7年付き合った彼氏には4歳の息子がいた。しかも、その母親は私の親友だった
1.二十万円の向こうにあった明細
悠真と正式に婚約してから、私たちは結婚式と、その先の生活のためにお金を貯め始めた。
悠真は福岡のIT企業でシステムエンジニアとして働いている。知り合った頃はまだ普通の開発担当者だったが、この数年で少しずつプロジェクトリーダーを任されるようになり、以前よりずっと忙しくなっていた。結婚資金を貯めるため、悠真は自分名義の預金口座を一つ用意していた。給料日になると、毎月決まって二十万円をそこへ入れる。通帳は家に置いてあり、結婚式や新居、新婚旅行に必要な予算を管理するのは私の役目だった。
悠真はずっと、それが税金や社会保険料、家賃、最低限の生活費を引いたあとに残る、ほぼすべてのお金だと言っていた。
以前、莉奈からこんなことを言われたことがある。
「美月、本当に変だと思わない? 悠真、何年も前から役職は上がってるのに、毎月貯められる額がほとんど変わってないじゃない」
私は式場から届いた資料を整理しながら俯いた。まったく疑わなかったわけではない。ただ、その小さな違和感をわざわざ大きくしたくなかった。
「IT企業だって、役職が上がったからって給料が急に倍になるわけじゃないし。悠真の会社、ここ数年は昇給幅もそんなに大きくないって言ってたから。それに今は案件も多くて、帰りも遅いし」
「私は、毎月ちゃんと貯めてくれてるだけで十分だと思ってるよ」
莉奈はしばらく私を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
東京へ帰るたび、母から結婚式はいつになるのかと聞かれた。父が亡くなってから、母は一人で暮らしている。自分の結婚のために、今さら母にお金を出してもらうつもりはなかった。だから式が一度延びれば、そのぶんもう少し貯めればいいと思った。新居をすぐに買えないなら、今の賃貸にもう少し住めばいい。新婚旅行だってあとで行けるし、家具も急いで買い替える必要はない。
同じ未来を見ているなら、少しくらい時間がかかっても構わない。私はずっと、そう思っていた。
あの夜、悠真が脱いだスーツを片づけていたときだった。内ポケットから、何度か折り畳まれた銀行の取引明細が落ちた。何気なく拾い、元に戻そうとして開いた私は、その場から動けなくなった。
結婚資金を貯めている口座ではなかった。過去六年間、この口座から出ていった金額は二千万円を大きく超えていた。その多くが、同じ人物に関係する支出だった――白石莉奈。
家賃、日々の生活費、産婦人科の費用、保育園の給食費や延長保育料、用品代、旅行や宿泊費、美容関係の支払い、それに莉奈の両親の人間ドック代。さらに「陽翔」という名前の子どもにかかった、出生から四歳までのさまざまな費用まで並んでいた。明細は、見ても見ても終わらなかった。
私は一番古い日付を、もう一度確認した。
六年前。
そのとき、スマートフォンが震えた。悠真からのLINEだった。
「今月分の二十万も入れといたよ」
すぐに、もう一件届いた。
「また節約ばっかりするなよ。欲しいものくらい買って。式の金は俺がなんとかするから」
私はしばらく画面を見つめていた。
「もう入れなくていいよ」
その日の午後、悠真から何度も電話がかかってきた。私は一度も出なかった。
夕方、悠真はいつもより三十分ほど早く帰宅した。手には、コンビニで買ってきた私の好きな飲むヨーグルトを持っていた。靴を脱ぎ、それをテーブルに置くと、私の隣に腰を下ろした。
「結婚式の準備で疲れてる?」
私は答えなかった。
「もう少しだけ待って。次の査定がうまくいけば、給料だってまた上がる。そしたらもっと広いところに引っ越して、旅行だってあとからいくらでも行けるから」
同じような言葉を、私はもう何度も聞いていた。
テーブルの中央に、銀行の明細を置いた。
「悠真、疲れない?」
彼が眉をひそめた。
「何が?」
「七年だよ」
私は悠真を見た。
「毎日こんなふうに私を騙して、疲れないの?」
悠真の視線が、ようやく明細に落ちた。顔から少しずつ血の気が引いていく。リビングでは扇風機が回り続けていた。私は立ち上がり、電源を切った。急に部屋が静かになった。
「この口座、何?」
悠真は、なかなか明細に触れようとしなかった。
「莉奈、昔ちょっと大変なことがあったんだ。美月の昔からの友達だし、お前が莉奈のことを大事にしてるのも知ってたから……俺も、できる範囲で助けようと思っただけで」
「陽翔は?」
悠真の目が私から逸れた。
「その『できる範囲で助けた』結果が、陽翔なの?」
悠真が何か言おうとした瞬間、スマートフォンが鳴った。画面には莉奈の名前が表示されていた。一度目は出なかった。二度目の着信で、ようやく通話ボタンを押した。
最初に聞こえてきたのは、幼い子どもの声だった。
「パパ」
すぐに莉奈の声が続いた。
