第26話 偽装悪女は宝物を手に入れる②
ガタンッ! という衝撃が走り、シンシアの身体が前へと放り出される。
「……っ!」
シンシアから短い悲鳴が漏れた時――
「危ない!」
フェリクスが咄嗟に腕を伸ばし、飛び込んできたシンシアの体をガッチリと受け止めた。
ドサッ、と鈍い音がして――世界が止まる。
衝撃に備えてぎゅっと瞑っていた目を開けると、至近距離にフェリクスの端正な顔があった。
シンシアはフェリクスの逞しい腕の中に閉じ込められ、彼の広い胸板に押し付けられる形で抱き留められていたのだ。
互いの呼吸がかかるほどの距離。重なる体温。
そして、ドクンドクンと服越しに伝わってくる、早鐘のような心音。
「……あ」
状況を理解した瞬間、フェリクスの端正な顔が、耳まで瞬時に真っ赤に染まるのをシンシアは見た。
「す、すまない! その、怪我はな……っ⁉」
慌てて安否を確認しようとしていたフェリクスの視線が、ふと一点で凍りついた。
なぜ言葉が途切れたのか。シンシアは疑問に思い、彼の視線の先を辿る。
――そして、ハッと息を呑んだ。
そこにあるのは、シンシアの無防備な胸元だ。
今、自身が纏っているのは『悪女』を演じるための扇情的な黒いドレス。大胆にカットされた胸元は、上から見下ろされるこの角度では、あまりにも無防備だ。
黒い布地と白磁の肌の対比、そしてフェリクスの腕に支えられたことで強調された柔らかな曲線が、彼の目の前に晒されているのだと気づいてしまった。
確かに、フェリクスが頑として許可をくれなかった場合、最終手段として「色仕掛け」を用いる覚悟はしていた。そのために、わざわざこのドレスを選んだのだから。
けれど――いざ彼の腕の中に閉じ込められ、至近距離で熱い視線を浴びせられるのは、シンシアにとって完全に想定外だった。
「…………っ!」
フェリクスが何か致命的なものを見てしまったかのように、喉をひきつらせて硬直する。
そこには、普段の冷徹な『白夜公』の影は微塵もなかった。
ただ羞恥と焦燥に瞳を泳がせる、年相応の一人の男の顔があるだけだ。
その顔が、先ほどとは比べ物にならないほど赤熱し、限界を迎えた次の瞬間――。
――ピキィンッ!
耳をつんざくような硬質な破砕音と共に、フェリクスの体から凄まじい冷気が放出した。
シンシアを、あるいはフェリクス自身を、無理やり冷却して律しようとするかのように――。
主を惑わせる『元凶』を、その熱狂ごと凍てつかせようとする氷の魔力が、車内を一瞬にして白く染め上げる。制御を失った冷気は鋭い氷の刃となり、逃げ場のない車内でこちらへと降り注いだ。
(まさか、魔力の暴走……⁉)
咄嗟にシンシアが身構えたその時、左手に刻まれた【暴食】の刻印がフェリクスの魔力に呼応するように、ドクンと大きく脈打った。
脳髄を痺れさせるような、強烈で、どうしようもない渇望に苛まれるように、刻印が熱く疼いている。
それは今すぐ喰らわねば、焦がれて死んでしまいそうな本能的な欲求だった。
シンシアはニヤリと好戦的な笑みを浮かべ、暴れ出す本能のまま心の中で命じた。
(――飢えたる『悪食』よ、極上の饗宴を喰らいつくせ)
馬車の中で、漆黒の闇と輝く氷がまるで輪舞曲を踊るように、妖艶に絡み合い、溶け合っていく。
鋭く尖っていたはずの氷の刃は、闇に触れた端からジュワリと弾け、甘い光の粒となってシンシアの中へ吸い込まれていった。
その瞬間、シンシアの全身を駆け巡ったのは――驚くほど甘く、清涼な幸福感だった。
(なに、これ……甘い)
それはいつも喰らわされていた、ドス黒い汚泥のような不味さや、体内をズタズタにする激痛とは全く違っていた。
(懐かしい……まるで、お母様と訓練した日々みたい――)
『シンシア、今日はこの酸っぱいレモンパイを吸い取ってみて』
『上手よ。じゃあ次は、この冷たくて甘いソルベに挑戦しましょうか』
テーブルに並べられた、色とりどりの菓子。シンシアがうまく悪食の制御が出来るように、母はそうやって、吸い取る対象やスキルの力加減を美味しい『味』の感覚の違いで覚えさせてくれた。
あの時の、甘くて優しい幸福な記憶が鮮明に蘇る。
フェリクスの魔力はまるで、上質な果実を絞った氷菓子のように爽やかで、とろけるような甘美な感覚だった。
「ん……っ……」
あまりの心地よさに、シンシアは熱っぽい吐息を漏らし、トロンとした瞳で目の前の『ご馳走』を見つめた。
「シ、シンシア……? 大丈夫か⁉ 痛みは、怪我はないか……⁉」
「……おいしい」
「え?」
自分のせいでヴィスデロペを使わせてしまったと焦るフェリクスとは対照的に――。
「もっと……もっといただけますか?」
シンシアはうっとりと頬を染め、もっと寄越せと身を擦り寄せる。
そんなシンシアを見て、フェリクスはさらに顔を赤くしてフリーズしてしまった。
けれど、シンシアのおねだりはそこまでだった。
極上の『氷菓子』でお腹がいっぱいになった幸福感と、フェリクスの体温に包まれている安心感が、一気に睡魔となって押し寄せてきたのだ。
(ああ……なんだか、ポカポカする……しあわせ……)
張り詰めていた緊張の糸が切れ、まどろみが思考を塗りつぶしていく。
耳元で聞こえるフェリクスの早鐘のような心音さえも、今のシンシアには心地よい子守唄のようだった。
「……んぅ……」
シンシアは猫のように一つあくびを噛み殺すと、フェリクスの胸にコテンと頭を預け――そのまま、安らかな寝息を立て始めた。










