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「狂気(リアル)は霧の彼方に、手の中にあるはずの刃」(2)

屋外は日差しが明るく、朝の微風が少しの涼しさを運んでいる。 だが、敷居を跨いだばかりのエドは、猛然と足を止めた。


(……?)


彼は無意識に頬に触れた。 生温かい、湿った感触が、薄い服を通して全身を覆っている。 まるで見えない大きな手が、蒸しタオルを持って、優しく、丁寧に自分の体を拭いているかのように。


(なに……この感じ?)

風の中にいるはずなのに、肌に伝わるのは「生温かさ」。 服を着ているはずなのに、感覚としては「裸」だ。


『……エド……』


恍惚とする中。 一つの声が分厚い霧を突き抜け、脳の奥底で直接響いた。 優しく、焦燥に満ちた、どこまでも聞き覚えのある声。


(誰だ……?)

(誰かが……僕を呼んでる?)


エドは力強く自分の頬を叩き、この深刻な感覚のズレを追い払おうとした。 そして、左の手首を癖のように強く振る――。 これは幼い頃からの彼の癖だ。イライラしたり困惑したりした時は、いつもこうして左手を振れば、粘りつく悪い感情を水滴のように振り払える気がしていた。


「……まあいい」

この奇妙でリアルな感触の正体はわからない。 だが今は、ハナたちの状況を確認する方が先だ。

エドは深く息を吸い込み、皮膚にまとわりつく違和感を無視した。 彼は足を踏み出し、村の東にある少し大きな木造の家へと駆け出した。


◇◆◇


トントン、トン。


「ハナ? いるの?」


コン、コン、コン。


「ハナ! 僕だ、エドだ!」

返事はない。 指の関節が乾いた木板を叩く音だけが、死んだような空気の中に虚しく吸い込まれていく。


(……いないのか?)


エドは目を細め、粗末なドアに掌を当てた。 探るように、少しだけ力を込める――。


ギィィ……。


歯の根が浮くような、神経を逆撫でする摩擦音。 ドアは抵抗もなく、虚ろにスライドして開いた。


(鍵が、かかってない?)


開いた隙間から覗くのは、ネットリとした、澱んだ闇だった。

真昼だというのに、室内の光は何かに喰われたかのように異様に暗い。 舞い上がる埃、鼻をつくカビの臭い。そして……言いようのない、生温かい獣のような生臭さ。


エドは入り口で硬直し、本能的に息を殺した。


静かすぎる……。

それは単なる無人の静けさではない。何かがこの暗闇の奥に潜み、侵入者をじっと窺っているような気配だ。


彼は体を横に向け、捕食者を警戒する野良猫のように、張り詰めた足取りで屋内へと滑り込む。 一歩踏み出すたび、古い床板がミシミシと微かな悲鳴を上げ、その一つ一つが心臓を直接叩くようだった。


キッチンの前を通り過ぎようとした時、視界の隅で冷たい光が走った――。 まな板の上に、無造作に置かれた鋭い包丁。

エドの足が止まる。 喉仏が、ゴクリと乾いた音を立てて上下した。


(……持って行くべきか?)


彼はその場に立ち尽くし、一瞬だけ躊躇った。 ここの空気はあまりに粘りつくようで、吐き気がするほど重苦しい。生理的な不快感が、彼の警鐘を乱打している。

せめてもの気休めにでもなればいい。 彼はキッチンへ入り、冷たい柄に指を這わせると、それを逆手に持って背中へ隠し、再び奥へと進んだ。



フッ……ハッ……フッ……ハッ……。


微かだが、重苦しい呼吸音が廊下の突き当たりから聞こえてくる。



(あれは……ハナの寝室?)

エドは唾を飲み込み、音を頼りに、半開きのドアへと一歩ずつ近づく。 震える指先で隙間を押し広げ、中を覗き込んだ。

薄暗い部屋の中、小さな木製ベッドの上に、小柄な人影が丸まっていた。 入り口に背を向けて横たわっている。体にかかった薄い掛布団は、激しい呼吸に合わせて大きく波打っていた。 汗で濡れた乱れ髪が、蒼白な首筋にべったりと張り付いている。



(……あぁ)

(やっぱり、タリア姉さんの言う通り、熱があるんだ)


見慣れた姿を確認し、極限まで張り詰めていた糸が、プツリと切れた。 警戒心は消え、心配が胸いっぱいに広がる。 彼はドアを開け、足早にベッドへ向かった。


「ハナ! 大丈夫か?」

ベッドサイドに立ち、弱り切ったその肩に手を伸ばす。 指先に触れたパジャマはぐっしょりと濡れていて、まるで死体のように冷たかった。


「具合は――」


少し力を込め、その小さな体を仰向けにさせる。

だが。その「正面」を目にした瞬間、エドの瞳孔は針の穴のように収縮した。


「――ッ!?」


顔がない。 愛らしいはずのその顔が……存在しない。

代わりにあるのは、白く滑らかな、目鼻立ちの一切ない肉の板だけ。 そして――。


メリメリメリッ!


