第21話 偽装悪女は覚悟を決める
遡ること数年前。
フォレスト子爵家の地下室で、シンシアがその日処分を命じられたのは、どろりとした暗紫色の廃液だった。
それは最高級の絹糸に黒魔法を定着させた後に出る、誰かを廃するための呪いが濃縮された汚染水だ。
その中でも、生き物から生命力を奪う触媒として使われた後の廃液は、特に人体への影響が酷かった。
闇の魔素に変換して吸い込んでも、身体に有害であればあるほど中和に時間がかかり、痛みは長引く。時には身体に変調をもたらすこともあった。
(……あれを処理した後は、いつも地獄だった)
煮えたぎる油泥と腐った肉を煮詰めたような、吐き気を催す強烈なえぐみと苦味が脳髄に広がる。
そして指先から、腕を伝って心臓へ這い上がるように浮かぶ、真っ黒な血管。そこへ沸騰した油泥を血管に流し込まれたかのように、焼けるような熱が全身を駆け巡る。内側から体内を焼かれるような高熱に、しばらく苛まれた。
(高熱と黒い血管の筋が浮かび上がるなんて、症状があまりにも酷似している)
合理的なグスタフが、危険な廃液をそのままどこかへ流すなんて、証拠が残る愚行はおそらくしないはずだ。そんなことをすれば、すぐに足がつく。
けれど、人里離れた目立たない場所になら……と考えて、恐る恐る、シンシアは尋ねた。
「ニナの故郷は、どこにあるの?」
「北嶺の北斜面の麓にある、ペルカ村です」
マリアの言葉を聞いて、シンシアの背筋にぞっと悪寒が走る。
王都の北方はシンシアの母の生家、ヴェイン伯爵家が治めている地だ。
そして北嶺の北側には、山荘を含む広大な私有地がある。
そこはかつて、シンシアの母が子爵家に嫁いだ際に、持参金として贈与した土地だ。
(お父様は、日当たりが悪く作物もまともに育たぬ不毛な土地だと、いつも馬鹿にしていた)
しかし北嶺の北側は山頂に遮られた死角だ。
鬱蒼と生い茂る針葉樹の森は、監視の目が入りづらく、隠蔽工作をするには適した土地でもあった。
(廃棄処理に困ったお父様が、あの山地に廃水を捨てた可能性がある)
さすがにある程度処置をして、地中に埋めるなど、隠蔽工作をしたはずだ。
それが予想外の大雨に見舞われ、土砂崩れの影響で表に漏れてしまったのだとしたら――。
(まったく、どこまでお母様の名誉を穢せば、気が済むのかしら……っ!)
山荘へは馬車が通る林道が整備されていて、幼いシンシアはよく、母と一緒に足を運んでいた。
木漏れ日が揺れる車窓の景色を眺めながら、そのなだらかな上り坂を馬車で登る時間は、まるで冒険のようでわくわくした。
隠れ家のような山荘でピクニックをして、母と一緒に楽しくヴィスデロペの制御訓練をした――そこはシンシアにとって、大切な思い出の場所でもある。
「シンシア様? 顔色が……」
マリアが心配そうに、顔を覗き込んでくる。
シンシアは怒りで震える指先を隠すように、膝の上で拳を強く握りしめた。
(ニナは、家族のために頑張って働いていた)
セレスティの花束を処分するよう命令した時、嬉しそうに顔を輝かせていたニナの姿が脳裏によぎる。
あの時ニナは、肺を患っている母の部屋に飾りたいと言っていた。
肺を患う母と幼い弟。抵抗力のない彼等にとって、あの地獄のような苦しみは、きっと耐え難いものだ。
最愛の母を理不尽に奪われる苦しみを知っているシンシアは、そんな苦しみをニナに味わってほしくなかった。
(このまま放っておけないわ。でも、今の私には……)
母が処刑され、悪評を流されてから、ヴェイン伯爵家との縁も切れてしまった。悪女の汚名を着せられた、信頼がないシンシアがヴェイン伯爵家に支援を求めても、門前払いされるのが関の山だろう。
それに今は、一刻を争う事態だ。
シンシアは、ドレスの腰帯から銀のチェーンで吊り下げられた、繊細なレースがあしらわれたエチケットポーチに指をかけた。
そこにはレイスにもらった中和剤と一緒に、大事な亡命の資金源である『深海の涙』が入っている。
