5 大切な人
三度波武邸にやって来た俺は、母親に呼ばれて成実が出てくると、一言「邪魔する」とだけ言って家に上がり、ずんずんと成実の部屋に向かった。
「えっ、ちょっと育?!」
遅れて成実も部屋に入って来る。彼が扉を閉めるや否や、俺は成実に言った。
「今日は、この部屋から一歩も出るな」
「え? 何で?」
不思議そうに首を傾げる成実の肩を掴み、俺は語気を強めて言った。
「とにかく! 今日はこの部屋から絶対に出るんじゃない!」
「う……うん、分かった」
唖然とした様子で目を瞬かせながら、成実はそう言った。
俺は成実の肩から手を離すと、短く溜息を吐いた。
成実がこの部屋から出ないからといって、安心はできない。もしかしたら、窓や壁を突き破って槍が飛んでくるかもしれない。そんな莫迦げた発想さえ出てきてしまうほど、俺は疲弊していた。
この世界が、成実をどうしても死なせたいというのなら……。
成実が今日どうしても死んでしまうのだとしたら……。
俺は、そっと成実の首に手をかけた。
いっそ、自分の手で成実を――。
「……育?」
手に力を入れる前に、成実に名前を呼ばれ、俺は我に返った。
俺は成実の首から手を離すと、よろよろと後ずさり、ベッドにどさりと座り込んだ。
「大丈夫?! 育!」
成実が慌てて俺に駆け寄った。俺の前で膝をつき、俺の顔をのぞき込む。
俺は俯いて、単刀直入に彼に打ち明けた。
「成実……、お前は、今日……死ぬ」
「えっ……?」
成実は一瞬驚いて沈黙した後、何か言おうと口を開いた。しかし、それを遮るように俺は半ば叫ぶように言った。
「何度もっ……何度も助けようとしたんだ! でも……駄目だった……」
突然視界が滲んだ。それが涙のせいだと、一瞬気付かなかった。涙は途端に目からあふれ出し、俺のズボンに円い染みをつくった。
成実は、そっと俺の頭を撫でた。
「……僕が死んだら、兄さんたちに今までありがとうって、伝えておいて。この家にいたころは、すごく僕のこと、可愛がってくれてたから。兄さんたちは、僕の自慢で、とっても大好きだったよって。……それから、お父さんとお母さんにも。僕をここまで育ててくれて、ありがとうって、伝えて。それから……」
成実は一旦言葉を切ると、立ち上がり、俺の横に腰かけた。
「育も、今までありがとう」
そう言って、ずっと俺を慰めるように撫でる彼の手のぬくもりが、優しくて、そして哀しくて、俺の胸は締め付けられるように一層苦しくなる。
「俺は……成実のことが好きだ。だから、絶対に失いたくない」
「僕だって、育ともう会えないのは嫌だよ。……でも、育の方が僕よりずっと辛いよね。人が死んで辛いのは、死ぬ側じゃない。死なれる側だから。僕が死んで、育が辛い思いをしてしまうのは、僕も辛い。
……でも、育なら大丈夫だよ。その辛さも、育ならきっと乗り越えられる」
そう言って成実は、優しく微笑み、俺をそっと抱き寄せた。
彼の体温は、愛しくもあり、恐ろしくもあった。
あの、冷たい頬に触れた記憶がよみがえり、このぬくもりが失われるのが、怖かった。
「無理だ……。俺には、無理なんだ……」
俺は成実の死を受け入れることすらできなかった。だからこそ、今こうして彼の生に縋っているのだ。
「育……」
俺の背中を優しくさすっていた手が、不意に止まった。
「育、僕は今日、どうやって死ぬの?」
「分からない。いろんな要因で……事故で、殺人で……分からないから、止められないんだ……」
喉からそう絞り出すと、成実は動揺するでもなく、ただ一言「そう……」と言っただけだった。