「悠真、こっち来るときエビ買ってきてくれる? 陽翔が今日、悠真の作るエビフライ食べたいって。それと生理用品もお願い。エビは少し多めでいいよ。余ったら明日、美月にも持って帰ってあげたら? この前会ったとき、また節約してるのか少し痩せた気がしたから」
少し間が空いた。
「あと、今週はちょっとおとなしくしてて。体調よくないから」
悠真の手に力が入った。
「莉奈」
電話の向こうが静まり返った。
「今、家にいる」
悠真が私を見た。
「美月も隣にいる」
通話はすぐに切れた。
私は、七年間一緒にいた男を見つめた。
「いつから?」
「美月、まず――」
「いつからかだけ答えて」
悠真は何も言わなかった。
私は彼のスマートフォンを取った。止められるより早かった。LINEの履歴を遡っていく。一年、二年、三年。そして、六年前まで遡った。
二人が初めて一線を越えたのは、福岡へ来たばかりで就職活動がうまくいかなかった莉奈の履歴書や面接対策を、私が悠真に頼んだときだった。
二度目に会った日は、祖母が突然脳出血で倒れた日だった。私は一人で病院を走り回っていた。悠真は仕事で大きな案件を抱えていると思っていたから、邪魔をしたくなくて、何度も電話をすることさえできなかった。
その後、私は初めて妊娠した。出血が続き、医師からなるべく安静にするよう言われていた。それでも昼間は会社へ行き、夜はデータ整理や翻訳の仕事を請けていた。また結婚式が、お金の問題で延期になったからだ。
その子は、結局生まれてくることができなかった。
そして同じ頃、LINEの履歴の中では、悠真が莉奈の産婦人科の診察に付き添っていた。
時間が、突然とても長いものに思えた。私はずっと、この人と一生を過ごすのだと思っていた。それなのに今日になってようやくわかった。私はずっと、最初から存在しなかった未来のために、お金を貯め続けていたのだ。
2.彼はもう結婚していた
悠真は長いあいだソファに座ったままだった。窓の外は、いつの間にかすっかり暗くなっていた。
「俺が悪かった。それは認める」
私は何も言わなかった。悠真が顔を上げた。
「式の金は全部俺が出す。新居だって探し直せばいい。前に欲しがってた家具も買えばいい。この何年か我慢させたって思うなら、その分もちゃんと埋め合わせする」
怒ればいいのか、呆れればいいのかわからなかった。
「まだ、お金のことで怒ってると思ってるの?」
悠真の表情も硬くなった。
「金がなかった頃は、いつまで経っても結婚できないって言ってただろ。今なら全部どうにかできる。それでも駄目なら、俺にどうしろっていうんだよ」
私はスマートフォンを彼の前に置いた。
「私とは七年付き合って、そのうち六年、莉奈とも関係を続けてた。陽翔は四歳。しかも先月、二人で婚姻届まで出してる」
悠真の顔色が変わった。
「そこまで知ったのか?」
私はその言葉を無視した。
「もう結婚してるんだよね。それなのに、私とはまだ結婚式の準備を続けてた。私を何にするつもりだったの?」
悠真は突然、テーブルに置いてあったヨーグルトの瓶を払い落とした。瓶が割れ、飛び散ったガラス片が私のふくらはぎをかすめた。血が滲んだのを見た瞬間、悠真の表情が変わり、すぐに救急箱を取りに行った。
「動くな」
私は脚を引いた。悠真はしゃがんだまま、それ以上近づかなかった。
「陽翔は予定してたわけじゃない。莉奈だって、美月が俺にとってどれだけ大事かわかってた。お前との生活を壊すつもりなんてなかったんだよ」
私は悠真を見た。
「でも、莉奈と結婚した」
悠真は黙った。
またスマートフォンが鳴った。今度はすぐに出た。電話の向こうから陽翔の泣き声が聞こえてくると、悠真の張りつめていた表情がすぐに緩んだ。
「陽翔、どうした?」
莉奈の声が聞こえる。
「さっきからずっとパパに会いたいって泣いてる。何しても寝てくれないの」
悠真は立ち上がり、私を一度だけ見た。
「美月、傷だけちゃんと手当てして。俺、ちょっと行ってくる」
私は止めなかった。
悠真は慌ただしく外へ出ていった。窓から下を見ると、自転車置き場を通り抜ける途中、服が一台の自転車のハンドルに引っかかった。苛立っていた悠真は、その自転車を蹴った。倒れた車体の前かごが歪んだ。
私の電動アシスト自転車だった。
付き合って一年目に、悠真が買ってくれたものだ。福岡へ来たばかりの頃、私は毎日かなりの距離を歩いて駅へ行き、そこから電車に乗って会社へ通っていた。悠真もまだ働き始めたばかりで、給料は高くなかった。それでも何か月もお金を貯めて、一番シンプルなモデルを買ってくれた。嬉しくて、近所を何周も走ったことを覚えている。
その自転車が、今は地面に倒れていた。
私はリビングへ戻った。そのとき、パソコンの画面が明るくなった。悠真は慌てて出ていったせいで、PC版のLINEからログアウトしていなかった。最新のやり取りが表示されている。
莉奈からだった。
「これからどうするの?」
数分前に悠真が返していた。
「まず美月を落ち着かせる」
「でも、まだ美月と結婚式するつもりなの? 私たち、先月もう婚姻届出したよね」
