「氷室の回廊、千の死顔」(2)
【閲覧注意】 本話には、以下の要素が含まれています。苦手な方はご注意ください!!
残酷な描写
カニバリズム(人肉食)を想起させる表現
主人公による自傷・自死行為
どれくらい闇の中に沈んでいただろうか。一瞬のようにも、永遠のようにも感じられた。
ズズゥゥゥン――!!!
鈍く、しかし圧倒的な圧力を伴う轟音が、脳髄の奥底で炸裂した雷のごとく、死寂に包まれた意識の海を強引に引き裂いた。
闇が激しく震える。最後の意識を繋ぎ止めていた微かな光の粒が、衝撃に煽られ、今にも崩壊しそうに狂ったように明滅する。
続いて、あの聞き覚えのある声が再び響いた。 だが今回は、物悲しい啜り泣きではない。 それは……胸を掻きむしるような、天が崩れ落ちてくるかのような、切迫した恐慌。
『……エド――!!!』
『エド! 返事をして!!!』
どうした……? 一体……何が……起きてる……?
その声に滲む焦燥はあまりにリアルで、麻痺していたはずのエドの心臓を鋭く刺した。
『しっかりして!姉さんが……姉さんがすぐに助けてあげるから! だから……お願い、エド――!!!』
助ける……? 姉さん……?
得体の知れない力が彼を突き動かした。上下の区別もない虚無の中で、エドは歯を食いしばり、全霊を振り絞って――「立ち」上がった。
姉さん……どこにいるんだ……?
彼が狼狽し、周囲を探そうとした、その時――。
ジジッ――ジジジジッ――!!!
唐突に、鼓膜を劈くような高周波のノイズが、魂の深淵で炸裂した! まるで赤熱した無数の鋼針が、脳髄に一斉に突き刺さったかのような激痛。
『ぐぅ……あがぁぁッ――!』
凄まじい痛みに、彼は無意識に頭を抱え、きつく両目を閉じた。
(痛い……痛い……ッ! 止まれ……止まってくれ……!)
意識が激痛によって霧散しようとした、その刹那。
ギュッ。
嘘のようにリアルな、温かく、力強い抱擁が、彼を強く包み込んだ。 頬に伝わる、濡れた熱い感触。それは、煮え滾るような涙だった。
不思議なことに、その抱擁と共に、頭を破壊しそうだったノイズが、奇跡のように引いていく。
『……よかった……無事で……』
『本当に……よかった……』
声が震えている。九死に一生を得た安堵と、胸が張り裂けんばかりの嗚咽。 その一点の曇りもない真摯な慈愛は、暗雲を貫く聖なる光のように、エドの凍てついた魂を瞬時に照らし出した。
なぜ……? あなたは誰だ……どうして……こんなに優しくしてくれるんだ……?
頬を伝う温かい湿り気が、止まらない。 エドは茫然とした。これが相手の滴らせた涙なのか……それとも、いつの間にか自分が流している涙なのか、区別がつかない。
体が本能的に反応した。 彼は必死に「腕」を持ち上げ、逆にその温もりをくれた相手を、強く抱きしめ返そうとした。
だが――手は、空を切った。
どれだけ足掻いても、その虚ろな腕は煙を払うように、何の実体も捉えられない。
(……会いたい……)
(この目で……あなたを……見たい……!)
その想いは、乾いた薪に落ちた火種のように、瞬く間に意識の中で燃え広がり、かつてない強烈な渇望へと変わった!
朧げな中、闇に亀裂が走る。 錆びついた記憶の断片が、強引に脳裏を過る――。
冷たく湿った牢獄。粗末な鉄格子。 その向こうで跪く、典雅な魔術師のローブを纏った、華奢な少女。 彼女は憂いと悲しみに満ちた瞳で自分を見つめ、何度も、何度も呼びかけている……。
顔は見えない、だがその眼差しだけは……。
(君は……あの時の……)
エドが最後の精神力を振り絞り、霧を払ってその顔を見ようとした瞬間。
ブォン――!!!
「ぐあアアアア――!!!」
意識が強烈に弾き飛ばされた。世界から異物として排除されるように。 純粋な、すべてを飲み込む白光が視界を埋め尽くし、この長い長い闇の悪夢を終わらせた……。
◇◆◇
「ハァッ――!」
溺れた者が、水面に顔を出したような、激しい喘ぎと共に、エドはカッと目を見開いた。
胸が激しく波打つ。冷や汗が寝間着をぐっしょりと濡らしている。目に映ったのは、見慣れた丸太作りの天井だった。
ただ…… 先ほどの柔らかく爽やかな朝の光とは違う。 今、部屋全体は、濃密で寂寥とした黄昏の暮色に沈んでいた。
「……」
エドは鈍く瞬きをし、鉛のように重い上半身を起こした。 大病を患った後のような虚脱感と、不快な寝汗の粘り気が全身を包んでいる。
無意識に手を上げ、濡れた額を拭う。指先が目尻に触れた。 そこには、まだ乾ききっていない、微かにしょっぱい湿り気が残っていた。
(僕……)
(さっき……泣いていたのか?)
