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わたくしを殺して、自由になりませんか?~偽装悪女の政略結婚~  作者: 花宵


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第36話 偽装悪女は白夜公の優しさを知る

 皆が去ったあと、部屋に二人残されたシンシアとフェリクス。


「……本当に、これでよかったのか?」


 気まずそうにかけられた声に、「全然よくない」と喉元まで出かかった言葉を、シンシアはなんとか呑み込んで考える。

 フェリクスをこれ以上、余計な感情で悩ませて、魔力を乱れさせたら自分の身が持たない。

 どうすれば、フェリクスがこの一晩を穏やかに過ごせるのか……それだけを必死に考え答えた。


「公爵夫人として、貴方の顔に泥を塗るわけにはいきませんから」


 シンシアが導き出した結論は、大人しく振る舞い、困らせないことだった。

 にっこりと微笑み答えると、なぜかフェリクスは激しく狼狽え始めた。


「……あ、明日の、打ち合わせをしてくる」


 フェリクスは逃げるように扉に手をかけ、振り返ることなく言葉を続けた。


「先に休んでいて構わない。ローザを向かわせるから、食事も、湯浴みも、自由に使え」


 そう言い残してフェリクスが部屋を飛び出していった瞬間、シンシアは深く息を吐き、へなへなとその場に崩れ落ちた。


(た、助かった……)


 今のシンシアにとって、甘い魔力を撒き散らすフェリクスと一緒にいるのは、悪食に抗う理性との戦いだった。こうして物理的に距離を取れたのは、不幸中の幸いだ。


(今まで、こんなことなかったのに……)


 どうして今日に限って、こんなにも刻印がフェリクスの魔力に反応を示すのか、シンシアは困惑していた。


 だけど、嘆いている場合ではない。

 今晩さえなんとかやり過ごせば、明日はペルカ村に着く。

 シンシアは深呼吸して、気持ちを落ち着けた。そして冷静になった頭で、今やるべきことを再確認する。


 今のシンシアが優先すべき任務――それはフェリクスが戻ってくる前に全ての支度を済ませて眠り、無事に明日を迎えることだ。


 それからシンシアは部屋で夕食を取り、備え付けの浴室で湯浴みも済ませた。ばっちりと就寝支度を済ませたところで、明日に備えてローザは下がらせた。


 あとはこの巨大なベッドの隅に潜り込んで、意識を手放すだけだ。

 目を瞑って朝が来るのを待つ。しかし待てど暮らせど、眠気が来ない。


 お湯で温まった身体が、かえって感覚を過敏にさせたせいか、冷気を欲するように、左手が疼いて仕方なかった。


 フェリクスが部屋を去ってかなり時間が経ったはずなのに、あの冷たくて甘い魔力を求めて、悪食が悲鳴を上げている。


 シンシアは深い溜息を吐き、ベッドから起き上がった。

 サイドランプを点けて、微かな灯りを頼りに薄手の寝間着の上に厚手のガウンを羽織る。そして気持ちを鎮めようと、テーブルに置かれた水差しへと手を伸ばす。


 ――ガチャリ。


 ちょうどその時、遠慮するかのように扉の開く小さな音が鳴り、シンシアの心臓が跳ね上がる。


「……あ」


 シンシアが顔を上げると、そこには夜風で髪を乱したフェリクスが立っていた。

 彼はシンシアがまだ起きているとは思わなかったのか、大きく目を見開き、硬直している。


「…………起きて、いたのか」

「……ええ。なんだか、眠れなくて……」


 気まずい沈黙が流れる。

 左手がフェリクスに反応を示したのを感じて、シンシアは慌ててソファに座り、視線を逸らした。そして疼く左手の熱を逃がすために、水を注いだグラスに左手の甲を押しつける。


 こちらに近づいてきた足音がそばで止まり、ふわりと石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。どうやらフェリクスは、大浴場で入浴を済ませたらしい。


「これを……」


 差し出されたのは、お洒落な瓶に入ったスミレの砂糖漬け。昼間にシンシアが料理店で見ていたものだった。


「どうして、これを……?」

「目を輝かせて、見ていただろう」


 フェリクスはあの時、聞いていたはずだ。コーデリアの忌まわしい言葉を。母を魔女と蔑み、いつまでも異端思想に洗脳されたままの、愚かな悪女の話を――。


「公爵様。悪女にこのようなものを与えては、異端思想を疑われますわ」


 差し出された瓶から、シンシアはそう言って視線を逸らす。


「……子が母を思う気持ちに、異端もなにもないだろう。それを土足で踏みにじる方が、俺にとっては異端に見えた」


 冷たく突き放したのに、フェリクスからかけられたのは、シンシアの傷ついた心を優しく包み込むような、温かい言葉だった。


 誰も、認めてくれなかった。

 誰も、肯定してくれなかった。

 どれだけ訴えても、聞き入れてもらえなかった。

 当たり前のように、一人の人間として扱えってもらえたことが嬉しくて、シンシアの胸をぎゅっと締め付ける。


「それでも受け取るのに理由がいるなら……そうだな、これは遅れた誕生日プレゼントだ」


 どんなに豪華な衣装や宝石よりも、それはシンシアにとって値段のつけられない、価値のあるプレゼントだった。


「……っ、それなら、仕方ありませんわね。頂戴、いたしますわ」


 シンシアは改めて、受け取ったガラスの瓶を見つめた。

 フェリクスの不器用な優しさに触れ、シンシアが頑なに閉ざしていた心の扉が、少しだけ開いた。


「……公爵様。わたくしの母は、貴方と同じように氷魔法が使えましたの」


 シンシアの口から、ぽつり、ぽつりと零れ出す言葉。

 それは家族に悪女の仮面を被せられて、どうせ誰にも信じてもらえないからと、周囲に分かってもらうことを諦めた――シンシアの心の聖域だった。


「母はいつも、人を喜ばせるためにその力を振るう、温かくて優しい方でした。ピクニックにはいつも、わたくしの好きなスミレの砂糖漬けを用意してくださって。たくさん遊んだ後に、母が氷魔法でひと撫でして冷やしてくださった……あの冷たくて甘美な味と楽しい思い出は、今でも色褪せずに残っています」