しばらくの沈黙の後、成実は俺から身体を離し、立ち上がると、俺から離れるように入口の方へ歩いた。
「ごめんね育。僕のせいで、君を苦しめてしまっている」
「……っ! 成実のせいじゃない!」
成実は、悲しい笑みを浮かべて俺を見た。
「僕は……君の恋人失格だね」
「そんなことっ……」
俺が立ち上がろうとしたその時、成実が何もないところから剣を取り出し、自分に切っ先を向けた。
「こんな僕でも、好きになってくれて、ありがとう」
「やめっ……!」
止めようと腰を浮かせた瞬間、成実は手にした剣で自分の喉を掻き切った。
鮮血が舞い上がり、部屋中に散らばる。生温かい液体が、俺の顔や手にも降りかかった。
「成実……?」
成実は苦しそうに顔をゆがめながら、膝から崩れ落ちた。倒れた彼の身体の下に、血溜まりがゆっくりと広がった。
「嘘だろ……成実……」
俺は急いで成実に駆け寄り、膝をついて彼を抱き上げた。すでに彼の息はなく、顔面は不気味なほど蒼白だった。
「そんな……成実……」
俺が成実を追い詰めた。だから成実は自ら死を選んでしまった。
そんなのあんまりだ。俺は、自分自身が許せなかった。
「成実いいぃぃぃ!!」
俺は成実を床にそっと横たえると、自分も剣を取り出し、自らの喉を掻き切った。
瞬間、意識がブラックアウトした。
――7.自ら頸動脈を切り、死亡。
*****
俺は、要弥邸の自室で目を覚ました。見慣れた天井が目の前にある。
俺は、自分で喉を掻き切って死んだはずだ。手にはまだその感触が残っていた。しかし、俺は生きている。首を触ってみても、縫合したような痕跡はない。
まさか、夢だったのか? 今までのことは、全部。
俺は机に置いてあるスマホを手に取った。日付は、成実が死ぬ日の午前九時だ。
俺は、自分がずっと長い夢を見ていたことに気付き、安堵した。思わず、長い溜息をもらす。
すると、突然部屋の扉がノックされた。
「お嬢様、リビングにいらしてください。奥様が呼んでいらっしゃいます」
メイドの兎北さんだ。彼女は俺の付き人であるため、こうして呼びに来るのは珍しくないが、彼女の声にわずかに焦りが滲んでいたのが気になった。
俺は部屋を出る。兎北さんの顔が曇っていた。
「何かあったのか?」
俺が訊くと、兎北さんは階段に続く廊下を手で示して、俺を階下へ行くよう促した。
「とにかく、リビングへ」
俺は早足でリビングに向かった。
要弥さんは、リビングに置かれたテレビの前のソファに座っていた。朝のニュースを見ているようだ。
「奥様、お嬢様を……」
連れてまいりました、という言葉を遮って、要弥さんは俺の方を向くと、顔面蒼白にして言った。
「育! 成実君が……」
俺は再びテレビに目を向ける。
テロップには、早朝に火事があったと書かれていた。
そこは、成実の家だった。
火はすでに消し止められているようだが、しばらくするとアナウンサーの声が入り、画面が切り替わった。
――この火事で、少なくともこの家の三男の波武成実さんが亡くなったとのことです。
それを聞いて、俺は踵を返して自室へ向かった。後ろから要弥さんや兎北さんが俺を呼び止めていたが、気にしなかった。
まるで、悪夢のようだと思った。
何度覚めたと思っても、まだ続いてる、そんな悪夢のようだ。
自室に戻り、俺はベッドに身を投げ出した。
もしこれが悪夢なら……
「悪夢なら……夢なら覚めてくれ。覚めてくれ――!」
すると、突然俺の身体が光を発した。それを見て、鎌が“願った”時のことを思い出す。
ずっと鈍っていた頭の“芯”が、はっきりしていくのを感じた――。
そして俺は、意識を取り戻した。




