躾け
今日で終わりになる。
「もう五年か」
この社宅で暮らし初めてからの年月だ。
「あっという間だな」
転勤を契機にしてアパートに引っ越すことになった。妻と子供は新居を探すために、一足先に転勤先のホテルで仮住まいだ。いいところを見つけたと意気込んでいた。
「社宅はこりごりだからね!」
上司の奥さんのご機嫌取りが我慢ならないと言っていた。それがアパートで暮らすことを決めた理由だ。
「悪い人じゃないと思うよ、きっと」
何度か挨拶をしたことはあるが、おかしな感じはしなかった。
「あなたは人が良いから、そういうけどね。毎日顔を合わせていればわかるわ。車の自慢とか、他人の悪口とか、嫌みも言ったりするのよ。草むしりはしないし、ゴミの日も守らないし!」
いらいらする妻を新居探しに送り出したのは、怒りの矛先をなくしてやる理由もあった。
「さてと」
身軽になった俺は帰宅後に家の掃除をしている。荷物は詰め終わった。押し入れが空になったかわりに、畳の上はダンボール箱で溢れている。明日の引っ越しに間に合ってよかった。
柱の汚れを雑巾で拭いていて、俺は頬を緩めた。
四本の傷。
息子が産まれたのは五年前。立てるようになってから誕生日に一本ずつ増えてきた。ひとつひとつが成長の証だ。
その儀式も先月の誕生日で終わった。
俺は掃除の手を止め、空の冷蔵庫から缶ビールを出した。開け放っていた窓から夜風が舞い込み、汗を冷やした。
缶ビール片手に腰を上げ、窓辺に立った。カーテンは昨日しまったから常夜灯の光がダンボールに影を映していた。
窓を閉めて荷物の内側に戻る。梱包した荷物がカーテンがわりの壁になり、外から中は見えない。我ながらいいアイディアだと思う。
役目を終えた冷蔵庫の電源を切り、あとは搬送を待つばかりだ。コンビニで買ってきた弁当を温めて夕食にする。
「そうだ」
俺は荷物をずらし、照明を消した。どこで誰が外から見ているかわからないが、こうしておけば安心だ。中年の男を観察しようとする奇特な人間がいるとは思えなかったが。
息子の身長を刻んだ柱に背中をあずけ、弁当をつまみにビールを飲む。窓の外から月明かりが差し込んできた。
いつか、背中の柱が本当に息子の背中になり、こうして酒を飲む日がやってくるだろうか。そんなことを考えたらにんまりとしてしまった。
「親父となんか飲みたくねえ、気持ち悪い」
なんて言われたら、心がぐずぐずに傷つくかもしれない。もちろん、悪い言葉を口にする子にはならないと思うが。
ビールを一口飲む。
妻の気性を受け継いだらわからなかった。聞き分けはいい子だが、最近、妻の口振りに似てきた気がする。
「教育は任せっぱなしだったからな。俺も教育に参加して、しっかり躾けないと」
明日から始めることにする。
「あそこの旦那さん、昨日の夜、真っ暗な部屋でにやにやしていたのよ。やあねえ、気持ち悪いったらありゃしない」
引っ越し屋さんを見送り、社宅との別れで感傷にひっていたら大きな声が聞こえた。上司の奥さんの声だ。
今になって妻の気持ちがわかった。これはたまったもんじゃない。大人になっても躾けがされていない人間がいるのだ。なんとも恐ろしいことだ。
でも、どこで見ていたんだ?




