第45章 グール
「た、助け……て……」
それは、ガスパールの声だった。
ルーアンは反射的に振り向いた。
視線の先――壁の亀裂に最も近い位置に、ガスパールが立っていた。
彼の顔は、強靭さとは程遠い表情に歪んでいる。
恐怖と苦痛がないまぜになり、血の気が引いた頬は、今にも崩れ落ちそうに引きつっていた。
いつもは夜巡隊の支柱のように揺るがない男が、子どものように救いを求める声を上げている。
「ガ……ガスパール?」
エティエンヌの声が震えた。
喉の奥から絞り出されたその声には、信じたくない現実への拒絶がはっきり滲んでいた。
そして、彼らはそれを見た。
壁の亀裂から、漆黒の粘液が大量に溢れ出していたのだ。
その黒い液体は、単なる水や泥とはまったく違っていた。
どろりとした質感で、やけに重たそうにゆっくりと流れているのに、動きそのものは生き物のように素早い。
地面を這いながら、床石と床石の隙間をぬるりと滑り込み、まるで意思を持っているかのように、一直線にガスパールの足元へと向かっていく。
すでに黒い液体は彼の足首に絡みついていた。
くるぶしの周りでくねくねと巻き付き、そこからじわじわと脚を這い上がっていく。
布の上を滑るたび、布地がぐしゃりと沈み込むように形を崩し、まるでその下にある肉そのものまで侵食しているかのようだった。
「くそっ! 早く助けろ!」
シプリアンが叫び、真っ先に駆け出した。
レオナールがそれに続き、盾を構えたまま大股で前へ出る。
鉄板を貼った盾面が、闇の中で鈍く光を反射した。
「ガスパール! 動くな! すぐ助ける!」
ルーアンも遅れて地面を蹴った。
だが、そのときだった――
ざぶ……ざぶん……
暗闇の奥から、奇妙な水音が響いてきた。
それは普通の水流の音ではない。
一定のリズムを刻みながら、何かが水の中を這い回るような、ねっとりした重さのある音。
その合間に、ぐつぐつと沸き立つような、肉が液体に溶けていくかのような嫌な音が混じっていた。
「……何の音だ?」
エティエンヌが足を止め、肩をびくりと震わせる。
彼は恐怖を抑え込むように警棒を握りしめ、周囲を見回した。
ルーアンの胸にも、冷たいものが走る。
彼は無意識のうちに短剣を握り直し、暗闇に目を凝らした。
ざぶざぶ……ざぶん…… チチチッ――
水音が徐々に近づいてくる。
そこに重なるように、耳障りな甲高い鳴き声が混ざる。
それはどこかネズミの鳴き声に似ているが、響き方が異様だ。
洞窟内の複雑な形状に反射して、四方八方から同時に聞こえてくる。
重なった反響音が、音の出所を完全にかき消し、距離感さえ分からなくしていた。
「何だ? どこだ?」
シプリアンも足を止め、警棒を胸の高さに構えなおす。
視線はせわしなく揺れ動き、どこから襲いかかってくるのかを必死に探っていた。
ルーアンは奥歯を噛み締め、耳を澄ました。
祝福の箱のおかげで鋭くなった聴覚を総動員し、音のわずかな違いを拾おうとする。
敵の位置が分からないまま進むのは、ほとんど自殺行為に等しい。