「美月とは婚姻届を出さない。式はまた理由つけて延期すればいい」
しばらくして、莉奈から新しいメッセージが届いた。
「美月、あんなに結婚するの楽しみにしてるのに」
悠真の返事は早かった。
「だから簡単には離れない。俺のために東京から福岡まで来て、仕事まで変えたんだ。何年も結婚だけを目標にしてきた。今は怒ってるだけだ。少し時間を置けば落ち着く」
私は続きを読んだ。
「美月と張り合いたいわけじゃないよ。高校を出てから福岡に来たのだって、美月が助けてくれたからだし、仕事だってずっと手伝ってくれた。ただ、陽翔にずっとこんな家族関係の中で育ってほしくないの。保育園の書類とか緊急連絡先を書くたびに、悠真のことをいちいち説明しなきゃいけないのも嫌」
悠真が返していた。
「ずっとこのままにはしない。もう俺たちは結婚してる。家族なんだから。陽翔の戸籍のことも、必要な手続きをちゃんとする」
莉奈が笑顔のスタンプを送った。
「美月は?」
「俺がどうにかする」
私はパソコンの前に座り、入力欄に一文だけ打ち込んだ。
「二人とも、本当に気持ち悪い」
送信して間もなく、PC版のLINEが強制的にログアウトされた。悠真から電話がかかってきた。切ると、今度は莉奈からかかってきた。それも取らなかった。
その夜、私は荷物をまとめ始めた。
私たちが住んでいたのは、駅まで徒歩十数分ほどの1LDKだった。築年数もそこそこ経っていて、キッチンも狭い。それでも、何年も二人で暮らしてきた部屋だった。引っ越してきたばかりの頃は、段ボールが数箱とスーツケースが二つしかなかった。あの日も雨だった。
私は冗談で言った。
「物、あんまり増やさないでおこうかな。いつか喧嘩して出ていくことになったら、大荷物だと大変だし」
悠真は笑って、私の頭を軽く小突いた。
ずっと昔の、あの雨の日。悠真は一つしかなかった大きな傘を私に渡し、自分は段ボールを抱えてずぶ濡れになりながら歩いた。部屋に着いた頃には、悠真は頭から足まで濡れていた。私はほとんど雨に濡れていなかった。
スーツケースのファスナーを閉めた。玄関のドアを閉めるとき、私は一度も振り返らなかった。
3.親友
博多駅近くのビジネスホテルに部屋を取った。
シャワーを浴び、濡れた服から着替えたばかりのところで、ドアを叩く音がした。悠真と莉奈が立っていた。私はドアを押さえ、中には入れなかった。
「帰って」
莉奈が隙間に手を入れ、指を挟んだ。小さく息を呑んだ莉奈の手を、悠真がすぐにつかんで確認した。赤くなっているだけだとわかると、ようやく私を見る。
「美月、もういいだろ。莉奈だってわざわざ来てるんだから」
莉奈が悠真の腕に軽く触れた。
「そんな言い方しないで」
そして私を見る。
「美月。私が悠真と結婚したのは、陽翔にちゃんと家族を作ってあげたかったから。七年間ずっと一緒にいた美月の代わりになれるなんて、思ってないよ」
私は何も言わなかった。
「悠真のお金のことも話す。六年前、福岡に来たばかりの頃、知り合いに頼まれて借金の連帯保証人になったの。相手がいなくなって、返済だけが私に残った。美月には言えなかった」
莉奈はドアの前に立ったまま、声を落とした。
「悠真はあの頃、本業とは別に会社へ副業の届出を出して、業務委託でWebシステムの保守や小規模な開発案件を請けてた。そのお金のほとんどを、私の借金に使ってくれたの」
六年前の悠真を思い出した。
まだ一人の開発担当者だった頃。少しずつチームの仕事を任されるようになり、一番忙しい時期には夜十時に帰宅してからもパソコンを開いて仕事をしていた。私はずっと、二人の結婚のために頑張っているのだと思っていた。だから生活費を多めに負担し、自分にできる副業も引き受けた。
あの頃は大変だった。それでも幸せだと思っていた。実際には、私たちは最初から同じ方向へ進んでいなかった。
私はもう一度ドアを閉めようとした。
「話は終わった?」
莉奈が私の手首をつかんだ。
「今日は一人でいないで」
私はその手を見る。
「離して」
「美月、本当に心配なの」
何の話をしているのか、わかっていた。
七年前。当時付き合っていた人と父を、私は短い期間に続けて亡くした。精神的に追い詰められ、自分を傷つけたこともある。最後に私を見つけたのは、悠真と莉奈だった。二人は、私が一番苦しかった時期をそばで支えてくれた。莉奈はあの頃、私を抱きしめ、何があっても私にはまだ自分たちがいると言ってくれた。
私は莉奈の手を振りほどいた。
「その話を使って私を縛らないで。今のあなたに、その資格はないから」
廊下の向こうで、ホテルのスタッフがこちらの騒ぎに気づいていた。莉奈がその人に声をかけ、私には過去に自傷行為があり、今夜一人にするのが心配だと説明した。
すぐに責任者が来た。
スタッフは悠真と莉奈を部屋に入れることはせず、私と個別に話をした。現在、自分を傷つけたい気持ちがあるか。必要なら救急や警察へ連絡することもできる。私は、今はその意思がないとはっきり答えた。責任者はそれを確認すると、宿泊者ではない二人に客室階から退出するよう求めた。
