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「狂気(リアル)は霧の彼方に、手の中にあるはずの刃」(1)

「――はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」


カバッ、と。 エドは弾かれたようにベッドから上半身を跳ね起こした。

肺が鞴のように激しく収縮し、酸素を貪る。 その感覚はまるで、深海の底から命からがら水面へ浮上したかのような、切迫した絶望感に似ていた。


寝巻はすでに、冷や汗でぐっしょりと濡れている。

背中にへばりつく布地の不快感が、骨の髄まで染み込むような寒気を呼び起こす。


(光……?)


ガラス越しに容赦なく降り注ぐ朝日が、まだ悪夢の残滓――あの『血の色』を焼き付けたままの網膜を刺す。

彼は反射的に手をかざし、その眩しさを遮った。


トントン、トン――。


トントントン――。


軽快でリズムの良い包丁の音が、閉まりきっていないドアの隙間から滑り込んでくる。

それに続いて鼻をくすぐるのは、肉をじっくりと煮込む、食欲をそそる暖かな香り。


(……この匂い……)


(……家?)


早鐘を打っていた心臓が、ようやく少しずつ落ち着きを取り戻していく。

エドは手を下ろし、呆然と周囲を見回した。

古びているが清潔な木目、光の柱の中で舞う塵、そして何より安心できる生活の匂い。

ここは間違いなく、俺の家。タリア姉さんの小屋だ。


(……夢……か?)

額に触れると、指先に冷たい汗が移る。

だが、さっきの感触…… あののっぺらぼうの怪物に喉を死ぬほど締め上げられ、軟骨がミシミシと擦れ合うような窒息感。

あれが、本当に……単なる夢だったというのか?



ガチャリ――。

ドアノブが回り、扉がそっと押し開けられる。




「エドちゃ~ん、起きて。朝ご飯できたわよ~」

逆光の中、見慣れた人影が洗面器を持って入ってきた。

その声は軽やかで、朝特有の気だるげな優しさを帯びている。


「タリア……姉さん?」

見慣れたはずの笑顔を目にした、その瞬間。喉の奥で、締め付けられるような幻痛が走った。

思考よりも早く、身体の芯が拒絶した。

エドは本能的に息を呑み、ビクッ、とベッドの隅へと身を縮めた。


「あら? すごい汗ね」

い、タリアは彼の一瞬の硬直に気づいていないようだ。

彼女は微かに眉を寄せ、洗面器を置くと、足早にベッドサイドへ歩み寄る。


「顔色も悪いわ……昨日の夜、布団蹴っ飛ばして冷えたのかしら?」


「え……?」

エドが混乱した思考から立ち直る間もなく――。


トン。


不意打ちだった。

滑らかな額が、何の前触れもなく押し付けられたのだ。

距離が、ゼロになる。

淡い薬草の香り、そして少女特有の甘い匂いが混ざり合い、暴力的なまでに嗅覚を支配する。


「……ッ!」

接点から温かな体温が炸裂し、昨夜の寒さを洗い流していく。

張り詰めていた警戒心は、この目眩がするほどの温もりによって、彼方の空へと吹き飛ばされた。

視界に残るのは、至近距離にある、慌てふためく自分を映した明るい瞳だけ。


「ん……熱はないみたいね」

タリアは悪戯っぽく笑って身を引くと、その瞳にからかうような光を宿らせた。

「もしかしてぇ……お姉ちゃんに看病してほしくて、仮病使った?」


「あ……いや……その……ち、違う……ッ!」


カァァッ――。

ボンッ、と音がしそうなほど、全身の血が頭に上っていく。

エドは口をパクパクさせ、しどろもどろになりながら、まともな言葉を紡げない。


「ぷっ」

そんな手足の強張ったウブな様子を見て、タリアは堪えきれず吹き出した。

細い指を曲げ、その広いおでこに狙いを定めると――。



パチン。

軽快な音が一つ。

痛くはない。むしろ、むず痒いほどの愛しさがこもったデコピン。


「エッチな子。その小さな頭で、四六時中なに考えてんのよ」

「早く顔洗って、ご飯にするわよ!」

そう言うと、彼女は名もなき鼻歌を口ずさみながら背を向け、軽やかな後ろ姿と、残り香だけを置いて部屋を出て行った。



「あ……う、うん!――」


足音が遠ざかってから、エドはようやく間抜けな返事をした。

無意識に手を伸ばし、弾かれたばかりの額を押さえる。

指先に伝わってくるのは、確かな温もりの残滓。


「……あの感じ、やっぱり……ただの悪夢だったんだ……」

彼は自分自身に言い聞かせるように、誰もいない部屋で小さく呟いた。


身支度を整え、エドは大人しく食卓についた。

目の前に並んでいるのは、焼きたてのパン、縁がカリッと焦げたベーコン、そして―― 湯気を立てる、とろりと濃厚な色合いの肉スープ。

エドはスプーンを手に取り、そっと一口、口に運んだ。


(……ん~)