この狭い密室で、得体の知れないものと正面衝突でもしたら、一瞬で形勢は崩壊する。
「助けて……頼む……」
ガスパールの声は弱々しくかすれ、今にも消えそうだった。
黒い液体はすでに彼の膝まで達し、布を浸しながらじわじわと太腿へと登っていく。
ぐつ……ぐつぐつ…… ざぶん……
水音と、不気味な泡立ちの音は、なおも近づいてくる。
耳の奥で振動するような低い響きが、鼓膜を震わせ、胸の中まで響いてくる。
そこでようやく――
ルーアンの敏感になった聴覚が、音の方向をはっきりと掴んだ。
「……分かった!」
ルーアンは勢いよく顔を上げ、密室の薄暗い天井を見上げた。
「上だ……やつらは――上にいる!」
彼は素早く短剣を掲げ、天井を指さした。
かろうじて残っている光が、その先を照らす。
そこでルーアンはそれを見た。
天井から逆さにぶら下がる、五つの黒い影を。
それは――グールだった。
全身が水を滴らせている。
肌は死人のように青白く、ところどころ溶けたように皺だらけで、粘膜に覆われているかのようにぬめりと光っている。
四肢の先の爪は、錆びた釘のように鋭く、天井の石の隙間に深々と食い込んでいた。
そこからじわじわと水か血か分からない液体が滴り落ち、床に黒い染みを作っている。
何よりおぞましいのは、その顔だった。
人間に似ている――だが、あまりにも歪んでいた。
頬骨は異常に突き出し、頬はこけ、口は耳の際まで裂けている。
裂けた唇の隙間からは、びっしりと並んだ細かい牙が覗いていた。
その一本一本が、獲物の喉を食い破るためだけに存在しているかのように鋭い。
そして、そこには十個の真紅の眼があった。
五匹分の、合わせて十個の目が、真下にいる彼らを釘付けにしている。
血のように赤い瞳は、光を反射することなく、むしろ周囲の暗闇を吸い込んでいるかのようだ。
そこには理性というものが欠片ほどもなく、ただ濁った欲望と飢えだけが渦巻いていた。
「……なんてこった」
エティエンヌは息を呑み、顔から血の気が引いていく。
唇がかたかたと震え、かろうじて声になったその一言には、絶望が色濃く混ざっていた。
チチチチチ――ッ!!
五匹のグールが同時に甲高い悲鳴をあげた。
爪が一斉に天井から外れ、そのまま石弾のような勢いで彼らの頭上へと落ちてくる。
「散れ!」
ルーアンが叫ぶ。
だが、もう遅かった。
先頭にいたシプリアンが、真っ先に狙われた。
二匹のグールが同時に彼へと襲いかかる。
ひとつは胸元めがけて、もうひとつは背中へと。
シプリアンは咄嗟に警棒を振るい、一匹の胴を横から叩きつけた。
骨が軋む嫌な音がして、グールは弾き飛ばされる。
だが、もう一匹は完全にタイミングを合わせていた。
その爪がシプリアンの肩口に深々と突き刺さる。
彼の身体は、そのまま地面へと叩きつけられた。
「ぐああああっ!」
密室に彼の悲鳴がこだました。
肩から背中一面に灼けるような痛みが走り、視界が真っ白に弾け飛ぶ。
「シプリアン!」
レオナールが叫び、盾を高く掲げて飛び出す。
彼の足音が石床に響き、重い線を描いてまっすぐシプリアンの方へと向かう。
ドンッ!