ドアが閉まった。ホテルの部屋が急に静かになった。
もうここに泊まり続ける気分ではなかった。しばらくして、私は自分の意思でチェックアウトした。莉奈はロビーで待っていた。私を見ると立ち上がる。
「見せたいものがあるの。この六年間のお金のことも、家のことも、私と悠真の婚姻届のことも、全部わかる資料が家にある。それを見たら、美月ももう私が嘘をついてるとは思わないでしょ」
正直、これ以上何かを見る必要があるのかとも思った。それでも、まだ知らないことがあるのなら、全部見て終わらせたかった。私はしばらく迷ったあと、二人の車に乗った。
そして到着して初めて、莉奈がどうして私をそこへ連れてきたかったのかを知った。
4.彼らの本当の家
車が停まったのは、福岡市中央区の静かな住宅街だった。
大濠公園からも遠くない、低層の高級分譲マンションだった。一階の住戸には広いテラスと専用庭がついている。以前、悠真と不動産会社の前を通ったとき、こんな家の広告が貼られていると、二人で足を止めたことがある。
玄関を開けたのは、悠真のお母さんだった。そばには四歳くらいの男の子が立っている。目元が驚くほど悠真に似ていた。私を見たとき、お母さんの表情はほとんど変わらなかった。けれど莉奈が靴を脱いで上がると、当たり前のようにバッグを受け取った。
「莉奈ちゃん、冷蔵庫にプリン入れてあるわよ。陽翔もずっと待ってたんだから」
その自然な親しさを、私は一度も向けてもらったことがなかった。これまでずっと、自分がどれだけ頑張っても、悠真のお母さんが望む「お嫁さん」にはなれないのだと思っていた。違った。彼女には、ずっと前から家族として認めている人がいたのだ。
部屋は居心地よく整えられていた。
オープンキッチンには、私が値段を見て何度も諦めた食洗機が置かれている。棚には家族で出かけた写真が何枚も飾られていた。リビングの目立つ場所には、写真館で撮ったらしい家族写真まである。悠真、莉奈、陽翔、そして悠真のお母さん。全員が自然に笑っていた。
悠真も私の視線に気づいたが、何も説明しなかった。
私を子ども部屋へ連れていく。
「ここで話せばいい。疲れたなら、少し休んでてもいいから」
部屋は広くなかったが、きれいに整えられていた。家具の角にはすべてクッション材がつけられ、壁には蓄光の星が貼られ、絵本も年齢に合わせてきれいに並べられている。細かなところを見れば、悠真が手をかけたことがすぐにわかった。
昔から、こういう作業だけは驚くほど丁寧な人だった。
悠真がシャワーを浴びに行ったあと、莉奈が書類の入ったファイルを持って入ってきた。ドアを閉め、資料をテーブルの上に並べる。
「この家、どう?」
私は答えなかった。
莉奈が登記事項証明書を取り出した。
「買ったとき、六千九百八十万円だった。悠真の出したお金のほうが多いから、持分も悠真のほうが大きい。でも、私の持分もあるの」
莉奈の指が書類の一箇所を指した。
「最初から、ここには私の名前も入ってる」
次に、振込記録を取り出した。
「三年前のこと、覚えてる? 悠真のお母さんが急に具合悪くなって、お金が必要だって言われたでしょ」
もちろん覚えていた。
あの頃、私たちはようやく結婚式と新生活のための資金をある程度貯めていた。そこへ悠真から、母親のために急にお金が必要になったと言われた。私は自分で別に貯めていた三百万円を渡した。返してほしいとも言わなかった。
莉奈が書類をこちらへ押した。
「その三百万円、この家を買うときの資金の一部になったの。美月が自分の結婚式のために節約して貯めたお金、最後は私たちの家に入ったんだよ」
私は書類を見つめた。言葉が出なかった。
莉奈はさらに一枚の証明書を取り出した。
婚姻届受理証明書。
一か月前の日付だった。
「私と悠真、もう正式に結婚してる」
莉奈が証明書をテーブルに置く。
「法律上、悠真の妻は私。それでも悠真と男女の関係を続けたら、周りから見れば、美月のほうが既婚者と関係を持ってることになるよ」
私は証明書をテーブルへ戻した。
莉奈は今度はスマートフォンを開いた。何年も前の産婦人科の明細と、振込履歴だった。
「美月が最初に妊娠したとき、お医者さんからなるべく休むように言われてたよね」
私は顔を上げた。
「あのとき悠真、お母さんの具合が悪くてお金が必要だって言ったでしょ。本当に入院してたのは私」
莉奈が画面をこちらへ向けた。
「検査代も、個室代も、出産前に必要だったものも、かなり悠真に出してもらった」
あの頃、私は妊娠初期から出血が続いていた。医師には仕事を減らし、できるだけ安静にするよう言われていた。でも貯金が急に減った。結婚式もまた延期になった。だから私は昼間は働き、夜も副業を続けた。結局、流産した。医師は原因を一つに決めることはできないと言った。初期の流産には、さまざまな理由があるとも説明された。
だから私は、誰かのせいだと考えたことはなかった。
