第2話 偽装悪女の逃亡計画①
五年後、シンシアは十八歳になっていた。
(あと一回、あと一回だけ悪女を演じれば……亡命資金が貯まる。これであの地獄のような家を出て、自由になれる)
緊張で潰れそうになる胸を押さえて呼吸を整えたシンシアは、悪女の仮面を被り、失敗の許されない最後の戦場へと足を踏み出した。
セイン王国の建国を祝うパーティー会場。自由な歓談タイムを迎え、和やかな空気に包まれていた場が、シンシアの登場で一変する。
「まぁ、こんな時間にいらっしゃるなんて、非常識だわ」
「我儘な厄災の悪女様だもの、常識なんて頭にないのよ」
「どうせまた、陛下におねだりに来たんでしょ。なんてあつかましいのかしら」
こちらに向けられる冷たい視線に、罵詈雑言でざわめく会場はいつものこと。むしろ演技がうまくいっている証拠だと、シンシアは冷静に捉える。
悪女らしくシンシアが口角を上げて会場を一瞥すると、面白いくらいにぴたりと陰口は止んだ。
七つの大罪の一つ、暴食の厄災を背負って生まれたフォレスト子爵令嬢シンシアは、なんでも喰らい尽くす恐ろしいスキル、悪食の能力を持っている。
シンシアはその恐ろしい能力を盾にして、贅を貪り我儘の限りを尽くす――【希代の悪女】として、社交界では忌み嫌われていた。
無下に扱い恨みを買えば、その厄災は国内全土に災いをもたらす。
過去にそういう事件が実際に起こっており、とばっちりを恐れた貴族たちは、面と向かってシンシアに苦言を呈することができなかった。
(まずは挨拶の順番を無視して、陛下に話しかける。そしてお父様に言われた宝石を、おねだりする)
父親のフォレスト子爵に命じられた自分のやるべきことを、シンシアは頭に叩き込む。
そしてピンと背筋を伸ばし、堂々とした足取りで会場を分かつように、真っ直ぐと国王のもとへ足を進める。
巨大なシャンデリアが、スポットライトのようにシンシアを照らしていた。
波打つ漆黒の長髪をなびかせるシンシアは、ルビーのように煌めく赤い瞳に映える、派手な真紅のシルクドレスを身に纏っている。
歩くたびに、スカートに施されたレースのパール飾りが揺れ、その煌めきがシンシアのしなやかな曲線美を際立たせた。
白い首筋では豪華な大粒のダイヤモンドのネックレスが輝き、優雅に動く手首はパールとリボン飾りのあしらわれた、上質なサテンの黒いショートグローブに覆われている。
外出の時だけは、シンシアには絢爛豪華な装飾品と衣装が与えられる。それは贅の限りを尽くすフォレスト子爵が、己の金儲けのためにシンシアに被せた悪女の仮面が、決して剥がれることのないようにするためだった。
そんな会場を優雅に歩く妖艶な悪女の姿に、周囲の視線は自然と引き付けられていた。
しかし国王への挨拶に並ぶ貴族たちを無視するシンシアの非常識な行動に、たった一人、声をかけてくる者がいた。
「お待ちください、シンシアお姉様!」
義妹コーデリアに両手で左腕を掴まれ、シンシアの身体は反射的に強張り硬直する。
振り返ると視線が合った瞬間、コーデリアの華奢な肩がびくりと震えた。サラサラとした白金色の髪からのぞく、陶磁器のように白い肌。大きな翡翠色の瞳は潤んでおり、その顔は今にも泣き出しそうだった。
「どうか、順番はお守りください……っ」
小さな唇をわなわなと震えさせながら、質素なドレスに身を包んだコーデリアが必死に言葉を紡いで懇願してくる。
【百合】にたとえられる、清楚で庇護欲をそそるコーデリアの可憐な容姿は、【毒花】と揶揄されるシンシアの妖艶な容姿とは真逆だった。
コーデリアの完璧な演技に圧倒されていたシンシアは、「……ほら。せっかく『輝ける場所』を、用意して差し上げましたのに」という恐ろしい悪魔の囁きに、自分の役目を思い出す。
「そんなもの、わたくしには関係ないわ。この手を離しなさい」
