわばー!」

「ひでぶー。」


「す・寿美ったら、ギャグじゃないわよー。」

「はいはい、これでおわり。もういいわよ。」

 言われて一年生は、麗子の手足を離しました。

 麗子は涙目で、息も荒く汗まで浮かべていました。

「あらまー、ひどい汗よ。お風呂入ってくる?」

「そ、そうね、軽く入ろうかしら。」

「じゃあ、ゆう…いいわ、私がつくから、一年生はもうお休みなさい。明日も、お手伝いしてもらうからね。」

「はい、お休みなさい、お姉さま。」

「ええ、おやすみなさい。」

 ゆうと遥は、部屋を出ました。

「あんた、またなにか抱え込んでるでしょ。お風呂で、きっちり聞かせてもらおうかしら。」

 寿美はすまして麗子に言いました。


 麗子は、どうしたものかと思案しながら、車椅子に揺られて考えていました。

 女湯には先客が居て、麗お姉さまとよしこさんでした。

 脱衣所に着くと、中から声が聞こえてきました。

「あらまあ、おめでた?そらありがたいなあ。みどりちゃんなら、安心して任せられるわなあ。」

「そやし、そのまま認知しまんの?」

「しますえー。みどりちゃんが、遠慮したらかわいそうやん。あんたもできたら、言わなあかんえー。遠慮はなしなし。」

「そらそうどすけど。」

「おや?だれか来はった?」

「は、はい、麗子です。」

「あら、麗子ちゃん。疲れたはった?」

「はい、寿美にマッサージしてもらったんですけど、効きすぎて、汗をかいてしまいました。」

「そう?おはいりよし。」

「はい。」

 ガラス戸をからからと引いて、お風呂場に入ります。

麗子さんは、忙しいです。

読んでくださって、ありがとうございます。

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