莉奈がスマートフォンを引いた。
「美月が一番つらかった時期、悠真はずっと私の健診についてきてくれてたよ」
私は一歩、莉奈へ近づいた。
その瞬間、ドアが開いた。陽翔が飛び込んできた。私の脚に抱きつくようにして、前日にガラスで切った場所へ噛みついた。傷はまだ完全に治っていなかった。激痛に身体が反応し、私は咄嗟に脚を振った。
陽翔が尻もちをついた。
泣き声が上がるのと、悠真が部屋へ飛び込んでくるのはほとんど同時だった。悠真が私の腕をつかんだ。次の瞬間、頬に強い衝撃が走った。
平手打ちだった。私はよろめいた。
「美月、ここは俺の家だぞ」
陽翔が床に座ったまま泣いていた。
「悪い人! ママをいじめないで!」
悠真のお母さんも駆け込んできて、陽翔を抱き上げた。
「人の家に来て、子どもに何してるの!」
いつの間にか、莉奈の腕には赤い跡がいくつかついていた。悠真がそれを見て、表情を険しくした。
「これ、どうした?」
莉奈が首を振った。
「もういいよ」
「美月も、あんなもの見せられて頭にきただけだから」
二度目の平手打ちが飛んできた。
私はテーブルの角に身体をぶつけ、手をついてどうにか立った。悠真は莉奈の前に立ったまま、一歩も退かなかった。
「文句があるなら俺に言え。莉奈には触るな」
私は悠真を見つめた。
「ここ、本当にあなたたちの家なんだ」
悠真は目を逸らさなかった。
「ああ。俺と莉奈の家だ。莉奈は俺の妻だから」
部屋が静かになった。
しばらくして、悠真が口を開いた。もう隠すつもりはないようだった。
「美月。俺たち、一緒にいる時間が長すぎたんだと思う。ここ何年かで、お前への気持ちは変わってた。それでも俺から別れようって言わなかったのは、美月が俺のために東京から福岡まで来て、何年もここで暮らしてくれたからだ。今さら俺から捨てるのは、あまりにもひどいと思った」
私は黙って聞いていた。
「でも、妻として一緒に暮らしたいと思ったのは莉奈なんだ。必要なら別に住むところも用意する。金だって、できる限り出す。これから先、美月が困ることがあったら、できる範囲では助けるつもりだ」
七年間付き合った男の顔を、私は見つめた。
「じゃあ、私は愛人として囲うつもり?」
悠真は答えなかった。
そのときになって、ようやく理解した。この人は本気なのだ。自分に十分なお金さえあれば、二人の女をどちらも手元に残しておける。本当に、そう思っている。
5.東京へ
陽翔はまだ祖母に抱かれていた。莉奈は悠真の後ろに立っている。
「悠真。終わりにしよう」
悠真が私を見る。すぐには意味を理解できなかったらしい。数秒後、薄く笑った。
「これからどこ行くんだよ。東京? それとも、ずっとホテルを転々とするつもり?」
これからの人生を、まだ何一つ決めてはいなかった。それでも、ここから離れるのに計画はいらなかった。
翌日、私は直属の上司に退職の意思を伝えた。就業規則に沿って必要な手続きを確認し、引き継ぎと退職日について相談した。使いきれていない有給休暇も残っていたので、一部を退職前に取得し、引っ越しや東京へ戻る準備に充てることになった。
正式な退職までは少し時間が必要だった。それでも先に、東京行きの飛行機を予約した。
もともと東京を離れたのは、悠真の福岡転勤が決まったからだった。今はただ、一度この街から離れたかった。
福岡空港で搭乗を待っているとき、偶然、莉奈の別のSNSアカウントを見つけた。私とはつながっていないアカウントで、一か月前から結婚の準備について何度も投稿していた。
指輪、式場、ドレス、新婚旅行。それに、新居や育児用品のこともたくさん書かれていた。
そのとき、一か月ほど前から悠真の態度が変わっていたことを思い出した。料理の味が気に入らない。家が静かすぎる。私が仕事に真面目すぎる。結婚式の準備でも、何でも予算を計算するのが息苦しい。以前なら気にも留めなかったようなことに、いちいち不機嫌になっていた。
やっとわかった。あの頃にはもう、莉奈との結婚を決めていた。私のほうから嫌になって離れてくれればいい。そう思っていたのだ。
そのとき、スマートフォンが鳴った。福岡市内の警察署からだった。昨夜の件について話を聞きたいと言われた。陽翔は病院で診察を受けていたが、骨折や治療を必要とする目立った外傷はなかったらしい。
莉奈と悠真は、私が故意に陽翔を蹴って倒したと説明していた。
私は警察署へ行き、起きたことを順番に話した。もともと私の脚に傷があったこと。陽翔がそこへ噛みついたこと。痛みで反射的に脚を振ってしまったこと。警察官は、それぞれ確認しながら記録していった。その途中、私の頬に残っている腫れに気づいた。
「これは昨日のものですか?」
私は少しだけ迷った。
「はい」
警察官が私を見た。
「殴られた件についても、必要であれば詳しくお話を伺えます。被害について相談することもできますよ」
私は自分の手を見つめた。
「今日は大丈夫です」
警察官はそれ以上強く勧めず、私の意思だけを確認した。
