愛する姉(バケモノ)に、最後の口づけを(1)
『……エド……姉さんね、戦いに行くの』
あの声が、再び響いた。 いつもなら悲しみと後悔に濡れていたその声色は、今、予想外なほど穏やかだった。 心臓が縮み上がるほどに……静かだった。
(……戦い? 誰と……?)
すべてを飲み込む永遠の闇の中で、エドはもう恐怖を感じていなかった。 この声が側にいてくれる限り、この微かな温もりが手にある限り、彼は安らぎさえ感じていた。
だが。 その時、彼は明確に“感じ”取った。 右手を包み込み、無限の温もりを注いでくれていた小さな手が、不意に……ギュッと力を込めたのを。
(……姉さん?)
『……今度行ったら、たぶん……もう戻れないと思う……』
『だから、エド……よく聞いて』
『何があっても……あなたは必ず……生きて、ね』
(……なんで……? どうしてそんな、遺言みたいなことを言うんだ……?)
不吉な予感が、毒蛇のように心臓に巻き付く。
朦朧とする中、額に熱を感じた。 比類なく温かく、柔らかな感触が、彼の“額”に押し当てられる。それは決別を告げる口づけであり、揺るぎない決意の証でもあった。
直後。 彼と「真実」を繋ぎ止めていたその掌が―― ゆっくりと、離れていった。
(――姉さん……!)
(行かないで……! お願いだ……もう僕を一人にしないでくれ――!!!!!)
ブオン――!!!
闇が崩壊する。 極限まで純粋な眩い白光が、強引にすべてを飲み込んだ。エドの意識は一粒の塵のように、見えざる巨人の手によって深淵から激しく、弾き飛ばされた!
◇◆◇
「――ハァッ……ハァッ……ハァ……」
激しい喘鳴が、死に絶えた部屋の静寂を唐突に破った。
だが今回、彼を迎えたのは、状況への困惑ではなかった。
彼は起き上がらなかった。 鉛のように重い体を、柔らかいベッドへと沈み込ませたまま、頭上に広がる見慣れた、忌々しい木造の天井を死んだ目で見つめた。
「はは……やっぱり……まだここか……」
ガチャリ――
ドアが音を立てて静かに開く。 何度見ても完璧で欠点のないその美しい影が、トレイを手に、あの虚飾の仮面を被って、入ってきた。
「あら、エド? 目が覚めた?」
あまりに馴染み深い、あまりに「リアル」な声。 そこには、計算し尽くされた優しさと、完璧な配分で調合された気遣いがあった。
「タリア……姉さん……」
エドはゆっくりと首を回した。 かつて澄んでいた鳶色の瞳は、今や光を失い、ただ静かに、麻痺したように彼女を見つめた。
“タリア”は微笑みながら近づいてくる。 彼女が指を鳴らすと、指先に魔法の火が灯った。
ボッ。
昏い蝋燭の火が揺らめく。 その光は一瞬にして、このこぢんまりとした、偽りの温もりに満ちた……絶望の檻を照らし出した。
「よかった、顔色はだいぶ良さそうね」
“タリア”は蝶のように軽やかに、ベッドサイドへと舞い降りた。 ひんやりとした額を、エドの額にピタリと合わせる。その動作は、非の打ち所がないほど優しく、完璧だった。
「うん……熱もだいぶ下がったわ。もう一眠りすれば、明日はきっと全快よ」
「……うん」
エドは避けることも、視線を返すこともせず、ただ彼女を透かして、虚空の一点を見つめていた。
「あ、そうだ! お腹、空いちゃったでしょう?」
彼女は突然両手を合わせ、申し訳なさそうに、けれど可愛らしく謝った。
「ごめんね、エドちゃん~。今日、薬草を摘んだついでに隣町まで足を延ばして、新しい服を買ってあげようと思ったら……つい遅くなっちゃって」
彼女は顔を近づけ、エドの表情を覗き込むようにして尋ねた。
「ねぇ……お姉ちゃんのこと、怒ってない?」
「……」
部屋には、蝋燭の芯が爆ぜる微かな音だけが響く。 エドは精巧な人形のように、ただ静かに彼女を見つめているだけだ。
しかし、“タリア”のその完璧な笑顔に、ついに亀裂が入った。 輝く瞳の奥底を、微かな困惑と不快感が一瞬、走った――彼女の予測した反応とは違ったからだ。
「……まだ、帰りが遅かったことを根に持ってるの?」
彼女は手を伸ばし、エドの死人のように冷たい頬を優しく撫でた。
「ごめんね。次は絶対に、あなたを一人にしたりしないから。ね? 約束する」
記憶の中の姉と寸分違わぬ、完璧と称すべきその「演技」を見て。 エドの胸の奥で渦巻いていた激情と悲しみは、最終的に、音のない溜息へと変わった。
(はぁ……)
「……お腹、空いたわよね?」
木偶のように反応しないエドに、“タリア”もこの重苦しい空気に耐えられなくなったらしい。彼女は布団の上から、エドの平坦な腹部を軽く押した。
「お姉ちゃん、すぐに温かいものを持ってくるから。いいわね?」
「……うん」
黙認を得たことで、“タリア”の肩の力が抜けた。 彼女はエドを深く一瞥し、ようやく背を向けた。
カチャリ。
鍵が掛かる音は、冷たく澄んでいて、決定的だった。
足音が遠ざかるのを確認し、エドは顔を上げ、深く息を吸い込んだ。眼窩から溢れ出しそうになる涙を、必死に食い止める。
分かっている。目の前にいるのは、彼の知るタリアではない。 だが……その顔も、声も、慈愛に満ちた口調も、彼が深く愛した姉そのものなのだ。
愛おしさと憎しみ。 依存と恐怖。 相反する感情がこの瞬間に交錯し、彼の心臓を無慈悲に引き裂いていく。