正面から飛びかかってきた一匹のグールが、レオナールの盾に全力でぶつかった。
盾を通して伝わる衝撃が腕を痺れさせ、レオナールの身体は数歩分後ろへと押し戻される。
だが彼は歯を食いしばり、膝を軽く曲げて衝撃を殺し、そのまま踏みとどまった。
「させるかよ……!」
レオナールは低く唸り、盾を前に押し出すと同時に、反対の手に持った警棒を振り下ろした。
ゴキッ――
鈍く乾いた音。
グールの頭蓋が不自然にへこむ。
だが、それでもそいつは死ななかった。
潰れた頭から黒い液体を流しながら、グールはさらに甲高い悲鳴を上げ、裂けた口をいっぱいに開く。
牙の列がむき出しになり、そのままレオナールの前腕に噛みついた。
「くそがっ!」
レオナールは吠え、盾の縁を振り上げ、グールの首筋に横から叩き込んだ。
鉄の縁と骨がぶつかり、いやな音が密室に響く。
その間にも、残りの三匹のグールが、それぞれルーアンとエティエンヌへと飛びかかってきていた。
ルーアンは反射的に身をひねり、ぎりぎりで正面からの衝突を避ける。
だが、完全には逃れきれなかった。
グールの爪が彼の頬を掠め、皮膚が裂ける感触が生々しく伝わってくる。
熱い。
次の瞬間には、その熱が鋭い痛みに変わる。
頬を伝って、温かい血が一筋、顎のほうへと流れ落ちた。
思わず息を吸い込み、肺が痛むほど冷たい空気を取り込む。
エティエンヌは、避けきれなかった。
彼は正面からグールに抱きつかれるような形で押し倒され、仰向けに床へと叩きつけられた。
グールはその胸の上に跨り、狂ったように爪を振り下ろし、牙で肉を噛み千切ろうとする。
「離れろ……!」
エティエンヌは必死にもがき、拳でグールの顔面を何度も殴りつける。
拳の骨が軋むほど強く殴っているのに、湿った皮膚が拳を滑り、思うようにダメージを与えられない。
水に浸しっぱなしになった死体を殴っているかのような、不気味な感触だけが手に残った。
ルーアンの前のグールが、再び跳びかかってくる。
さっきよりも低い姿勢から飛び出し、死角を突くように横から喉元を狙っていた。
今度は、ルーアンも準備ができていた。
彼は短剣を胸の前に構え、飛びかかってくる影に合わせて腕を突き出す。
剣先が、グールの胸元を正確に捉えた。
ぐぶっ、と生臭い音がして、刃が肉を裂き、中にめり込む。
黒い血が噴水のように吹き出し、ルーアンの顔にべったりと浴びせかけられた。
だが――グールは止まらなかった。
胸を貫かれたまま、そいつはその傷をまるで意に介さず、剣身にしがみつくようにしてさらに前へと身を乗り出してきた。
剣を自分で体内に押し込む形になりながら、裂けた口を開き、ルーアンの喉へと狙いを定める。
「くっそ……!」
ルーアンは自ら剣を手放し、即座に周囲を見回す。
指先が石片に触れた。
手のひらほどの大きさの、角の欠けた石だ。
彼はそれを掴み、躊躇なく、グールのこめかみに叩きつけた。
一撃。
鈍い衝撃が手首を痺れさせる。
頭蓋骨が軋む音が、指先から肘へと伝わってくる。
二撃目。
今度はさらに力を込めて、真正面から叩きつける。
グールの頭がぐらりと揺れ、牙がカチカチと打ち鳴らされた。
三撃目。
骨が砕ける、はっきりとした音がした。
グールの頭部は、もはや原形をとどめていない。
黒い血と白っぽい何かが飛び散り、ルーアンの手や顔、衣服を汚す。
抵抗する力が抜け、その身体はずるりと床へと崩れ落ちた。
ルーアンは荒く息を吐き、肺が焼けるように痛むのを感じながら、戦場を見回した。
――シプリアンの様子は、目を覆いたくなるほどひどかった。
彼は地面に押し倒されたまま、二匹のグールに押さえつけられている。
一匹は喉笛に食らいつき、裂けた肉の隙間から血が滝のように流れ出ていた。
もう一匹は腹部を爪で掻きむしり、内臓を引きずり出そうとしている。
血は途切れることなく溢れ出し、床の凹凸に沿って流れ、暗い小さな池を作っていた。
「やめろ……!」
レオナールは叫び、シプリアンの元へ駆け寄ろうとした。
だが、彼自身もグールに絡みつかれていた。
彼の腕に噛みついているグールは、いまだに顎を離さない。
裂けた肉の隙間から血が滴り、腕の筋肉が引きつるたびに牙がさらに深く食い込んでいく。
もう一匹が、いつの間にか彼の背に回り込んでいた。
その爪がレオナールの首筋を貫き、肉を引き裂く。
「ぐっ……!」
熱いものが勢いよく噴き出すのを、彼自身がはっきりと感じた。
咄嗟に、背中のグールを肩の動きで振り落とし、そのまま至近距離から壁に叩きつける。
ドンッ!