シンシアが慌てて手を振り払うと、コーデリアは短い悲鳴を上げてその場に倒れた。その顔には、姉に拒絶された悲しみと、注目を集めたことへの微かな陶酔が滲んでいる。
「大丈夫ですか⁉ コーデリア嬢!」
令息たちが駆け寄ると、コーデリアは目の端に涙を浮かべながら顔を上げた。
「どうか、お姉様を責めないでください! お姉様は……心の成長が追いついていないだけなんです。私がもっと、しっかり支えて差し上げていれば……」
ああ、なんて優しい方なんだ! と、周囲の称賛を浴びて、コーデリアの瞳の奥は、恍惚としていた。
家族の助言さえ聞かない悪女の印象づけは、これで完璧だ。けれどもし、コーデリアに少しでも傷ができていたら、あとでどんな折檻を受けることか……と想像して、シンシアは身震いする。
思わずその場に立ち尽くすシンシアに、一段と冷ややかな視線が突き刺さる。
『観客を待たせるな。さっさと役割を果たせ』
まるで舞台裏で役者を管理する演出家のような、感情のない無機質な眼差し。それは、フォレスト子爵の視線だった。
(そうよ、失敗は許されない……今は演技に集中しなければ)
振り返ることなく、シンシアは再び国王の元へ足を進める。そして順番を無視して、国王へ話しかける。
「王国の聖なる太陽、カイン陛下にご挨拶申し上げます」
淑女らしく流れるような所作でカーテシーをするシンシアに、挨拶の列を取り締まっていた国王の侍従が、建前上の注意を促す。
「フォレスト子爵令嬢、どうか順番はお守りください」
「わたくし、待たされると左手が疼いて仕方ないの。耐えきれずに誤って、会場の皆さんをヴィスデロペで呑みこんじゃったら、困るでしょ?」
シンシアの左手には、【悪食】のスキルを発動する刻印が刻まれている。
微笑みを浮かべてシンシアがわざとらしく左手の甲を撫でると、会場からは「ひぃ……っ!」と悲鳴が漏れる。
「これシンシア、あまり脅してやるでない」
「ごめんなさい、陛下。実はまた欲しいものがあって、深海の涙って宝石を取り寄せてくださらない?」
【悪食】の脅威を示しながら、適度に敬語を崩して、なれなれしくおねだりする。フォレスト子爵に命じられた任務を、シンシアは着実にこなしていた。
「わかった。用意するから、家で大人しく待っていなさい」
会場で暴れられるより、欲しいものを与えて屋敷で大人しくさせておく方がいい。国王さえもそういう態度のため、この場でそれ以上シンシアに苦言を呈する者はいなかった。
「ふふっ、ありがとうございます。それでは、失礼いたしますわ」
国王に敬意を込めて優雅にカーテシーをして、颯爽とした足取りで、シンシアは会場をあとにした。
(ここからは、時間との勝負ね。どうせお父様たちは陛下に謝罪しながら、私が家でどれほど我儘か訴えて同情を誘い、厄災の悪女の特別管理金の値上げ交渉をするだろう)
馬車に乗り込み急いで帰宅したシンシアは、急いで自室に戻って豪華な真紅のドレスを脱ぎ、質素な普段着のワンピースに着替えた。
そして裁縫箱から糸切りばさみを取り出すと、ドレスに装飾として縫い付けられた、小さなパールを留めている糸を慎重に切っていく。
寒さでかじかむ手を時折暖炉で温めて、シンシアは黙々と作業に没頭した。
我儘な悪女は、一度身に付けたドレスは二度と着ない。噂ではそう誇張されているため、明日にはこのドレスや装飾品は回収され、闇市にまわされてしまうだろう。
その前に、ばれない程度に少量ずつ慎重に飾りの宝石を間引いて回収し、売却する。
悪女を演じさせられる度に、シンシアはこうして亡命資金を貯めていた。
「これくらいあれば、充分ね」
シンシアが集めたパールを布袋に収納していると、「何が充分なのですか?」と背後から恐ろしい声が聞こえた。
振り返ると、なぜか予想よりも早く帰宅したコーデリアが、にっこりと口角を上げて立っていた。










