夜が更けて
「いいか、小夜。迎えに来るまでここを離れるんでねえぞ。」
そういったのは果たして父であったか、母であったか。それとも、年の離れた兄であったか。
邑の裏にそびえたつ緑深い山に連れてこられて、もう何度陽が昇ったことだろう。
空腹に支配された小夜の思考では、もはや日を数えることすらできない。
この木の根元から動くなと言われた。だから一歩も動いていない。
けれども、日に日に腹が減り、今は酷い空腹感に吐き気さえ催すようになってきた。
昨日だか一-昨日だか、もうよくは覚えていないけれど、どうしても何かを口にしたくて目の前に生えていた草を食べた。
しかし草1本で満たされるはずもなく、口に広がる苦みに唾液が奪われ、余計に喉が渇き、ただただひもじさが増すばかりだった。
それに、空腹を満たし生き永らえたところで、それが何の意味も持たぬことも分かっていた。
「いいか、さよ。迎えに来るまでここを離れるんでねえぞ。」
もうぼんやりとしか思い出せぬその言葉は偽りで、彼らが迎えになど来るはずもないのだ。
自分は、口減らしに捨てられたのだから。
他の兄弟が、父が、母が、生きていくために。
小夜はあの家族から減らされたのだから。
日が暮れ始め、風に冷たさが混じってきた。
昼間はお天道様の恩恵を受けて暖かかった地面も、もうすぐ氷のような冷たさへ変わる。
暗闇への恐怖と、ひとりぼっちへの心細さと、明日への不安と、腹のうちに抱えておけぬほどの空腹と。
飢えで痩せた細い体で、小夜はそのすべてを受け止めるしかなかった。
*
元々土地の痩せた、貧しい邑ではあった。
けれど邑人はみな顔見知りであったし、畑の作物や米、山の果などを分け合いながら慎ましやかに暮らしていた。
小夜の家族は年のいった父母と6人の兄弟(兄2人は生まれてすぐ仏になったそうだ)という、邑ではたいして珍しくもない普通の家族だった。
日照りが続けば食糧に困ることもあったけれど、それでも皆で仲良く助け合いながら暮らしていた。
どんな時も、それで暮らしていけていたのだ。
しかし、稲作が始まり、各地に邑ができ始めてからというもの、その実りを求め小さな小競り合いが後を絶たず、ついには「戦」と呼ばれる程にその規模を広げた。
一度巻き込まれれば、豊かな土地は一瞬で炎と血に染まり、その後は実りの悪い年が続くというそれは、穏やかな小夜の邑にも、例外なく確実に近づいていて。
夏が過ぎ、実りの秋になろうかというその日、とうとう、山向こうの隣邑が戦に巻き込まれた。
山ひとつ分離れており、まだ大丈夫かと思われた小夜の邑にも、すぐに怪我を負った戦人や、戦の混乱に乗じた野党どもが立ち寄るようになり、そのうち昼夜問わずやってきては、干した薬草や水、食料を奪っていくようになった。
そして間の悪いことに、日照りが続いて川が干上がり、作物は枯れ、邑ではその日の食べ物に事欠くようになった。
そうして必然的に食料が減り、邑人は痩せ、一人、また一人と、邑人は減っていった。
―――口減らしが始まった。
小夜がそう気付いたのは、親しかった隣の家のトキが消えてからだった。
久しぶりに会ったトキの家族は、みな一様に口をつぐみ、何かをこらえるような顔をした。
背が低く、体も細く、畑仕事のできぬトキは、きっと家族のために減らされたのだ。
ある程度の飢えであれば、口減らしをすることもなく近隣の家族と助け合って乗り越えるのだが、今回はいかんせん間が悪かった。
そうして普段ならば咎められよう口減らしは、毒がじわりじわりと全身に広がるように、邑人の間で「しようのないこと」として誰からともなく広まっていった。
そして、それは小夜にも他人ごとではなかった。
なぜなら小夜もまた、家族の中で一番体が弱く、兄たちのように畑仕事のできぬ、お荷物であったのだから。
だから、生まれて初めて見る上等なべべを着せられ、小夜ひとりが山に連れて行かれた時、ああ、私の番が来た、とどこか他人ごとのように思った。
びゅうびゅうと風が吹き付けるたび、小夜の細い体は右に左に揺れる。
今頃、兄弟たちはどうしているだろうか。
小夜がいなくなったことを少しでも気にかけてくれているだろうか。
そうだったら、うれしいな。
自分が減らされたことに不満はない。
家族を恨む気持ちもない。
これで少しでも皆に食べ物が行き渡ればいい。
ただ、少しだけ思うことは。
あの家族の中で一人だけ除け者にされたようで、少し寂しかった。
グルルルルル…
ぼんやりとまとまらない頭であれこれと考えていると、すぐ近くから地を這うような音が聞こえた。
何事かと確認しようにも衰弱した体は動かず、仕方なく目だけをやると、目の前にこれもまたひどく痩せた狼があった。
月の光をまとった灰色の身体に、たわわに実り首を垂れる稲穂色の瞳が、じっと小夜を見ている。
…きっと自分はコレに食われる。
鈍った頭で、そう直感した。
そして、この狼は自分の血肉でその命を長らえるだろう。
けれど不思議と恐怖はなかった。
だって。
最後の最後で、私は誰かの役に立てるのだから…――――
「…生きるんだよ、おまえ」
水気のない、かさつく喉から懸命に音を紡ぐ。
私のことは食べてもいい、だからどうか、どうか。生きて。
それは家族への想いか、それとも目の前の狼への祈りか。
「ゥオーーン…」
小夜の言葉にこたえるかのような狼の遠吠えを聴きながら、小夜は安心したようにゆっくりと瞼を閉じた。
*
「だめだ、どこにもいねえ」
「せめて骸だけでもと思ったんだがねえ」
山を登ってきた年老いた夫婦が、木の裏側やあたりの茂みを探しながら唸るように呟いた。
「もしや山犬に食われちまったんじゃあるめぇな」
男のその言葉に、女は口を覆った。
「まさか…それじゃああの子がうかばれねえ。」
「さぞかし俺らを恨んだだろうよ。」
二人の脳裏には、体の弱かった末の娘が浮かんでいた。
「それとも…野党どもに連れて行かれたか…」
「山犬に食われるよりかはましさ。どっかで生きてくれてるかもしれねぇんだから。」
「んだな。」
ありえないことだとは分かっていながらも、そうであったらいいと祈るように二人は空を仰いだ。
少し前までは、炎で赤く染まり、灰の舞う空ばかりだったが、今男の目に映るのは、青く雲一つない空だ。
「どっかで生きててくれよ」
「すまねぇなぁ」
尽きることのない娘への言葉をつぶやきながら、やがて二人は諦めて山を下りて行った。
*
「ゥオーーン…」
山に、狼の声が響く。
彼は、一本の木の根元に向けていた稲穂色の瞳を細めると、灰色に輝く大きなその身を翻して茂みの中へと消えていった。