第6話 偽装悪女の前途多難な新生活
フェリクスが説明を終えて去ったあと、シンシアはまず自室について調べることにした。
子爵家の自室の二倍以上ある広々とした室内は、白銀を基調とした内装や調度品で整えられていた。
外から差し込む光を完全に遮断するように、窓には濃紺の厚いベルベットのカーテンが重々しく引かれている。
温かみのある色が排除されているせいか、華やかというよりは、機能的で整然とした印象だ。そのせいか、どこか無機質で冷たい空気が漂っているように感じた。
立派な鏡台に視線を移すと、漆黒の髪と、白銀に輝く白い部屋のコントラストが際立ち、自身が異様に浮き彫りにされたように見えた。
(なんだか、観察用の実験動物になったみたい……)
気を取り直して、シンシアは背面に目を向ける。
長い壁の半分を占める巨大なワードローブを開けると、中には色とりどりの豪華な衣装がずらりと並んでいた。
派手な衣装が多いのは、悪女が好むドレスを用意した結果なのだろう。
(予想はしてたけど、普段着には向いてないものばかりね……)
ため息をつきながら、次に備え付けのチェストの引き出しを開ける。すると奥の方から小物を入れるのにちょうどいい、繊細なレースがあしらわれたエチケットポーチが出てきた。
(……これは使えそうね)
いざという時のために、亡命資金となる深海の涙は常に持ち歩きたい。女性の嗜みとして持ち歩くのも自然だし、この中ならきっと怪しまれないだろう。
シンシアは深海の涙の小箱をポーチの中へ収納すると、ベッドの枕の下にそっと忍ばせた。
その時――ノックが二度、規則正しい間隔で響いた。
「奥様、侍女が食事を持って参りました」
扉の向こうから声をかけてくる護衛に、シンシアは短く返事をする。
「入りなさい」
扉が開き、侍女が音のしない銀色のサービスワゴンを押して入ってきた。
緊張した面持ちの侍女は、亜麻色の髪を黒のリボンでタイトにまとめて、シニヨンにしている。額にかかる切り揃えられた前髪が、少し幼い印象を与えていた。年はシンシアより少し若いくらいだろう。
視線が合うと、侍女はハッとした様子で押していたサービスワゴンから手を離す。そしてこちらに身体を向け、カーテシーの仕草を取る。その様子は慣れていないのか、どこかたどたどしかった。
「お、お初にお目にかかります! これからシンシア様の専属侍女を務めさせていただく、ニナと申します。よろしくお願いいたします」
動作や若い見た目から察するに、ニナはおそらく、まだ経歴が浅そうだ。
「ニナね、覚えておくわ」
財力のある公爵家が、人手不足だとは考えにくい。
ベテランの侍女たちが悪女に仕えることを拒んだ結果の人選、なのだろうか?
シンシアが考えを巡らせていると、ニナは満面の笑みを浮かべて顔を上げた。
「私の名前を、呼んでくださるのですか……⁉」
(……今までに会ったことない、タイプだわ)
フェリクスは例外として、目を見れば人の感情は読み取りやすい。
これまで経験した中で、大抵初対面の人から向けられる視線には、畏怖や嫌悪が混じっている。
しかしニナの輝く瞳には恐れがまったく感じられず、希望に満ちているように見えた。
「こんな大役をお任せいただけたのは初めてで、本当に嬉しくて! 家族のためにも、一生懸命働きます!」
(もしかして……何も知らされないまま、任命されたのかしら? もしそうだとしたら、少し気の毒ね……)
とはいえ、ここで悪女の仮面を外すわけにはいかない。
シンシアはわざと、冷たい眼差しをニナに向ける。そして口元にゆっくりと弧を描いて、悪女らしくニヒルな笑みを浮かべて言い放つ。
「あら、勘違いしないでちょうだい。今後も覚えておくかは、貴女の働き次第よ」
「はい、もちろんです! しっかり覚えてもらえるように、精一杯頑張ります!」
しかし額面通りに受け取られて、シンシアは肩透かし食らっていた。
「…………お腹すいたわ。早く並べて」
「かしこまりました!」
シンシアがテーブル席のソファに移動すると、それからニナは、こほさないよう慎重に給仕をしてくれた。
テーブルに並べられたのは、ミルクで柔らかく煮込まれたパン粥に、カボチャと人参のポタージュ、そして飲み物にハーブティが添えられている。
それは消化の良いものを中心に、栄養価が取れるように、病人に配慮された食事だった。
「シンシア様、食事で苦手なものはございますか? 何かあれば料理人にお伝えします」
ニナは白いエプロンで隠れたワンピースの右ポケットをまさぐると、小型の記録結晶石を取り出した。それを両手で大事に持ち直し、一言一句聞き逃すまいとシンシアの回答を待ち構えている。
「特にないわ」
「え、何も……ですか⁉」
なんでそんなに残念そうな顔をするのよと、喉元まで出かかった言葉をシンシアは呑み込んだ。
(使用人に記録結晶石を持たせることが出来るなんて、公爵家の管理体制はかなりしっかりしているようね)
