結局、前途多難
案内された講師室は想像よりずっと広々とした部屋だった。
真ん中には机が四つ、二組ずつ向かい合わせに並んでおり、手前の二つは既にパソコンやら資料やらで埋まっている。俺の使う机は入り口から右手奥。本村さんのお隣ということになる。一番窓辺に近い場所だ。両脇には各自のロッカーと、本棚が用意されている。さすがは名門私立女子大の講師室。俺の卒業した大学の教授の部屋より綺麗だった。
「文学部の講師は共同でこの部屋を使うことになっています」
「お……わたしの正面はどなたが?」
「今年の文学部の講師は三人と聞いています。私と、光瀬先生と、英文の講師がお一人」
ということは空き机か。真正面に人がいないというのは気楽でいいかもしれない。本村さんは優しく説明を続けてくれる。
「パソコンは大学から支給されるので、あとで日文の研究室に行ってみるといいですよ。ロッカーの鍵は各人が管理することになっています。給湯室はお隣。お昼ごはんは学食もいいですが生徒で混み合うので、近くのカフェや職員用の仕出し弁当も人気です」
「なるほど」
ポケットから取り出したメモ帳に教えてもらったことを書いていると、ふふ、と本村さんが微笑む。
「光瀬先生、すごく真面目なんですね」
「え? そ、そうですか?」
「ちゃんとメモを取って下さるので嬉しいです。生徒より一生懸命かも」
なんでもかんでもメモを取る、というのは院生を五年間やっていて身に付いた習性だ。学会に赴く教授のお世話も大事な仕事になってくるので、自然と秘書のような役割も任される。それがこんなところで役立つとは思いもしなかった。
「光瀬先生はおいくつですか?」
「二十七です、今年、博士課程を卒業しまして」
「じゃあ、私の二つ上ですね。私は修士課程を卒業して昨年講師になったので」
「あ、そうなんですか」
修士卒での講師は珍しい。博士は研究者になりたい人間がほとんどだが、修士なら一般企業に就職する人数の方が多いからだ。本人の資質は勿論……言い方は悪いかもしれないが、講師として採用されるための強力なコネクションもあったということだろう。
「嬉しいです。同年代の人、いなかったから」
真面目な銀縁眼鏡の奥で、本村さんは本当に嬉しそうに笑う。
この格好で同年代の女性と初めて対面したが、バレる様子もない。俺は密かに胸を撫で下ろす。同じ部屋で過ごすことになる同僚が優しい人でよかった。
……ただ気になるのは、本村さんが兵頭に見せていた別人のような冷たさと、その、なんというか、今現在俺との間合いがひどく近いことだ。
兵頭に関してはきっとあいつがしつこくちょっかいを出して嫌われたんだろうと想像出来るが、この距離は俺の想像力で答えは出ない。だって、軽く手を動かしただけでとぶつかってしまうくらいの位置に立っているのだ。いきなり胸を触られたりすることはないだろうが、髭の剃り残しがあったらどうしようとか男臭かったらどうしようとか、どうしても警戒してしまう。
女性というのは、こんなにも近くで会話する生き物なんだろうか。
「……光瀬先生、なにか変なことをされませんでしたか?」
「え?」
「……あの職員、半年前から学務部に来たんですけど、すごくしつこいんです」
「あの職員……」
ああ、兵頭のことかと手を打つ。
「はじめて挨拶に行ったときからすごく馴れ馴れしくて、いきなり食事に誘われて。はっきり断ったのに、未だに声をかけてくるんです。……だから、男なんて大嫌い」
「……」
その言葉は独り言のようなものだったんだろうと思う。けれど、本当は男である俺にもぐさりと刺さる一言だった。
おそらく彼女は男全般が嫌いなのだ。中でも軽さの代名詞みたいな男の兵頭なら、より一層拒否反応が出るのも頷ける。
うんうん、と一人で納得していたら、急に手首に重みを感じた。視線を落とすと、いつのまにか彼女が俺のカーディガンの袖をきゅっと摘んでいる。
「……先生みたいに綺麗な方とお仕事できるなんて、夢みたい」
え? この行為、なに?
状況を把握出来ないまま、彼女の手が滑り落ちてやがて当然のように手を握られた。
やばい。さすがに手は自信がない。男にしては小さい方だとは思うがどうしても女性よりごつい掌はばあちゃんからも長めのカーディガンで隠せと言われているのだ。バレない程度にゆっくりと手を外そうともがいてみるが、葵さんの指ががっちりと絡んだまま動かない。
「女性同士が一番お互いを高めあっていける。……女子大に、男なんかいらないんです」
冷や汗が吹き出る。本村さんが何か言っているが、全然頭に入ってこない。確かばあちゃんも女性のエンパワーメントがなんとかかんとか似たようなことを言っていたような気もするが、そんなご高説を賜っている場合じゃない。
いくら鈍感な俺でも分かる。小柄な身長から見上げるその視線が、ちょっとピンク色な事実に。
もしかして。もしかして。
「……これからいっぱい仲良くしてくださいね、光瀬先生」
――本村さんは、『そっちの人』なのだろうか。
いや確かに女装してるけど俺男だし男嫌いって言ってる女性に手を握られて仲良くしてくださいって言われてもうどうしたらいいのこれ!
まずい。とにかくやばい。
これ以上の接触は自らの身を危険に晒しかねない。
意を決して俺は手を振り払い、わざとらしく大きな声を上げた。
「……い、いっけない! わたし、おばあちゃんと約束があったんだった!」
きょとんとした表情の葵さんに気が付かないフリをして、俺は慌しく鞄から資料やら教科書代わりの教材やらを机に積み上げる。
「ごめんなさい、私行かなくちゃ! 明日からよろしくお願いしますね!」
「はい、こちらこそ」
優しい表情と丁寧なお辞儀に罪悪感が疼く。それじゃあ、とぎりぎり保った笑顔で別れを告げた。
女装して、女子大に就職して、高校時代の悪友が職員で、同じ部屋で過ごす同僚が百合。
……前途多難にもほどがあるだろ!
カツカツカツと廊下に耳障りな音が響く。
うるさいと思っていたら、それは自分が履いていたヒールの音だった。