一難去ってまた一難
「いやー、びっくりした。新しい講師は女性って聞いてたのに、まさか光瀬だったとはなぁ。なにおまえ、変わり者だとは思ってたけど、ついにそっちの道に行っちゃったの?」
「違う!」
とりあえず奥の応接室のような場所に案内された俺は、言われるだろうと思っていたことを全力で否定した。
「いやだって、おまえ」
そう言った兵頭の視線が、上から下までを綺麗に往復する。
……分かってるよウィッグ被ってこんな格好して説得力ないのも分かってるよ。でも違うんだよ。好きでこんな格好してるんじゃないんだよ。
「……これには、事情があって」
「どんな事情?」
目をランランと輝かせる横っ面をひっぱたいてやりたい衝動に駆られながら、兵頭が入れてくれたコーヒーを啜る。びっくりするくらいまずい。もうそのまずさに観念して、今までの事情を説明することにした。
「ふーん、なーるほどなぁ」
まだ始まってもいなかった講師ライフの終わりを覚悟していたが、奴が存外真面目に聞いてくれたので結局最後までありのままを話しきってしまった。
自分で言っててものすごいストーリーだったのにそれをなるほどと言い切ってしまえるとは。すごいなこいつ。しかも、「いやー、お前化粧映えするのなー」とか妙なところに感動している。
「……一応聞くが、黙っててくれるのか」
「え? 誰にバラすの俺」
きょとんとする兵頭に、俺がきょとんとする。
「……偉い人とか」
「だって偉い人に女装しろって言われてるんだろ?」
一応、そうだ。この格好は、この大学の学長であるばあちゃんからの指示である。
「じゃあバラさないっしょ、俺だって雇われモンだもん」
あはは、と兵頭は楽しげな笑顔を浮かべる。
……そういえば、初めて出会った時もこいつはこんな風に笑っていたっけ。
高校に入学したばかりの休み時間、一人で本を読んでいた俺のところに兵頭がやってきて「ねえ光瀬君、趣味なに?」といきなり聞いてきた。間髪入れず「平安文学」と答えると、こいつは「すげぇ、なんかかっけー!」と笑ったのだ。別に親友になったとか遊びに行くようになったとかではない。ただなんとなく付かず離れずの位置にいて、たまに兵頭がふらりと俺のとこにくる、そんな仲だった。
「……じゃあ、黙っててくれ。頼む」
ぺこりと頭を下げる。
まーかせんしゃい、と胸を叩いた兵頭はその威力が強すぎたのか一人噎せ込んで、記憶と変わらない阿呆な姿になんだか安心してしまった。
「いやぁ、それにしても久しぶりじゃん」
「高校卒業以来だから、九年ぶりか」
「ていうかさー、おまえ全然連絡くんないんだもん、薄情だよなー」
「……連絡するような仲だったか?」
「えええ、ひどくない!」
そんな応酬があって、俺たちはしばらく思い出話に花を咲かせる。
バレバレのカツラを被っていた担任の話や当時兵頭が狙っていた隣の女子校のマドンナの話。年齢と性別相応の馬鹿な会話は二ヶ月前に上京してから初めてのことで、身構えた分すっかり拍子抜けしてしまった俺もすっかり男言葉に戻ってしまった。
「すみません」
ふと、カウンターから呼びかける声がした。
「はーい!」と慌ただしく駆け出していった兵頭の背中を見送って、ようやく我に返った。
……今の会話、聞かれなかっただろうか。知人と会ったからといって油断していたが、ここは既に戦場だ。いつ背中から銃撃されるか分からないというのに、少々気を抜き過ぎてしまったかもしれない。
ドアの隙間からそっと様子を伺う。兵頭の背中越しに人の姿が見えた。
それは、若い女性だった。学生ではなさそうだが、清潔そうな白いシャツに黒いカーディガンを身に付けている。きっちりと頭の後ろで縛った黒髪に、きらりと光った銀縁メガネはいかにも真面目な印象だ。
顔見知りなのか、彼女を見て兵頭は相好を崩したようだ。
「あれー? 葵ちゃん、今日出勤なんだ?」
「その呼び方はやめてくださいとお願いしたはずですが」
それは、ばっさりと音が聞こえるほどの切り捨てられ方だった。とてつもない温度差に俺が固まってしまう。
「だって可愛いじゃん、『本村さん』より『葵ちゃん』の方が」
「必要ありません。早く書類を受理していただけますか」
「えー、冷たいなぁ、もう少しお話……」
「しません」
聞いているこっちがハラハラするほどその声にはトゲがあった。あからさまにあいつ嫌われてるじゃないか。冷たくされればされるほどやる気を出すタイプなのか、兵頭のテンションと彼女のテンションは見事に反比例だ。
「葵ちゃんさ、今日暇? 良かったら食事とか」
「すみません、早くしていただけませんか。あなたと違って暇じゃないので」
「……」
追いすがる男と突っぱねる女と、無関係な俺。……すごく居た堪れない。
とりあえず今出ると余計な火の粉を被りそうなのでこのまま隠れていた方が良さそうだ。
しかし、立ち上がった俺に悲劇が襲った。
ヒールがうまく地面に乗らずに、豪快にコケてしまったのだ。うわぁと情けない悲鳴を上げながら、半開きだったドアに体当たりをして外へ転がり出てしまう。
「光瀬! ……センセイ! 大丈夫ですか?」
わざとらしい敬語で兵頭が駆け寄り、差し出された手に掴まる。
……すごい空気の時に出てしまった。女性と目が合ってしまったので、とりあえず笑って会釈をしておく。
「こ、こんにちは」
「……こんにちは」
「す、すみません、あの、お恥ずかしいところを……」
恥ずかしさで顔が赤くなる。彼女が冷静だから尚更だ。
女性は俺をじっと見つめていた。しかしそれは兵頭に向けていた冷たいものとは違い、ごく普通の、見慣れない人に対するきょとんとした視線だ。
「はじめまして、お、いやわたし、光瀬真琴です。あの、今年から日本文学科で講師をさせて頂くことに……」
「ああ、伊藤学長の」
明るい声だった。さっきまでの冷たさが嘘のように、その表情はとても優しい。
「はじめまして、本村葵です。昨年から史学科で講師を務めています」
「あ、よ、よろしくお願いします」
「ねぇねぇ葵ちゃん、俺さ、これから光瀬センセイを文学部の講師室に連れてく予定だったんだけど、もし良かったら葵ちゃんも一緒に」
「結構です。案内なら私がしますので、あなたはお仕事をなさってください」
彼女のブリザードは兵頭に対する時だけ発動されるらしい。えー冷たいー、と文句を言う兵頭をオール無視で、葵さんは俺に笑いかける。
「講師室は六階にあります。私で良ければご一緒させてください」
「あ、はい」
未だに文句の声を上げ続ける兵頭に目礼だけして、俺は慌てて彼女の背中を追った。