シンシアはいざという時のために、それを肌身離さず持ち歩いていた。
(これを失えば、亡命計画は白紙に戻る。……けれど、お母様ならきっと、迷わずこうするわよね)
「マリア。その花束、一度そこへ置きなさい」
テーブルに花束を置くよう指示すると、マリアは言われるがまま、そっと優しくテーブルの端に花束を横たえた。
シンシアはポーチの奥から、冷たい重みを放つ小箱を取り出した。
そして逃さないように、マリアの片手にその小箱をぎゅっと押し付ける。両手で包み込むようにして。
「これを持って、今すぐニナのところへ行きなさい」
シンシアの指先の震えを感じ取ったのか、マリアは困惑したように、押し付けられた小箱とシンシアの顔を交互に見る。
「で、ですがこちらは、シンシア様がいつも大切にされていたものでは……?」
「飽きたのよ、そんな石。だからそれを売って、最高級の医者と薬を揃えなさい。これは命令よ」
突き放すように、シンシアは両手を離し、そっぽを向く。
「……っ、ありがとうございます、シンシア様! 必ず、必ずニナに伝えます!」
意味を理解したマリアは、目の端に滲む涙を拭い、小箱を抱えて弾かれたようにサンルームを飛び出そうとする。
その背中に、シンシアは鋭い声を浴びせた。
「待ちなさい、マリア!」
「は、はい⁉」
「貴女一人じゃ、心許ないわ。……カイル!」
シンシアが扉に向かって名を呼ぶと、廊下で警備にあたっていた護衛騎士のカイルが急いで入室してきた。
「はっ! 何か御用でしょうか?」
「マリアが私の使いで出かけるわ。護衛しなさい」
唐突な命令に、カイルは困惑した様子で目を瞬かせる。
「ですが、私の任務は奥様の護衛で……」
「この離宮には、他にも騎士がいるでしょう? マリアが持っているものは、私にとって『命』の次に大事なものよ。もし途中で暴漢にでも襲われて紛失でもしようものなら、怒りでこの離宮ごと、貴方の真面目な顔も溶かしてしまうかもしれないわ」
シンシアは脅すように左手の甲に刻まれた暴食の刻印を撫でると、カイルを睨みつけて不敵に笑う。おとなしく命令に従いなさいと。
それは『マリアを守れ』という懇願ではなく、『私の財産を守れ』という、いかにも傲慢な悪女の命令に聞こえたはずだ。
「……承知いたしました。責任を持って、護衛いたします」
「ええ。馬車を使いなさい。そして一刻も早く任務を完遂しなさい」
カイルは一礼すると、目の端に涙を滲ませるマリアを促して、駆け出していった。
アイゼン公爵家の騎士が同行すれば、道中の安全はもちろん、高額な宝石の換金や医師の手配もスムーズに行くだろう。
(……これで、最低限の手は打ったわ)
静まり返ったサンルームに、残された黒い薔薇から冷たく甘い香りが立ち上る。
シンシアは自身の滾る熱を逃がすように、ポーチに残された、冷たい薬瓶にそっと触れた。
(でもこれは、あくまでも一時凌ぎに過ぎない。大地を蝕む根源を除去しない限り、ペルカ村の人たちは助からないだろう)
自由も、未来も、たった今自分の持つすべてを使い切った。
だけどそんな喪失感よりも、胸の奥では激しい怒りが渦巻いていた。
(私はただ、自分が逃げることしか考えていなかった。でもそれは、お父様の悪事を見てみぬふりをして、悪事に加担していたのと一緒だわ)
自分の無力さを突きつけられ、それでも逃げることだけを出口にしていた自分への嫌悪。その罪悪感が、シンシアの心を締め付ける。
逃げ道なんて、もういらない。
今優先すべきことは、これ以上犠牲を出さないことだ。
(そのために必要なのは、私を縛るこの『指輪』さえも、目的を果たす道具に変える強さ……)
信用のない悪女がグスタフの悪事を告発しても、信じてもらえない。
でも監視の目は、見方を変えれば「証人」の目になる。
フェリクスをペルカ村に連れていき、グスタフの悪事を白日のもとに晒す。
そして人々を苦しめる悪の根元を、この身ですべて受け止める。
それが傍観者だった自分にできる、唯一の贖罪だ。