話が終わり、部屋を出た。外の廊下には悠真と莉奈がいた。私を見るなり、莉奈が立ち上がる。
「これで終わりなの?」
私は答えなかった。
悠真が莉奈の前に手を出した。
「莉奈」
それでも莉奈は私を見ていた。
「子どもが倒されたのに、謝ってもらうこともできないの?」
私は少しのあいだ、その場に立っていた。そして莉奈と陽翔に向かって頭を下げた。
「陽翔を振り払って、転ばせたことについては謝ります」
顔を上げた。
「でも、それだけです」
莉奈は何も言わなかった。
私はその場を離れようとした。悠真が追ってくる。
「美月」
私は足を止めた。
「結婚資金として、私が別に渡してた六十万円。もう返さなくていいから」
悠真が目を見開いた。
「なんで急に、そんなきっちり分けるんだよ」
「もう一緒に計算する必要がないから」
私は警察署を出た。
空港へ戻ると、また悠真から電話がかかってきた。今度は出た。
「東京でどこに住むんだ? まだ部屋に荷物が一箱残ってる。送ろうと思ってたんだけど」
「いらない」
電話の向こうが静かになる。
「全部捨てていいよ」
悠真の声が低くなった。
「美月。前に欲しがってたベールも、買ったんだ」
ちょうど搭乗案内が流れた。羽田行きの便の搭乗が始まる。電話の向こうで、悠真の息遣いが変わった。
「空港にいるのか?」
「うん」
「どこ行くんだよ」
「東京」
「いつ戻る?」
私はスーツケースの持ち手を引き上げ、搭乗口を見た。
「もう悠真には関係ないよ」
6.彼女は戻ってこない
電話が切れたあと、悠真は長いあいだその場に立っていた。
「もう悠真には関係ないよ」
その言葉が何度も頭の中で繰り返された。七年付き合った。式場も見に行った。指輪も選んだ。結婚したらどこに住むかも話した。それが突然、自分には関係がないことになった。
悠真はテーブルの上に置かれた箱を見る。中には、少し前に買った白いウェディングベールが入っていた。以前、美月がブライダルショップの前で長いこと見ていたものだ。決して安くはなかったが、美月は最後には自分から店を離れた。
あのとき美月は、また今度でいいと言っていた。
悠真は箱を閉じ、ソファの端へ置いた。
莉奈がキッチンから出てくる。
「まだ連絡つかない?」
悠真はスマートフォンをテーブルへ置いた。
「東京に戻った」
莉奈が隣に座った。
「少し頭冷やしてもらったほうがいいよ。美月のお母さんも東京にいるんだし、住むところがなくて困るわけじゃないでしょ」
少し考えてから続けた。
「まだ福岡の会社も正式には辞めてないんだよね? 手続きが終わったら、戻ってくるかもしれないよ」
悠真も最初はそう思っていた。けれど、胸の奥にある妙な不安だけは消えなかった。
夜、一人で以前の賃貸マンションへ戻った。ドアを開けると、驚くほど静かだった。美月は週末になると、よく焼き菓子を作っていた。マドレーヌ、スコーン、何度も失敗して、ようやく膨らんだシフォンケーキ。
美月は本を読むのも好きだった。忙しい時期でも、窓際で三十分本を読めれば機嫌がよくなった。悠真はわざと目の前に立ち、光を遮って邪魔をした。美月は迷惑そうな顔をして、クッションを投げてきた。
そんなやり取りは、これからも当たり前に続くと思っていた。
翌日、予約していた宅配便の集荷が来た。悠真は荷物の箱を持って玄関へ向かった。
送り状を書こうとして、手が止まった。東京のどこに美月が住んでいるのか、住所を知らなかった。
「お届け先のご住所、おわかりになりますか?」
「すみません。やっぱり今日はキャンセルでお願いします」
宅配業者が帰ったあと、悠真は箱を見つめた。中には、美月が置いていったものが入っている。マフラー、本、高価ではない小さなアクセサリー、それに、いつも使っていたマグカップ。
悠真はしゃがみ込み、箱の中のものを一つずつ元の場所へ戻していった。
翌朝、悠真は莉奈と陽翔を迎えに行った。保育園の登園時間に遅れないよう、車を走らせる。莉奈は何度も後部座席を振り返った。
「昨日のあれ、本当に大丈夫なのかな」
悠真は前を向いたまま答えた。
「病院で診てもらっただろ。怪我はないって」
莉奈が黙った。
少しして、悠真が口を開いた。
「莉奈」
「なに?」
「俺たち、あの頃ずっと避妊してたよな」
莉奈の身体が明らかに固まった。赤信号になり、悠真は車を止めた。
「陽翔って、本当にどうしてできたんだ?」
車内が静まり返った。
7.彼女が手放していた人生
莉奈が振り向いた。
「今さら、何が言いたいの?」
後部座席では陽翔が小さな車のおもちゃで遊んでいた。悠真はそれ以上聞かなかった。ただ、あの夜の美月の顔を思い出した。スマートフォンを奪い、必死に過去のメッセージを遡っていた姿。
以前の悠真は、時間さえ経てば美月は最後には受け入れると思っていた。結婚式が延期になるたび、そうだったからだ。少し宥める。新しい約束をする。そうすれば、美月はいつも残った。
半月以上が過ぎた。初めて、もしかしたら今回は違うのかもしれないと思い始めた。
