第28話 白夜公は診察結果に驚く
離宮の二階、一番の見晴らしを誇るシンシアの寝室前。そこでは夜の静寂を切り裂くような、重苦しい圧が立ち込めていた。
それはシンシアを寝室に送り届けたフェリクスが、廊下でレイスが来るのを待ち構えているせいだった。
扉の前で待機する護衛騎士も、いつも以上に緊張した面持ちで、背筋をピンと伸ばし、彫像のように立ち尽くしている。
ガチャリ、と廊下に静かな音が響く。
シンシアの着替えを済ませたセイラが、音がなるべく立たないよう慎重に扉を開けて顔を出した。
「旦那様、終わりました。どうぞ中へお入りください」
フェリクスが足を踏み出そうとしたその時――階下の豪華なエントランスから、静寂を乱す激しい足音が響いてきた。
「フェリクス! 今度は一体、何があったんですか……⁉」
全速力で大階段を駆け上がってきたレイスが、肩で息を切らしながら踊り場に姿を現す。その後ろからレイスを追いかけるようにして、ローザが足早に付き従ってきた。
「……声を落とせ。シンシアが起きるだろう」
フェリクスが低く、地を這うような声で制すると、レイスは慌てて口を塞ぎ、ローザは深く頭を垂れた。
二人を手招きし、寝室へ招き入れたフェリクスは、音もなく扉を閉めた。
「シンシアが、暴走した俺の魔力を吸い込んだ。異常がないか、診察してくれ」
「貴方の魔力をですか……⁉」
レイスは驚きで大きく目を見開いたあと、「わかりました」と表情を引き締めた。
一体どのように悲惨な状態なのか……覚悟を決めてベッドに近づいたレイスが見たのは、すやすやと幸せそうに寝息を立てるシンシアの姿だった。
「…………えっと」
レイスは拍子抜けしたように瞬きを繰り返し、困惑した視線をこちらに向けた。
「本当に奥様は、貴方の魔力を吸い込んだのですか?」
「ああ、俺の体内に燻っていた魔力まで、過剰に吸い込んだのだ。普通の人間が浴びれば、凍死してもおかしくない量を……!」
フェリクスは悲痛な面持ちで訴える。しかしレイスは再度ベッドを見下ろし、首を傾げた。
「うーん、幸せそうに熟睡しているようにしか見えないのですが……」
「だから起こさないように、異常がないか診察してくれと言っているんだ!」
「…………無茶言いますね。起こして問診した方が早い気がするのですが」
「君は悪魔か⁉ そんな所業、俺にはできん!」
「………………はぁ」
レイスは深い溜息をついた。
呆れたような視線を向けられたが、今のフェリクスには友人の心情を慮る余裕など微塵もなかった。
フェリクスの必死な形相に、レイスは諦めたように肩をすくめると、トランクケースから診察用の魔法具を取り出した。
「わかりました。そんな顔で凄まれると気が散るので、あちらのソファに掛けて待っていてください」
「……ああ、頼んだぞ」
フェリクスは大人しくソファに座り、診察の行方を見守った。
重苦しい沈黙の中、レイスは慎重に診察用の魔法具をかざし、シンシアの体に異常がないか確認していく。
時折調べた数値をカルテに書き込み、過去の数値と比べて異常がないか、レイスは慎重に検査を続ける。
フェリクスには、カチ、カチ、と時を刻む時計の音が、やけに大きく感じた。
(頼む、無事でいてくれ……!)
一分が一時間にも感じられるような焦燥感に駆られる中、レイスがようやく「終わりました」と声をかけてきた。
「どうだった⁉ 内臓は無事か⁉ 凍結して壊死したりは⁉」
「落ち着いてください。奥様は無事です。どこも悪くありません」
「そうか! それならよかった……」
レイスの言葉に、フェリクスは全身の力が抜けたようにソファに背を預けた。張り詰めていた糸が切れ、深い安堵の吐息が漏れる。
「……ですが、少し込み入った話があります」
レイスは意味ありげに視線を巡らせ、控えていたローザとセイラを一瞥した。
フェリクスはすぐにその意図を汲み取り、二人に声をかけた。
「ローザ、セイラ。もう下がって大丈夫だ」
「それでは、失礼いたします」
侍女たちが一礼して退室する。
扉が完全に閉まるのを確認してから、レイスはフェリクスの向かいの席に座り、声を潜めて話を切り出した。
「いいですか、驚かないで聞いてください」
改まってそう言われて、フェリクスに緊張が走る。
「検査の結果、奥様の体内にあった古傷までもが、綺麗に回復していました」
「……それは、どういうことだ?」
「どうやら貴方たち、魔力の相性が最高に良いみたいです。おそらくそのシナジーで、治癒効果が働いたのでしょう」
レイスはにっこりと笑みを浮かべ、検査結果のカルテを指先で弾いた。
「俺の魔力が、シンシアを回復させたというのか⁉ 触れるもの全てを凍らせるこの氷魔法に、回復効果があるなど聞いたことないぞ!」
フェリクスは愕然として、自らの手を見つめた。
魔力過多症の影響で、幼い頃から周囲を傷つけ、自身さえも蝕んできたこの魔力が、まさか人に癒しをもたらすなど本来ありえないことだ。
フェリクスを諭すようにレイスは指を一本立て、真剣な表情で説明を始めた。
「悪食は有害な異物を吸うと、取り込まれた闇の魔素が体内で暴れまわり、魔力回路をズタズタにします。なので完全に中和するまで、本来なら激しい痛みを伴います」
「あの時、シンシアは痛がるどころか、むしろ……」
フェリクスの脳裏に、車内での光景が鮮明に蘇る。
