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わたくしを殺して、自由になりませんか?~偽装悪女の政略結婚~  作者: 花宵


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第38話 偽装悪女は白夜公を救いたい

 窓から差し込む柔らかな陽光が、シンシアを照らす。

 元気な小鳥のさえずりに誘われて目を覚ますと、繋いでいたはずの手は解けていた。その代わりに感じたのは、背中から包みこまれるような、圧倒的な温もりと重みだった。


「…………ぁ」


 シンシアは視線を下げて、思わず息を呑む。

 そこには指先まで硬く、節くれだった男の手が、がっしりと自身の身体を守るように抱きしめていた。

 背後から回されたフェリクスの逞しい腕に、シンシアは自分がすっぽりと閉じ込められていることを悟る。

 そっと触れて移動させようと試みても、棒のように硬い腕はびくともしなかった。


(……動けない。でも……)


 シンシアは確かめるように、そっとフェリクスの手に自身の手を重ねてみた。


悪食(ヴィスデロペ)が、こんなにも安らいでいる)


 昨日の飢えた獣のような衝動や疼きが、嘘のように穏やかだった。

 一晩、フェリクスから少しずつ掠め取った魔力の余韻が、悪食に深い充足感を与えたのだろう。

 寂しさを感じる暇もないほど満たされてるから、触れても無理に奪おうとしないようだ。


(よかった。あの子を満たしながら、ちゃんと『制御』できたのね……)


 シンシアがほっと胸を撫で下ろした時、頭上からフェリクスのくぐもった声が降ってきた。


「……んっ、……」


 耳の奥、頭の芯まで直接響くような、熱く掠れた男の吐息の残響。密着した身体を通じて伝わるその声の振動は、シンシアの耳朶を赤く染め、身体を駆け抜けた。


「ひゃっ……⁉」


 肩をピクリと震わせ、思わずシンシアから小さな悲鳴が漏れる。

 するとフェリクスは、それを異変と勘違いしたらしい。危険から守るように、その腕にぎゅっと強い力を込めた。


(――ぁ、……っ⁉)


 反射的に動いた大きな手は、シンシアの胸部を鷲掴みしてしまっていた。


「あ、あの……起きて、旦那様……」


 恥ずかしさのあまり、身体をよじってシンシアが必死に訴えると、ようやくフェリクスは目を覚ました。


「…………ッ、…………は⁉⁉⁉」


 耳元で、絶望に染まった悲鳴のような息遣いが響く。

 状況を理解したフェリクスは弾かれたように目を見開き、全力でシンシアから飛び退いて距離を取った。驚いた猫のような急激な動きに、豪華な寝台のバネが大きな悲鳴を上げる。


――バリバリバリッ!


 次の瞬間、凄まじい凍結音が室内に響いた。

 フェリクスの動揺に呼応するように、氷の魔力が暴走し、壁も床も天井のシャンデリアさえもが、一瞬にして凍りつき、白銀の氷結地獄へと変わっていく。


「す、すまない! 俺は、なんてことを……っ!」


 フェリクスは床に膝をつき、羞恥に染まる顔を覆って、絶望的な声で謝罪を繰り返す。


「落ち着いてください、旦那様!」


 しかしシンシアの声はフェリクスには届かない。冷気は増すばかりで、このままでは宿屋全体を氷で覆うのも時間の問題だった。


 シンシアは左手を天にかざし、悪食に命じる。


悪食(ヴィスデロペ)よ。凍てつく氷を喰らい尽くせ」


 黒い霧が部屋全体を覆い、氷を吸い取っていく。しかしフェリクスの身体からあふれる凄まじい密度の氷の魔力は、減るどころか増える一方だった。


(……くっ、吸引が追いつかないわ)


 シンシアが溶かしたそばから、すぐに凍ってしまう。これではいたちごっこにしかならない。


 シンシアはベッドサイドに置いておいたポーチから、レイスにもらった魔法薬を取り出し、フェリクスに差し出す。


「こちらをお飲みください! 魔力を中和するお薬ですわ」


 しかしシンシアが近づこうとすると、フェリクスの動揺は強まり、拒絶するように冷気は吹雪のように激しさを増す。


(薬もだめ、魔力を吸ってもおいつかない……このままでは、彼が壊れてしまう)


 フェリクスを苦しめている『感情の根源』を吸い出すことができれば、暴走は収まるだろう。しかし人から感情を抜き出すのはそれこそ、黒魔法のように禁忌とされる行為に他ならない。


 シンシアは、荒れ狂う冷気を見つめながら、静かに覚悟を決めた。

 どうせシンシアにとっては、今日が最後の日だ。

 父の悪事を白日のもとに晒し、汚染された大地を掃除する。その代償に、自分自身の命を差し出すつもりだった。

 それに、これまで悪事に加担してきたような悪女だ。いまさら罪状が一つ増えるくらい、どうってことないだろう。


(たとえ禁忌を犯した大罪人と呼ばれても、化け物の私に温もりをくれたこの人のためなら……悪魔にでもなってやる)