LINEは半月前のやり取りで止まったままだった。美月から連絡が来たことは一度もない。電話にも出ない。既読になることはあっても、返事はなかった。東京のどこにいるのか。福岡の会社をいつ正式に辞めるのか。悠真は何一つ知らなかった。
莉奈が果物を持ってやってきた。
「最近ずっと機嫌悪くない?」
悠真は眉間を押さえた。
「仕事」
莉奈が隣へ座る。
「昔は仕事で疲れたとき、一番に私のところ来てたじゃない」
莉奈の手がゆっくりと下へ動いた。
「前はよく言ってたよね。美月って何でも真面目すぎて、一緒にいると休むことまで予定に入ってるみたいだって」
莉奈が耳元へ顔を寄せる。
「今はいないんだし。そういえば、あのベッドではまだ――」
悠真は莉奈の手を押さえた。
「やめよう」
莉奈が固まった。
悠真は立ち上がった。
「今日は一人にして」
ドアが閉まり、莉奈だけがリビングに残った。
数日後、悠真は美月が勤めていた会社の近くへ行った。以前はたまに仕事終わりに迎えに行っていたため、同じ部署の社員を何人か見たことがある。昼休み、コンビニから戻ってくる二人の社員がいた。一人は以前にも会ったことがあった。
二人は悠真に気づいていなかった。
「朝倉さん、本当に東京戻ったんだって?」
「うん」
「前に仲良かった先輩から聞いたけど、もう昔の業界の人にも連絡取り始めてるらしいよ」
「まあ、そもそもずっと一般事務やってるような人じゃなかったもんね」
一人が小さくため息をついた。
「大学、経済学だったよね?」
「国立大の経済学部出て、そのまま同じ大学院の経済学研究科で修士まで取ってるよ。前はマーケティングリサーチ会社で、調査設計とかデータ分析してたらしいし。福岡に来て、とにかく早く安定した仕事に就きたいからって一般事務に変えたんだって。前から何度も転職したほうがいいって言われてたのに、全然動かなかったよね。やっと戻る気になったんじゃない?」
二人は会社の建物へ入っていった。悠真だけが、その場に残った。
美月のSNSを開く。何も見えなかった。公開範囲から外されている。今どこに行っているのか、何をしているのか、知る方法がなかった。
七年前、出会った頃の美月を思い出した。
あの頃、美月はまだ大学院にいた。消費者行動や市場データを研究し、統計分析やレポートのために夜遅くまで作業していた。修士課程を終えると、東京のマーケティングリサーチ会社に入り、リサーチャーとして調査設計、データ分析、レポート作成を担当していた。その後、悠真の福岡転勤が決まり、美月は仕事を辞めて一緒に九州へ来た。
福岡でも最初は調査会社やコンサルティング関連の求人に応募していた。けれど、とにかく早く生活を安定させたかった。結果として、地元企業の一般事務職を選んだ。それから、美月が元の仕事へ戻りたいと真剣に話したことは一度もなかった。
その夜、悠真は東京行きの航空券を予約した。
8.今度こそ、私には関係ない
福岡の会社で最後の引き継ぎを終え、私は正式に退職した。
東京へ戻ってから、以前一緒に働いた先輩や知人に連絡を取り、いくつかの会社へ応募した。最終的に、マーケティングリサーチ会社へ転職した。仕事内容は、消費者調査、データ分析、調査結果のレポート作成。久しぶりに戻った仕事だった。
忘れていることも多く、覚え直さなければならないこともあった。
それでも毎朝会社へ向かうたびに、ようやく自分がいたはずの場所へ戻ってきたような気がした。
ある日の仕事帰り、オフィスビルを出ると、向かい側に悠真が立っていた。私を見るなり早足で近づき、背後のビルを見上げた。
「説明する気ないの?」
「何を?」
「東京で仕事始めたこと。なんで俺には何も言わなかった?」
何を言っているのかわからなかった。
「私たち、もう別れたよね」
悠真の顔が強張った。
「だからあの日、金も荷物もあんなにはっきり分けたのか? 俺は福岡でずっと待ってたのに、お前はもう東京で仕事まで見つけてたんだな」
私は悠真の横を通り過ぎようとした。
腕をつかまれた。悠真は一瞬、何かもっとよそよそしい呼び方をしようとしたようだった。それでも結局、七年間使い続けた名前を口にした。
「美月」
「離して」
「俺たち、本当に結婚しないのか?」
私は腕を振りほどいた。
「あなたと莉奈の婚姻届が受理された日に、その話は終わってる」
振り返らずに帰った。
その夜、莉奈から電話がかかってきた。
「悠真、東京にいる?」
私は答えなかった。
「急に何日か休み取って、電話も出ないの。美月が呼んだの?」
「莉奈」
「なに?」
「あなたたち二人のことに、もう私を巻き込まないで」
電話の向こうが一瞬静かになった。
「だって、いなくなったんだよ」
私は窓のそばに立った。
「いなくなったなら、本人を探して。私に聞くことじゃない」
莉奈の声が冷たくなる。
「自分は何も関係ないみたいな顔しないでよ」
思わず笑った。
「六年間、私に隠してたのは二人でしょ。今さら私が何か隠したみたいに言うの?」
電話を切った。