指先の雫を困惑して見つめ、小さく首を横に振る。 彼は窓の方へ顔を向けた。切り取られた空は、夕陽によって鮮烈な血の色に染め上げられている。それはあまりに壮麗で、そしてどこまでも物悲しかった。
(さっきの……あれは……)
(夢、なのか……?)
思考は、猫に遊ばれた毛糸玉のように縺れ合い、ほどけそうにない。
エドは虚ろな目で頭上を見つめていた。 薄暗い光の中、見慣れたはずの木目が、なぜか圧迫感を持って迫ってくる。 彼は必死に識別しようとしていた――今ここにあるのは冷徹な現実なのか、それとも何時崩壊するとも知れない、虚構の夢なのか。
グゥ~~、キュルルル……。
腹の虫の抗議音と、体にへばりつく汗の不快な粘り気が、彼を強引に現世へと引き戻した。
「……はぁ」
エドは深い溜息をつき、ぺしゃんこのお腹をさすった。
「もういいや。とりあえず何かお腹に入れて、それから身体を洗おう」
ギィィ――
ドアを押し開けると、古い蝶番が耳障りな摩擦音を立てた。 リビングは空っぽだ。明かりもなく、薄ら寒さが漂うほどに暗い。
「姉さん? いるの?」
返事はない。 空っぽの木造家屋に自分の声だけが虚しく反響し、寂寥感を際立たせる。
「……まだ帰ってないのか」
エドは窓の外を見た。 空の端はすでに、濃い暮色に染まっている。
(おかしいな……朝、裏山へ薬草を摘みに行くって言ってたけど……こんなにかかるものか?)
「ま、姉さんがいないなら……僕が豪華な夕食を作って、驚かせてあげるとしますか!」
手早くシャワーを浴び、疲労と冷や汗を洗い流すと、エドは意気揚々と台所へ向かった。
調子外れな鼻歌を歌いながら、踏み台を持ってくる。爪先立ちになり、少し苦労して黒ずんだ陶器の大きな甕の蓋を開けた。 ここは常時、タリアが氷魔法で低温を維持している、この家唯一の「冷蔵庫」だ。
冷気が顔に吹き付ける。 エドは手を伸ばし、霜に覆われた獣肉の塊を取り出した。
「ん……?」
夕陽の残照に肉を透かし見て、エドは眉をひそめた。
(この肉……なんか変じゃないか?)
色はどす黒いほどの深紅。肉質は異常なほど引き締まっていて、白い脂肪の筋がほとんど見当たらない。 それに……この細長く、均整のとれた形状。 指で表面をなぞると、キメが異常なほど細かく、手触りは……なんとも言えないぬめりを帯びている。
(……森の野兎かな?)
(それとも、名も知らない魔物の肉か?)
疑問は残るが、彼は肉をまな板の上に置いた。 踏み台から降りようとした時、肉の正体を考え込んでいたせいか、足が滑った――。
「うわっ!?」
ドスンッ――!!!
「痛っ! ――いったたた……」
派手に尻餅をつき、あまりの痛さに顔を歪める。 だが次の瞬間。尻をさすっていた彼の手が、ピタリと止まった。
(……待てよ)
今の音。
ドスン――
それは、中身の詰まった木板がぶつかる鈍い音ではない。 それは……下に空洞があるからこそ響く、微かな反響を伴ったうつろな音だ。
痛みを忘れ、強烈な好奇心に突き動かされて、彼は床に這いつくばった。 床板に耳を押し当て、指で軽く叩く。
コン、コン。
少し位置をずらし、さっき転んだ場所を叩く。
ポコ、ポコ。
「ここ……下が空いてる?」
エドの背筋に冷たいものが走った。 彼の記憶では、台所の床は踏み固められた地面の上に直接板を敷いたはずだ。空洞などあるはずがない。
不安よりも好奇心が勝った。 彼は床にへばりつき、微かな光を頼りに、木目の紋様を一寸ずつ指で探っていく。 そしてついに、二枚の床板の完璧に見えた継ぎ目に、木目とほぼ一体化した、極めて隠蔽性の高い細い隙間を見つけた。
「これは……隠し扉?」
エドは唾を飲み込んだ。 立ち上がり、包丁棚から鋭利な包丁を手に取る。手は震えていたが、その薄い刃先を隙間にねじ込んだ。
ギギギ……
歯が浮くような音と共に、重く、巧妙に隠されていた板が、ゆっくりと持ち上がっていく。
真っ暗な開口部から、カビ臭く、そしてどこか鉄錆のような臭いのする冷たい風が吹き出してきた。
「どうして……タリア姉さんの家に、こんなものが?」
地底の深淵へと続く漆黒の階段を見て、エドの心臓が早鐘を打つ。 底知れぬ、不吉な予感が彼を包み込んだ。
エドは唾を飲み込み、不安を押し殺す。 彼はリビングへ戻り、テーブルの上の古い燭台を手に取り、火打ち石で明かりを灯した。
彼は深く息を吸い込み、揺れる炎を掲げながら。未知の闇へと続く地下への入り口を―― 一歩、また一歩と……降りていった。