肉が裂ける不快な音と共に、その肉板の中央に走った漆黒の亀裂が狂ったように蠢き、裂け、一瞬にして耳元まで広がった!



「ッ!――」

悲鳴が喉で凍り付くより早く――。


ヒュッ!


蒼白な両手が亡霊のように伸び、エドの細い首を死に物狂いで締め上げた!


「カハッ……うぐっ……!」

気道が一瞬で塞がれる。 凄まじい怪力が彼を宙吊りにし、両足が無力に空を掻く。


「エ……ド……お……兄……ちゃん……ヒヒッ……」

裂けた大口から、ハナと全く同じ声に、隙間風のような音が混じった不気味な童声が響く。


「行か……ない……で……」


「遊ぼうよ……ハナと……一緒に……ヒヒッ……」

爪が肉に食い込み、焼けるような痛みが走る。 エドは鉄の万力のような腕を必死に剥がそうとするが、そこには絶望的なまでの力の差があった。


「あ……が……ガ……ッ……」

視界が黒い斑点に覆われ始め、肺が火がついたように痛む。 酸欠で意識が急速に遠のき、恐怖という名の黒い潮が、すべてを飲み込もうとしていた。


その時。 暴れる体が、背後に隠していた「異物」に当たり、硬い感触が背骨を圧迫した。

痛み。 それが稲妻のように、混沌とした意識を切り裂いた。


ナイフ! ……まだ、ナイフがある!


絶境で爆発した生存本能が、彼に最後の力を振り絞らせる。手は背後へと回った。 掌に落ちる、冷たい死の感触。


ドスッ!


「ギャアアアアアア————!!!」


怪物が、この世のものとは思えない凄惨な悲鳴を上げた! 首を絞めていた手が弾かれたように緩み、それは刃物に貫かれた顔面を押さえ、ベッドの上を転げ回る。


ドサッ!――


「はっ……ゴホッ! カハッ!」


エドは床に落ち、貪るように空気を吸い込んだ。 空気が肺に流れ込むたび、焼けるような劇痛をもたらす。

ベッドの上では、怪物が耳をつんざくような悲鳴を上げ、人外の躯体をねじらせて悶え苦しんでいる。

恐怖。憤怒。そして絶望。 エドは手にした包丁を強く、白くなるほど握りしめた。 なぜハナがこんな姿になったのか、彼にはわからない。 ただ一つわかるのは……殺さなければ、自分が殺されるということだけ!


「アアアアアアッ!!!」

彼は咆哮した。狂った幼狼のように、ベッドの上の怪物へと飛びかかる。



ザシュッ。抜いて、刺す。


ザシュッ。


抜いて、刺す。


ザシュッ!


ザシュッ!


ザシュッ!


......


生温かい粘着質の液体が顔に飛び散り、視界を赤く染める。 それは積もりに積もった恐怖を解放するため、そして胸の内の不安を塗り潰すため。 彼は機械のように、目の前の悪夢を刺し続けた。


どれくらいの時間が経ったのか。 身の下の物体が完全に動かなくなり、あの凄惨な悲鳴が、死のような静寂に変わるまで。 エドの狂乱した腕は、ようやくゆっくりと動きを止めた。


「……はぁ……はぁ……はぁ……」

彼はヌルヌルと滑る柄を握りしめ、激しく上下する胸で、心臓の早鐘を聞いていた。 目の前の赤い幕が徐々に薄れ、理性が少しずつ脳に戻ってくる。


「……え?」

呆然と、瞬きをした。


目の前に、裂けた大口はない。 白く滑らかな肉の板もない。

血だまりの中に横たわっているのは……ごく普通の、彼のよく知るハナだった。

ただ、その華奢な体はすでに原形を留めぬほど損壊し、無数の刺し傷で覆われている。 いつも輝いていた大きな瞳は、今は虚ろに見開かれ、死んでもなお、エドをじっと、じっと見つめていた。


「……!!!」


「あ……あぁ……」


エドの唇が激しく震え、喉から壊れたような、意味を成さない呻きが漏れる。 彼は慌ててベッドから転がり落ち、よろめきながら後退り、背中が冷たい壁にぶつかるまで止まらなかった。


血に塗れた、自分の両手を見る。 ベッドの上の、壊れた小さな死体を見る。


「アアアアアアアアア————!!!」


引き裂かれるような絶叫が、死寂に包まれた家屋を貫いた。


彼は死んでも閉じないその目から逃れるように、そして何より―― 自らの手で作り出したこの地獄から逃れるように、転がるようにして部屋を飛び出した。



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