週末。同じ部署の何人かで郊外へ食事に行く約束をしていた。着替えてマンションを出ると、悠真が道の向こうに立っていた。
私を見た瞬間、少し驚いた顔をした。
福岡へ移ってから、私はほとんど服を買わなくなっていた。スキンケア用品も、使い切ってからしばらく買い替えないことがあった。少しでも節約すれば、そのぶんだけ結婚が早くなる。そう思っていた。今ならわかる。あの何年間、私が削っていたのはお金だけではなかった。自分の生活そのものだった。
悠真がこちらへ歩いてくる。
「美月」
その背後から声がした。
「悠真!」
莉奈だった。走ってきて、悠真の腕を強くつかむ。
「福岡に帰ろう」
悠真が眉をひそめた。
「なんで来たんだよ」
「何日も帰ってこないからでしょ。陽翔だって毎日パパはどこって聞いてる」
後ろから声をかけられた。
「朝倉さん」
高瀬直人だった。
同じプロジェクトチームのメンバーだ。今日は数人で待ち合わせていて、たまたま近くを通るから一緒に行こうという話になっていた。私は高瀬のほうへ歩いた。
「高瀬さん、行きましょう」
背後から悠真の声がした。
「誰だよ、そいつ」
私は止まらなかった。
「美月。まだ話がある」
莉奈が追いかけてきた。私の前に回り込む。わざと周囲に聞こえるような大きな声だった。出かけようとしていた近所の住人や、近くにいた同僚たちがこちらを見た。
「美月。私、ずっと美月のこと一番大事な友達だと思ってた。でも私と悠真はもう結婚してるし、陽翔だって四歳なの。それなのに、なんで悠真を東京に引き留めるの?」
周囲が静かになった。
私はスマートフォンを出した。まだ操作する前に、悠真が莉奈の腕をつかんだ。
「もうやめろ」
莉奈が信じられないように悠真を見る。
「悠真?」
「こんなところで騒ぐな」
莉奈の顔色が変わった。
「今度は美月の味方するの?」
悠真は答えなかった。
そのとき、私と比較的仲のいい同僚が悠真を見つめた。以前、私のSNSで写真を見たことがあったらしい。
「ちょっと待って。この人、朝倉さんが前に長く付き合ってた彼氏じゃない?」
別の同僚も思い出したようだった。
「私も写真見たことあるかも」
「別れたのって、つい最近だよね?」
周囲の視線が、ゆっくり莉奈へ移った。
一人が戸惑ったように口にする。
「お子さん……四歳なんですか?」
その先は誰も言わなかった。言わなくても十分だった。
莉奈の顔から血の気が引いていく。悠真も黙った。高瀬さんが私を見る。
「朝倉さん、もう行きましょう」
「はい」
私は同僚たちとその場を離れた。
あとで聞いた話では、あの日、莉奈と悠真はかなり激しく言い争ったらしい。悠真はいったん莉奈を福岡へ帰した。それでも自分は、また東京へ戻ってきた。
その夜、悠真からLINEが届いた。
「今日一緒にいた高瀬って人、彼氏?」
私は短く返した。
「違うよ」
数分後、また届いた。
「少しだけ下に来てくれない?」
窓から外を見ると、マンションのエントランス近くに悠真が立っていた。手には大きな花束を持っている。スマートフォンがもう一度光った。
「美月。これは、ずっと渡せなかった分のプロポーズだから。少しだけ待ってる」
私はカーテンを閉めた。シャワーを浴び、翌日の仕事の資料を整理して、そのまま寝た。
翌朝、悠真の姿はもうなかった。
その後もしばらく、悠真からメッセージは届いた。朝ごはんは食べたのか。仕事は忙しくないか。ときどき、会社の近くで待っていることもあった。私は一度、はっきり伝えた。もう通勤中についてこないでほしい。家の近くで待つのもやめてほしい。また続くなら、警察に相談すると。
それからは、かなり減った。
さらにしばらく経った頃、会社を出たところで、また悠真に会った。今度は近づきすぎることもなく、少し離れた場所で立っていた。私は自分から足を止めた。
「まだ何かある?」
悠真が私を見る。
「莉奈とは離婚した。離婚届も、もう受理された」
陽翔のことは口にしなかった。私も聞かなかった。
「莉奈がこれからどうするかとか、陽翔のことをどうするかは、俺と莉奈の間でちゃんと決める」
悠真が少し間を置いた。
「もう、そのことで美月を縛るつもりはない。美月。もう一回、やり直せない?」
私は数秒、悠真を見た。
「無理」
悠真の顔が固まった。
後ろから足音が聞こえた。
「美月」
私は振り返った。
直人が歩いてくる。
数か月前まで、私たちは「朝倉さん」「高瀬さん」と呼び合っていた。今は違う。
私は自然に直人の手を取った。
「紹介するね」
悠真を見る。
「直人。私の彼氏」
悠真の顔から、ゆっくり血の気が失われていった。口を開いた。それでも、最後まで何も言わなかった。
私は直人と一緒に歩き出した。かなり遠くまで歩いても、後ろから足音が追ってくることはなかった。
その後、悠真に会うことは二度となかった。私はもう、誰かのために自分の人生の方向を変えることもなかった。ただようやく、自分が本来歩くはずだった道へ戻っただけだった。
——完——