豊かな香りが舌の上でほどける。 それは数年来、一日たりとも変わることのない、タリア姉さんだけの味。


「……?」

飲み込むより早く、突然、視界が滲んだ。 何の予兆もなく目頭が熱くなり、喉の奥に水を含んだ綿を詰め込まれたかのような、たまらない酸っぱさが込み上げてくる。


(おかしい……僕、どうしちゃったんだ……?)


姉さんは目の前に座って、微笑みながらパンを小さくちぎっている。 これはごく普通の、毎日繰り返される日常のはずなのに。

けれど、この馴染み深い味が喉を通る時、心臓は見えない手で強く握り潰されたかのように痛んだ。 言葉にできない悲しみと愛しさが、味蕾の満足感と共に、脳内で暴れ回る。


「……なんか」

エドは慌てて瞬きをし、わけのわからない泣き出しそうな衝動を押し込めた。 スプーンを置くと、柄が皿の底に当たり、チン、と澄んだ音を立てる。

「……今日の朝、村……静かすぎない?」


「ん? 何が?」

タリアは軽快な鼻歌を口ずさみながら、手際よく空になった皿を片付けている。


「だって……」エドは窓の外に目を向け、眉をひそめた。


「いつもならこの時間は、隣のメイおばさんが薪を割ってるはずだよ……あの『ガツン、ガツン』って音が、今日はしない」

「それに、ハナたちだって。いつもならとっくに木の下に集まって、『騎士ごっこ』だとか言って木の枝を振り回して、うるさいくらいなのに……」

けれど、今日は。

外は死んだように静まり返り、犬の鳴き声ひとつしない。 まるで世界全体が息を潜め、この小屋だけが生き残っているかのような静けさだ。


「ああ、そのこと」

タリアは食器を抱えてキッチンへ入っていく。

蛇口がひねられ、ザーザーという水音が、彼女の口調に含まれる僅かな無関心を覆い隠した。


「昨日は天気が良すぎたから、あの子たち、川辺ではしゃぎすぎちゃったのよ。たぶん、みんな風邪引いちゃったんじゃない? やっぱり子供だもの、体は弱いわ」


「エドちゃんが心配なら……先に行って見てきたら? 私、お皿洗ったら薬持って行くから」


「……うん、そうだね」エドは頷き、心の疑念を少しだけ後退させた。

「じゃあ、僕が見てくるよ」


自分にはまだ少し高い椅子から飛び降り、ドアを押し開け、外へ出る。


カチャリ。

粗末な木の扉が、再び閉ざされた。



……


キッチンでは、変わらず水音が響いている。 皿を洗っているはずの“タリア”の動きが、唐突に停止した。 周囲の空気が、微かに歪む。


ジジ……。


どす黒い霧が、彼女のスカートの裾から音もなく滲み出し、蛇のように巻き上がっていく。

彼女はゆっくりと振り返り、エドが出て行ったドアの方を見た。

その元々は清らかで愛らしかった顔は、今や雨に打たれた油絵のようだった。

振り返るその過程で、目鼻立ちはぐずぐずと形を失い、濁り、滲み、最後には惨白な皮膚の中へと完全に溶け込んでいく。

彼女が完全にドアの方を向いた時、首の上に残っていたのは、平らで、滑らかな、何の起伏もない肉の板だけだった。


死のような静寂の中。

その滑らかな肉の板の中央が、何の前触れもなく左右に裂けた。 その音はまるで、皮膚が無理やり引きちぎられたかのようだった。

漆黒の孤線が耳元まで裂け、その奥に広がる底知れない赤黒い肉を見せつける。 気管から風が漏れるような、極めて抑圧された忍び笑いが、その裂け目から絞り出された。


「……ヒッ」

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