 ガラス瓶越しに伝わる心地の良い冷たさが、遠い日の母の手のひらと重なる。


「……たとえ世間が魔女と蔑んでも、わたくしにとっては大切な思い出です。誕生日に監視用の指輪を嵌められた時は、最悪な気分でしたが――このプレゼントは、……その、悪くないですわ」


 そう言ってシンシアは瓶を抱きしめるように胸元に寄せると、少しだけ顔を背けた。フェリクスがどんな顔をして、自分の話を聞いていたのか、知るのが怖くて。


 すると次の瞬間、感じたのはソファの揺れだった。

 シンシアの隣の席にどかっと腰を下ろしたフェリクスは、こちらに手を差し出し、短く命じた。


「貸せ」


 シンシアは無意識のうちに、瓶を抱く手に力を込めた。

 不快な話を聞かせてしまったせいで、奪われると思ったのだ。

 虐げられた子犬のように、怯えに満ちたシンシアの瞳を見て、フェリクスは「あ、いや……違う」となぜか狼狽えはじめた。


「すまない、言葉が足りなかった。思い出の味を、再現できれば……と思ったのだ。その……喜んでほしくて……」


 ちらりとこちらを窺うフェリクスの耳は、真っ赤に染まっていた。

 それは愉悦を浮かべて奪おうとする者ではなく、誠実に向き合おうとしてくれる者の姿だった。


「……お願いします」


 シンシアは、少しでも疑ってしまったことを心の中で詫びながら、おずおずと抱きしめていた瓶を差し出した。


 壊れ物に触れるように、フェリクスは優しい手つきで瓶を受け取る。そして蓋を開けると、左手のひらに一粒だけ取り出した。


 その小さな一粒に右手をかざし、フェリクスは真剣な表情で慎重に魔力を注いだ。


――ピキィィン!


 しかし無情にも、フェリクスの放った最小の魔力さえ、スミレの花びらにとってはあまりにも強大すぎた。


 冷気が触れた瞬間、氷の魔力は結晶となって爆発的に増殖し、瞬く間に彼の掌の上に鋭利な氷の山脈を築き上げる。

 スミレの花びらは、その透き通った氷の中に、逃げ場もなく閉じ込められてしまった。


「………………」


 わなわなと、フェリクスの手が羞恥と自責で震える。

 王国一の騎士団長が、たった一つの菓子を前にして。この世の終わりかというほど情けない顔をして、がっくりと肩を落とした。


「……すまない。やはり俺の魔力は、人を傷つけることしかできないようだ」


 消え入りそうな声が、シンシアの胸を締め付ける。


 『白夜公』と畏怖され、王国最強の剣であり盾でもあるフェリクス。

 その強大な氷魔法は、一度戦争に出れば数多の命を奪う武器となるだろう。しかしそれは、このセイン王国を、そして人々を守るために行使されてきた、孤独な誇りの象徴でもある。


 これまで魔力過多症に苦しんできたフェリクスは、きっと誰よりも――その力は何のために使うべきか自問自答し、理想とうまくいかない現実の狭間で自信を失い、傷ついてきたのだろう。


 自分の意思に反して、魔力が暴走する辛さ。

 そしてそれを、ずっと抑え続けなければならない苦しさ。

 【暴食】の厄災を背負って生まれたシンシアは、常に感情を押し殺し、自分を【節制】して生きてきたからこそ、彼の抱える苦しみがよくわかった。


(どうか自分を責めないで。貴方の魔法は、こんなにも温かいのだから……)


 シンシアは氷山に囚われたスミレの花びらに、そっと左手をかざす。


悪食(ヴィスデロペ)よ。世界で一番優しい――極上のデザートを喰らえ」


 シンシアの願いに応えるように、左手の刻印が脈打ち、なめらかな絹のような漆黒の闇を放出した。

 それは意志を持つ黒い薄衣のように空中を舞い、フェリクスの放った鋭利な氷の山脈へと、優しくいたわるように絡みついていく。


 闇が氷に触れた瞬間――カチリ、と硬質な音を立てていた氷塊が、内側からほどけるように砕け、眩いばかりの青白い魔素へと分解されていった。


 黒い薄衣は、その星屑のような魔素を一つ残らず絡め取ると、闇の底へ誘うように、渦を巻いてシンシアの左手へと優雅に吸い込まれていく。


「…………っ」


 まるで夜の深淵が、こぼれ落ちた星々を優しく手繰り寄せるような――幻想的な光景を前に、フェリクスがハッと息を呑んだ。

 そうして闇が刻印へ還ったあと、彼の手に残されたのは――。

 余分な魔力が削ぎ落とされ、しっとりと美しい薄氷を纏ったスミレの花びらだった。


 シンシアはそれを摘むと、ぱくりと自身の口に含む。

 甘美な思い出の余韻を慈しむように堪能し、フェリクスの真心が混ざり合った至高の味を噛みしめる。そして――シンシアはにっこりと、心からの笑みを浮かべた。


「最高に美味しいお菓子でしたわ、旦那様」

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