乃蒼の章 「エクレア」
小学校に上がる時にはすっかりコミュニケーション不全を起こしていた。全ての人にというわけではない。例えば母とよく行く甘い香りのするお菓子屋さん。母の国の言葉を店の名前とするそのお菓子屋さんでは私はお客さんである。店員さんも、私がよっぽど失礼なことをしない限り嫌う事はないだろう。何者でもない私は、とにかく嫌われるのが怖かった。なので小学校に入学してまず困ったのは同級生との距離の取り方だった。無邪気な子どもは見知らぬ級友にも話しかけてくる。上手くなったとはいえ、私の日本語はフランス訛りが抜けきれていないかも?またガイジンとからかわれるかもしれない。何より日本人の血が薄い私が日本人を名乗っている事に怒るかもしれない。とにかく私は嫌われるのが怖くて怖くて何も言えなかった。「変な子」と言われ遠ざかって行く後ろ姿を見て、私はとても寂しかった。
だけど私はとても賢い子だ。何とかしなければ、と思い必死で嫌われないための方法を考えた。けれどどんなに考えても全く思いつかなかった。途方に暮れていた時、母の書斎で見つけた一冊の本が私にヒントをくれた。その本は「好かれる!ビジネス敬語術」というタイトルだった。「ビジネス」という部分に私は多少引っかかったけれど、それ以上に「好かれる」という言葉に心を躍らせた。一晩で読み終え翌日早速実践してみた。
「あノ…スミマセん…私も縄跳ビ、一緒ニヤっても…いイデスか?」
今考えると小3でコレは確かに無いと私も思う。けど必死だった。1人ぼっちは寂しくて寂しくて、苦しかった。だから本当はこんなの変だ、とわかっていても、藁にもすがる思いで私は必死に体育館で遊んでいる同じクラスの女の子グループに声をかけた。
世の中は広いと聞く。たとえこの変な方法でも私の気持ちを汲み取り、仲良くしてくれる優しい世界はどこかにあるだろう。けれど不幸にも私はそうならなかった。
「私たちのことバカにしてるの?」
と、リーダー格のユミちゃんという女の子が私の肩をバンと押すと、ヨロヨロとよろけ派手に転んでしまった。
「おい、お前今突き飛ばしただろう?」
運悪く体育館を覗きに来た先生が、私を突き飛ばす瞬間を目撃してしまいユミちゃんは職員室に連れていかれた。そして放課後、教室で担任に強く怒られ、ユミちゃんは私に
「ごめんなさい」
と謝った。その時の顔が苦痛に歪んでいたのを私は見てしまった。帰りの下駄箱でこちらを睨みつけ、唇の端を上げながら
「あんた、絶対許さないから」
と言うとユミちゃんは走り去っていった。
翌日から…かどうかはわからないけど無視が始まった。元々、私は話しかける方でも話しかけられる方でもなかったので具体的にいつからというのは不明だけど、とにかくクラスで私の存在はないものになった。それに気付いたのは遠足の時だ。グループを作る時に1人残った私を先生が無理矢理ひとつのグループに押し付けた。遠足でお弁当を食べている時、お母さんから「グループのみんなにあげてね」と小さな手作りのエクレアを持たせてくれたので
「アの…私ノお母さンノ…手作リ…なノデスけド…もシヨカったら、食ベテ下さイ…」
と我ながら上手に喋れたのだけれど、残念なことにみんなには私の声が聞こえなかったようだった。声が小さかったのかな?と思い、もう一度、大きな声で言ってみた。今度はさっきよりも上手に喋れた。けれどやっぱり私の声は聞こえないみたいだった。仕方なく私は自分が食べていた場所に戻ってお母さんが作ってくれたエクレアを食べた。いくら小さいとはいえお弁当を食べ終えた後に6つのエクレアは多かった。頑張って水筒のお茶で無理やり胃の中に流し込んだだけど、どうしてもた食べきることができなくて2個残ってしまった。このまま持ち帰ったらお母さんはとても悲しんでしまう、と思い私は…、2つのエクレアをゴミ箱に…捨てた。
瞬間、とめどなく涙が溢れた。あわててトイレに駆け込み鍵をかけ、そして声を出さないように泣いた。泣いても泣いても涙が出てきた。お母さんごめんなさい、お母さんごめんなさい。涙が流れるあいだ、ずっとお母さんに謝り続けた。それで許してもらえるなんて思ってない。私はこのたったひとつの愚行で地獄に堕ちても構わない。けれどお母さん、ごめんなさい。私みたいな娘でごめんなさい。ちゃんと友達作れずにごめんなさい。エクレア食べきれなくでごめんなさい。2つ捨てちゃってごめんなさい。お母さん、ごめんなさい。おかあさん、もう私、嫌だよぉ。こんな私、もう嫌だよぉ…。たすけて、お母さん。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…
人差し指を噛んで声を上げないように泣いていたのに、どうしても「うぅっ」と嗚咽が漏れた。人差し指からはどこの国かわからない血が流れていた。
次の日から私は学校で笑うことができなくなった。