音声が記録として残るから、言った、言ってないの無用な水掛け論が発生しない。どうやら発言には、気を配る必要がありそうだとシンシアは気を引き締めた。
「で、では! 好きなものは、ございませんか?」
ここまでニナが必死なのは、料理人に確認するよう言われているのかもしれない。
とはいえ急に好きなものと言われても、シンシアには何も思い浮かばない。母を失ってからの食事は、ただ命を繋ぐためのものでしかなく、コーデリアのせいで嫌な思い出ばかりだったから。
しかしニナの懇願するような眼差しを、ばっさり切り捨てるのも良心が痛む。懐かしい記憶を辿って、シンシアは口を開いた。
「…………スミレの砂糖漬け」
「かしこまりました! 教えていただき、ありがとうございます!」
新鮮なスミレの花びらに卵白を塗って、グラニュー糖をまぶして乾燥させるお菓子。作るのに時間がかかるけど、日持ちもする。
それはシンシアにとって、母との思い出が詰まった大好きなお菓子だった。
「新鮮なスミレで作らないと、だめよ。そしてしっかり乾かすの。カリッとしてるのが、いいわ」
「はい、しっかり伝えます! それでは何かありましたら、そちらの呼び鈴でお知らせください」
「ええ」
「失礼いたします」
ニナは人懐っこい笑顔を残して退室した。
(変わった子、だったわね……でも、仕事は丁寧だった)
一息ついたシンシアは、温かな湯気を放つ食事に左手をかざし、心の中で念じた。
(『悪食』よ。この食卓に潜む悪意を喰らい尽くせ)
シンシアの左手から放出された黒い霧状の魔力が、食事を覆う。
それはシンシアにとって、毒物や身体に有害なものを先に吸い出すための処置だった。
継母アースラと義妹コーデリアによる、度重なる陰湿な『異物混入』――ある時は「浄化」と称してジャリジャリした灰を混ぜられ、ある時は「訓練」と称して腐った肉を食べさせられそうになった。
そのせいでシンシアは、自然と食事の前にはこうする癖がついてしまっていた。
(こんなに美味しそうなんだもの、さすがに反応するわけないわよね)
しかし、そんなシンシアの思惑とは裏腹に、食事から吸い出された極僅かな毒物が闇の魔素に変換されて、シンシアの体内に吸収された。
チクリと体内を針で刺されたような痛みが走る。時間が経てば闇の魔素は中和されるから、さして問題はないけれど――。
「……どうやらこの屋敷には、私を秘密裏に毒殺したい人がいるようね」
歓迎されているとはもとから思っていない。しかし残念ながら、ここでの生活も一筋縄ではいかないようだ。
(犯人は誰かしら? 料理人、配膳したニナ、もしくは……)
選択肢がありすぎて、現段階で犯人を絞るのは難しい。
ただニナのあの純粋な瞳を見る限り、シンシアには彼女が毒を持った犯人とは到底思えなかった。
ニナの真っ直ぐな瞳の奥に、コーデリアのような『歪み』は感じられなかった。それに顔にすぐ感情が出るところから見ても、おそらくあの子は嘘がつけないタイプだ。
偽善者の仮面を被った父の演技をずっと見てきたからこそ、シンシアにはそれがよくわかる。
おそらくニナは、毒入りの食事を運ぶ捨て駒として、利用されたのだろう。
(ここで私が「毒が入っている」と騒げば、真っ先に処罰されるのは……食事を運んできたニナだ)
いくら本人が知らなかったとはいえ、毒の入った食事を運んだ事実は消えない。たとえそれが冤罪だとしても、誰も耳を貸そうとしないだろう。
正直者がバカを見る。世の中はいつだって、理不尽だった。
(私はもう二度と、お母様のような犠牲は出したくない)
一度思考を整理して、シンシアは冷静に考える。
極微量の毒という点から、これは短絡的じゃなくて、長期を想定した計画的犯行といえる。
もしここで騒いでも犯人は、毒の量を調整した上で、また別の侍女に運ばせるのだろう。目的を完遂するまで。
そんな未来を想像して、シンシアは小さなため息をこぼした。
「心底、汚いやり方ね……」
公爵家の厳重な警備をすり抜けて、毒を用意できる人物など限られている。
(一番怪しいのは、やはり白夜公ね。王令の手前、表立って処刑はできないから、病死に見せかけて処理するつもりなのかもしれない)
この場合、信頼のおける部下に実行犯を任せている可能性が高い。とはいえ、シンシアを疎ましく思う第三者や、忠誠心の高い使用人の暴走という可能性もゼロではない。
けれど誰が犯人であろうと、この厳重な警備下で毒が混入された事実は変わらない。
このままおとなしく病死させられるなんて、まっぴらごめんだ。
(いいわ、受けて立ちましょう。この状況……利用させてもらうわ)
毒殺未遂の確たる証拠さえ掴めば、それは強力な交渉の切り札となる。そのために今は泳がせて、犯人に尻尾を出させた方がいい。
「この命を繋ぐ糧に、感謝を」
シンシアは手を組んで、祈りを捧げる。
そして無毒化した食事を、美味しくいただいた。相手の罠を利用して、犯人の尻尾を掴むために――。










