サマータイム【掌編】
以下のルールを元に書いた掌編です。
◆企画ルール:
・お題「ジャジーな夜の通り雨」
・2000文字以内で完結する物語
「その曲、『罪と罰』ですか」
「なんて?」
ギターの音が鳴り止む。代わりに、風が窓を揺らす音や、雨粒がサンシェードを打つ音が存在感を増した。アコースティックギターを抱えた店主が、怪訝な顔で私を凝視していた。
「さっき弾いてたの、椎名林檎の『罪と罰』ですか」
「ああ、違うよ。これは『Summertime』」
店主が同じフレーズを弾く。
やっぱり似てる。まったく一緒じゃないけど、上がったり下がったりする音の感じが。
「今の季節にピッタリですね」
「タイトルはね。ジャズは普段聴かない?」
ジャズ。その言葉を聞いて私は、この店のドアに「Jazz & Bar」と書いてあったことを思い出した。
「あんまり」
あんまりどころか皆無である。たまたま耳に入ることはあっても、自ら聞こうと思ったことは一度もなかった。見栄を張ったことが恥ずかしくて、視線を自分の手元に落とした。
この店に立ち寄ったのは偶然だった。
大学の同期と久しぶりに会った私はハメを外し、うっかり終電を逃した。幸い家から近いところで飲んでいたため、歩いて帰ることにした。同期には「カラオケに行って始発まで時間を潰そう」と言われたが、「明日も休日出勤だから」と断った。「社畜」と笑われた。「そうだよ」と笑い返した。
徒歩一時間。タクシーに乗らなかったのは、昼間の茹だるような暑さのせいで陥った運動不足を解消したかったからだ。最高気温が体温を超える今の季節、歩いても苦にならない時間は貴重だった。
そう思っていたのに。
突然激しい雨に襲われた。傘を持っていなかった私は、どこか避難する場所を探した。周囲を見回して目についたのが、夜中だというのに明るい光が漏れていたこの店だった。この時はまだ「Jazz & Bar」の文字が見えていなくて、カフェによくあるサンシェードが付いていたことから、最近流行りの夜カフェかな、なんて思ったりした。
近づいてからドアに「Closed」の札がぶら下がっていることに気づき、肩を落とした。店の中に入る資格はないらしい。でも、外なら――。
無断で敷地内に立ち入ることに若干の罪悪感を覚えながらも、私はサンシェードの下に身を寄せた。ハンカチで顔や腕を拭ってから、スマホを手に取り、天気アプリを開いた。雨雲レーダーを確認すると、三十分ほどで降り止む通り雨らしかった。
それまで雨宿りさせてもらおう。
まだ酔いが残っているせいかスマホを触る気にはならず、ぼーっと街を眺めた。街灯に照らされたアスファルトが白く光っていた。猛烈な雨量に比例して水たまりが増えていく。晴れている時には意識しない窪みが存在感を増していく。存在感といえば、雨の音。頭上のサンシェードに響く音は、何かが破裂したように激しい。でも、この激しさに支配される感覚が心地いい。考え事から解放してくれる支配者に感謝した。
雨音に浸って目まで瞑っていたものだから、人の声がした瞬間、私は胸が痛むほど驚いた。
「ちょっと」
半分開いたドアから顔を覗かせている人が一人。
「練習の邪魔しないなら、中入ってもいいよ」
それから約二十分ほど、私はずっと店主のギターに耳を傾けていた。
また『罪と罰』……じゃなくて『Summertime』が演奏されはじめる。楽器の上手い下手なんてわからないけど、この人の演奏にならお金を払っていいと思った。
スマホでジャズについて検索してみる。曲の構成は主に、お決まりのメロディを演奏する「テーマ」と呼ばれる部分と、その場で即興的に演奏する音を決める「アドリブ」と呼ばれる部分に分かれているらしい。
しかし――。
私は顔を上げて、店主の方に視線を向けた。
聴いていても、どこまでが「テーマ」でどこからが「アドリブ」か、まったくわからない。すべてが連続している。降り続く雨のように。
店主がこちらを一瞥した。次の瞬間。
「あ!」
私は聞き馴染みのあるメロディーに、思わず腰を上げた。
『罪と罰』のサビの最後、「是だけ認めて」の部分が、なんだかオシャレに弾かれていた。でもそれは一瞬のことで、すぐに次から次へと押し寄せる音の波に紛れていった。
演奏が終わると、私は興奮が抑えきれず口を開いた。
「今のがアドリブですか? かっこいいですね!」
「ちゃんと気づいてもらえたようで何より」
「ジャズって自由なんですね!」
違う曲を組み込めてしまうなんて、すごいと思った。
しかし店主の表情は晴れない。
「そうでもない。ジャズにはルールがたくさんある。ジャズはクラシックになってしまった。自由な発想から新しく生まれる音楽というのは、もはやジャズにはなり得ないだろう」
店主の声には諦念が混じっているようだった。
「じゃあ、なんでジャズを演奏しているんですか」
「この様式美を愛しているから」
「自由じゃないのに?」
「自由が最高なんて、誰も言っていない」
店主が初めて笑った。
いつの間にか、雨音が消えていた。




