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わたくしを殺して、自由になりませんか?~偽装悪女の政略結婚~  作者: 花宵


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第35話 偽装悪女は悪食の異変に戸惑う

 これまでコーデリアには、何を言っても伝わらなかった。

 けれど初めて、衝撃を与えることができた。


(飼い犬に噛まれたような顔をして、滑稽だったわね)


 勝利の余韻に浸っていたシンシア。しかしその高揚感は、馬車の手前で一瞬にして別のものへと塗り替えられる。


 ドクン――と、左手の暴食の刻印が脈打った。


 その瞬間、上質な果実を絞った氷菓子のように爽やかで、とろける甘美な味を脳が思い出す。

 飢えた獣のようにそれを欲する衝動がわき起こり、フェリクスの腕に添えた左手が熱を持って疼き始めたのだ。


 シンシアがちらりとフェリクスを盗み見ると、彼はまっすぐと前を向いたまま、一切こちらを見ようとしない。その口元は、固く結ばれていた。


(これはまずいわ! 怒りで白夜公の魔力が……!)


 春の陽光さえ凍りつかせるような凄まじい冷気が、フェリクスの体内を駆け巡っているのがわかった。


 極上の氷菓子(ソルベ)――。


 【暴食】の刻印が「それを喰らえ」と脳内で騒ぎ立て、シンシアの理性を削りにかかってくる。


(いけない。早く、離れなきゃ……! このままでは、また獣のように――魔力を吸い尽くしてしまう)


 シンシアは本能に抗いフェリクスの腕を解くと、逃げるように馬車の中へと急ぐ。

 エスコートを待たず、自ら馬車のステップに足をかけた。一刻も早く、距離をおくために。

 しかしそんな焦りが、シンシアの足元を狂わせる。ドレスの裾が、ヒールの先に絡みついてしまった。


(――あ)


 身体が傾いた瞬間――背後から、切羽詰まった声が響く。


「……っ! 勝手に、離れるな」


 咄嗟に腰に回された、逞しい腕。

 強い力で引き寄せられたシンシアの背中に、フェリクスの厚い胸板が密着する。


 脳髄を刺激する、冷たくて甘い魔力の奔流。至近距離で刻印が拾い上げた『極上のデザート』の幻味に、シンシアの喉が思わずごくりと鳴る。


「…………怪我は、ないか?」


 耳元で響くフェリクスの荒い呼吸が、シンシアの髪をそっと揺らす。早鐘のように鳴る彼の鼓動が、背中ごしに伝わってくるのを感じた。


(相当ご立腹だわ……怒りのせいで、こんなにも魔力が乱れているなんて……!)


「え、ええ。おかげさまで」


 シンシアは必死に悪食の衝動を抑え込みながら、震える声で答えた。


「そうか…………乗れ」


 フェリクスは腕を解くと、シンシアが掴まれるよう手を差し出してくれた。

 その時、少しだけフェリクスの魔力が和らいだのを感じた。

 心を落ち着かせたシンシアは、その手を借りながら馬車に乗り込んだ。


「――テオ」


 フェリクスは振り返ると、後ろに控えていた侍従を呼び、何かを言付けているようだった。


「……を…………しめ、……二号車へ積んでおけ」

「かしこまりました」


 指示を終え馬車に乗り込んできたフェリクスは、ずっと難しい顔をしていた。


 フェリクスは始終、窓の外に視線を向けている。

 その微動だにしない彫刻像のような美しい横顔は、何か考えているように見えた。そして膝の上で固く握られた拳からは、時折革手袋が軋む音が聞こえる。


 シンシアの左手の刻印が、フェリクスの魔力に反応を示すかのように、ずっと小さく疼いている。


(きっとまだ、怒りに耐えていらっしゃるのね……)


 魔力は感情と深く繋がっている。だから悪食(ヴィスデロペ)で過剰に生成される魔力を吸えば、フェリクスは楽になるだろう。

 しかし今のシンシアには、うまく加減ができるかどうかわからなかった。


 あの日は気持ちよくて眠ってしまうほど、悪食がフェリクスの魔力を吸い尽くしたのだ。

 極上のデザートを前に、本能で抑制の効かなくなった悪食を制御できなかった場合、その生命さえも吸い尽くしてしまう恐れがある。


 フェリクスが自分で抑えることができるものを、余計なお節介をやいた挙句に失敗などしたら、目も当てられない。

 小さく疼く左手を右手で覆いながら、シンシアは窓の外に視線を移した。


(今は白夜公をこれ以上怒らせないように、大人しくしておくのが正解だ)


 それから王都の北門を出て、宿場町に着くまで数時間――馬車の中を支配していたのは、静寂だった。規則正しく響く馬の蹄の音と、車輪が小石を弾く音が耳に届く。

 下手に声をかけて悪女を演じる必要のないその静寂は、今のシンシアにとって、理性を繋ぎ止める何よりの救いだった。


 やがて日が沈みかけた頃、馬車が速度を落とした。

 どうやら宿場町に着いたようだ。

 しかしここでも、新たな問題が発生する。


 馬車を降りると出迎えてくれたのは、女性の威勢の良い声だった。


「アイゼン公爵閣下と奥様ですね! お待ちしておりました!」


 満面の笑みで二人を迎えてくれたのは、本日泊まる宿屋の女主人だった。


「新婚のご夫婦には、仲良くゆっくりと寛げる、当宿でも『特別な』お部屋をご用意しております! さぁ、お入りください!」


 そう言って案内された部屋を見て、シンシアとフェリクスは絶句した。広々とした豪華な寝室にあるのは、二人並んでも余りあるほどの、巨大な天蓋付きのベッドが一つだけ。


(こんなの無理よ! あんな至近距離で一晩過ごすなんて、私の悪食が大人しくしているわけがないわ!)


「(テオ、これはどういうことだ?)」

「(僕はきちんと、別室を予約しました! ですが……新婚って言葉を付けちゃったのが、まずかったようです……申し訳ありません!)」


 背後ではフェリクスとテオのそんな焦った小声が聞こえ、前では女主人が屈託のない笑みを浮かべている。


「どうぞこちらで、旅の疲れをゆっくりと癒してください」


 そこに悪意は一切なく、最高のサービスを提供しようとする、女主人の善意があるだけだった。


(でもここで私が拒絶して、白夜公を苛立たせたらダメだ。怒りで漏れる魔力に、私が悪食を抑え込めなくなる……)


「まぁ! こんなに素敵なお部屋を用意してくださるなんて、嬉しいですわ」


 シンシアは胸の前で手を打って喜びを示すと、振り返ってフェリクスに声をかける。


「――ねぇ、()()()?」


(貴方の口からきっぱり、はっきりと、断ってください!)


 しかしそんなシンシアの願いは、女心を読むのが苦手なフェリクスには、微塵も伝わらなかった。

 笑顔で同意を求められたフェリクスは視線を彷徨わせ、空気を読んで「あ、ああ……そう、だな」と頷いてしまった。


 

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