 シンシアは左手に神経を集中させて、悪食に命じた。


悪食(ヴィスデロペ)よ。旦那様の心を苦しめる、悪しきものを喰らい尽くせ」


 シンシアの呼びかけに応え、刻印から放出されたのは、実体を持たない黒い影のような獣。命令されたものを忠実に噛み砕いて喰らい尽くす、悪食の思念体だ。

 影の獣は荒れ狂う吹雪を幻影のようにすり抜けると、フェリクスの精神の奥深くに潜り込み、赤黒く煌めく結晶に狙いを定める。

 大きく口を開けた獣は、鋭い牙でその結晶へと食らいつく。


 するとシンシアの脳内に、――バキッ、という破砕音が響く。


 獣は結晶を喰いちぎると、それを逃さぬよう、無惨に噛み砕いてゴクンと呑み込んだ。


 その瞬間、フェリクスから放たれていた凄まじい冷気がピタリと止んだ。


(よかった、なんとか収まったわね。悪食(ヴィスデロペ)、最後の仕上げよ。凍った部屋をお掃除しなさい)


 シンシアの命令に応じて獣が咆哮を上げると、部屋中の氷が振動でパリンと割れた。それらは光の粒となって、大きく口を開けた獣の口内に吸い寄せられて、綺麗に収まった。


 満足した獣はシンシアの方へ戻ってくると、刻印の中にすっと還っていく。


「っ、…………ぁ、……っ⁉」


 次の瞬間、脳内を焼き焦がすような衝撃が、シンシアを襲った。

 最高級のカカオと煮詰めた蜂蜜を、強い酒精に漬け込んだ、漆黒の劇薬。

 それはビターで熱く、とろけるほどに甘い。

 中毒性の強すぎる甘美な酒をたらふく飲まされて、酔いが回ったような感覚に陥る。

 喉を灼き、脳を痺れさせ、守ってきた悪女の仮面を根底から溶かしてしまうような――フェリクスを暴走させていた、過剰な感情のノイズが流れ込んでくる。


『彼女は本当に、悪女なのか……?』


 そこにいたのは、流れる悪評とはまったく違う。

 ただ純粋に、母親を慕う孤独な少女だった。

 なぜシンシアが悪女のふりをするのか、わからない。それでも時折見せる凪いだ笑顔が、彼女の素なんだろうと理解するのに、時間はかからなかった。

 いつか心を開いてくれるように、孤独の中で独り戦うシンシアを、守りたいと思った。


『それなのに、俺は……約束を反古にしたどころか、騎士としてあるまじきことをしてしまった……っ』


 守るべき、清らかな花に手を出し、自ら穢してしまった。

 そんな自分が許せず、自縄自縛の鎖を何重にも課そうとする、高潔な意思。

 しかしそんな鎖さえも意味をなさないほど、全身に残る柔らかな温もりに執着し、愛おしいと感じてしまった。

 不純な感情があふれ、逃したくないという渇望。そんな欲望に必死に蓋をしようとする不器用な誠実さ。


 ひしめき合う高潔さと本能に苛まれる、誠実な男の葛藤――そんな甘美な毒に当てられ、シンシアは顔を真っ赤にして蹲った。


(……っ、清らかな花ですって⁉ 旦那様、目が悪いのではなくて……⁉)


 あまりに分不相応な高評価に、脳が沸騰しそうになる。

 無尽蔵に湧く凍てつく吹雪を持ってしても、冷やしきれないほどの、凄まじい葛藤から生じる熱。

 フェリクスが普段、常に自分を律し、騎士道を大事にしているからこそ……今回起こった不測の事態が、より彼を絶望の谷底へ突き落としたのだろう。


(まさか、こんな風に想ってくれていたなんて……)


 逃げ場のない熱に浮かされ、シンシアは呼吸さえままならない。

 すると、そんなシンシアのパニックをよそに、頭上から驚くほど穏やかな声が降ってきた。


「……不思議だ。急に心が凪いだ。すまないシンシア、随分と迷惑をかけたな」


 見上げれば、そこには憑き物が落ちたような、すっきりとした顔のフェリクスが立っていた。

 灼熱のような葛藤をシンシアが全て吸い取ったおかげか、いつもの冷静な白夜公に戻っている。


「……旦那様。さっきまでのことは、覚えていますか?」


 記憶に混濁がないか恐る恐る尋ねるシンシアに対し、フェリクスは一切の揺らぎがない、澄み切った瞳で頷いた。


「ああ、覚えている。不注意で触れてしまい、すまなかった。もし今度訓練する時は、俺の身体をまず縛ってくれ」

「…………は?」


 シンシアは呆然と、目の前の賢者のように悟りを開いた男を凝視した。

 この人は今、なんと言ったのか。


「君が安心して訓練するための措置だ。今回の件……騎士として、事前に対策を怠った俺の落ち度だ」


 大真面目に、論理的な解決策として「自分の拘束」を提案してくるフェリクス。

 だが、シンシアの脳内には今、彼がさっきまで抱いていた灼熱のような葛藤の残響が、甘美な毒となって暴れている。


 そんな熱を肩代わりした側からすれば、フェリクスの爽やかな提案は、もはや嫌がらせに近い。


「……っ、どの口が、そんなことを……!」

「シンシア? ……やはり、まだ怒っているのか?」


 心配そうに顔を覗き込んでくるフェリクス。

 その非の打ち所がない美貌も、凪いだ声も、今はただただ腹立たしい。


「この……天然不埒者! 大バカ旦那様っ!」

「なっ……⁉」


 差し出された手をパチンと叩き、シンシアは真っ赤な顔で寝室を飛び出した。

 相手の精神に干渉する――禁忌を破った代償は、今のシンシアにはあまりにも刺激の強すぎるものだった。


 残されたフェリクスは、空を掻いた自分の手のひらを見つめ、「……どうやら縛るだけでは、足りないようだ」と、凪いだ心で大真面目に次の対策を練り始めていた。

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