シンシアは苦悶の表情を浮かべるどころか、恍惚とした表情で『もっと』とねだるように、手を伸ばしてきたことを。
「やはり、貴方の魔力は違ったようですね」
耳を赤く染めるフェリクスを見て、レイスは確信を得たように頷き、言葉を続けた。
「つまり奥様の悪食が、こう判断したんですよ。貴方の魔力は『害』ではなく、極上の『糧』だと」
「……確かにあの時、シンシアは俺の魔力を『おいしいソルベ』だと言っていた」
「おそらく暴走した貴方の魔力に、奥様を傷つけようとする『悪意』がなかった。だから奥様はそれを攻撃的な氷の刃ではなく、無害な『ご馳走』と判断したのかもしれません」
レイスの分析に、フェリクスは言葉を失う。
無意識下で放った魔力が、シンシアを傷つける刃にならずに済んだこと。その事実は、フェリクスの心に深く染み入った。
「他者には『死』をもたらす冷気が、奥様にだけは『癒やし』となる。……こんな奇跡、他ではありえません」
レイスは感嘆の息を漏らし、しみじみと告げた。
「ですから、特別な関係なんですよ」
そう結論づけたあと、レイスはハッとしたようにフェリクスの顔を覗き込んだ。
「……それに、どうやらその恩恵は、奥様だけのものではないようです」
「……どういうことだ?」
「フェリクス、貴方自身の顔色も、いつになく良さそうじゃないですか」
指摘されて初めて、フェリクスは自身の変化に気付いた。
ここ一週間、サイラスの後処理で忙しく過ごしており、今朝は魔力を発散する時間を取れなかった。
だから魔力が外に漏れないよう、夕食の席ではなんとか自分を律して耐えていたものの、予想外のハプニングでその一部が漏れてしまった。
しかしあの時、シンシアがねだって触れてきた左手は、フェリクスの中に燻る魔力までをも綺麗に吸いとった。
言われてみれば、いつも身体の奥底に鉛のように留まっていた倦怠感がない。
「……確かに。体内に燻っていた余剰魔力ごとシンシアが吸い取ってくれたおかげか、調子がいい」
「奥様は貴方の抱える苦しみを取り払い、それが奥様の糧になる。これはまさに、理想的な共生関係です」
レイスは楽しげに肩をすくめ、太鼓判を押すように言った。
「最高の奥様を手に入れましたね。これからは定期的に奥様に魔力を食べてもらえば、お互い幸せじゃないですか」
(……て、定期的に、だと?)
フェリクスの脳裏に、先ほどの車内でのシンシアの表情が鮮明に蘇る。
潤んだ瞳で頬を赤らめ、熱っぽい吐息で『もっと』とねだる、あの無防備で艶やかな姿を。
あんな顔で毎回ねだられたら――こちらの理性が焼き切れてしまう。
「……茶化すな」
フェリクスは赤くなった顔を背け、呆れたように返すが、レイスは「おや」と心外そうに首を傾げた。
「茶化してなどいませんよ。実際、中和剤の主原料である『メーテル草』の入手も難しくなっていますし、いい考えだと思ったんですがね」
「その薬草買い占めの件だが、買い手は特定した。どうやら互いに無関係を装う複数の商会が、同時刻に各地の在庫をさらっているようだ」
「……一体何に使ってるのでしょうね?」
「それはまだわからん。だが表向きは正当な商取引だ。罪状がない以上、公爵家といえど介入はできん。真意については、まだ調査中だ」
フェリクスは苦々しげに吐き捨て、話題を切り替えるように声を落とした。
「……話が逸れたな。レイス、もう一つ確認したいことがある」
「おや、まだ何か?」
フェリクスは一瞬言い淀んだあと、眠るシンシアに視線を向けた。
「近いうちに、シンシアを連れて北嶺の山荘へ行こうと思っている。今の体調で、馬車での長旅に耐えられるか?」
レイスは意外そうに目を丸くしたあと、すぐに意地悪そうな笑みを浮かべた。
「おや、新婚旅行ですか? お土産よろしくお願いします」
「……買い占めの件で、あの一帯を調べれば何か掴めるかもしれないと思っているだけだ。それに、シンシアもあそこへ行きたいと言っていた」
フェリクスは、必死に公務であることを強調する。しかしそんなこちらを眺め、レイスは楽しそうにトランクケースの鍵を閉めた。
「今の奥様なら、大丈夫でしょう。それにいざとなれば、すぐ隣に『特効薬』がいますしね」
「…………っ」
レイスの言葉に、フェリクスは言葉を詰まらせ、耳まで真っ赤に染めた。
特効薬――すなわち何かあれば、魔力過多の自分自身をシンシアに食べさせることで、彼女を癒やせと言っているのだ。
「それでは、お邪魔虫は退散するとします。……お幸せに、旦那様」
レイスは茶目っ気たっぷりにウインクをすると、トランクケースを手に立ち上がった。
軽口を叩きながら部屋を出ていく親友を見送ったフェリクスは、再び静寂が戻った部屋でふっと息を吐いた。
そしてベッドの脇に歩み寄り、安らかな寝息を立てるシンシアを静かに見下ろした。
全てを凍てつかせ、人を傷つけることしかできない。そんな氷の魔力を抑えるため、フェリクスは普段から自分を律して無表情を貫いてきた。
だが――この過剰な魔力さえも、シンシアは笑顔で受け入れてくれた。
フェリクスは張り詰めていた糸を解くように、ふ、と小さく口元を緩める。
「……最高の奥様、か」
シンシアの前ではもう、仮面を被る必要はないのかもしれない。
誰に聞かせるでもなくぽつりとこぼしたその言葉は、夜の静寂に優しく溶けていった。