グールが壁にめり込み、悲鳴をあげる。
だが、その頃にはすでに遅かった。
レオナールの首からは鮮血がほとばしり、空気中に細かい霧となって漂った。
赤い霞が、蝋燭の炎を霞ませる。
彼は二歩、三歩とふらつき、
膝が折れ、
そのまま床に崩れ落ちた。
シプリアンの喉から流れる血も、すでに止まる気配はなかった。
彼の瞳は大きく見開かれたまま、光を失っている。
――すべてが終わるまで、三十秒もかかっていなかった。
二人の生身の人間。
数え切れない実戦をくぐり抜けてきた、老練な夜巡隊員が二人。
その命が、瞬きするほどの時間のうちに失われた。
「シプリアン……レオナール……」
エティエンヌは震える声で仲間の名を呼ぶ。
彼はまだ自分の上にのしかかっているグールともみ合っていたが、その目はすでに動揺と悲しみに曇っていた。
ルーアンの全身は小刻みに震えていた。
恐怖も確かにあった――
だが、それ以上にこみ上げてきたのは、怒りと、どうしようもない無力感だった。
彼は床に転がった短剣を拾い上げ、エティエンヌに覆い被さるグールへと突進した。
一閃。
喉元めがけて突き立てた短剣が、グールの首を貫く。
黒い血が噴き出し、獣の身体が痙攣した後、ぐったりと崩れ落ちる。
エティエンヌは、荒い息を吐きながらも、まだ生きていた。
彼の顔には、自分の血とグールの黒い血が混ざり合い、涙でぐちゃぐちゃになっている。
だが――
彼らはすでに、二人の仲間を失っていた。
そして、ガスパールは――
ルーアンは、本能的にそちらを振り向いた。
黒い液体は、すでにガスパールの胸元まで達していた。
濡れた布を思わせる重たい動きで、その黒い物質はさらに上へ上へと這い登っていく。
胸骨のあたりを覆い、鎖骨を飲み込み、ゆっくりと首筋へと伸びていく。
「た、助け……て……」
ガスパールの声は、もはや囁きにも満たなかった。
「頼む……」
ルーアンは、一歩踏み出そうとした。
しかし、その行く手をふさぐように、二匹のグールが立ちはだかった。
さきほどまでシプリアンの肉を貪っていた二匹だ。
顎の周りにはまだ赤黒い血がこびりつき、牙の間には肉片が挟まっている。
その血まみれの口を、ゆっくりと開き、ルーアンとエティエンヌへと向けた。
二匹は、まるでこの場の主人ででもあるかのような動きで、彼らとガスパールの間に立ち塞がる。
一歩進み、一歩下がらせる。
それだけで、距離が決定的に開いてしまう。
「くそっ……くそっ……!」
短剣を握るルーアンの手が、白くなるほど強く力を込める。
だが、心のどこかで理解していた。
――今の自分たちには、突破できない。
自分とエティエンヌ。
満身創痍で、武器もろくに扱えない二人。
相手は、さきほど二人の老練な隊員を一瞬で殺したグールが二匹。
踏み込めば、その瞬間に喉を食い破られる。
加えて――あの黒い液体だ。
間違いなく、あれは普通の「水」ではない。
触れた者の身体を飲み込み、内側から浸食していく、何か。
例えグールを倒せたとしても、黒い液体に飲み込まれたガスパールを、どうやって救い出せばいいのか、まったく見当もつかなかった。
「ルーアン……」
エティエンヌが彼の袖を掴んだ。
その手は震え、冷たく、かろうじて力を保っているだけのように弱々しい。
「俺たち……もう、どうにもできない……」
エティエンヌの顔は血と涙でぐしゃぐしゃだった。
唇が震え、言葉にならない嗚咽が喉でつかえる。
「ごめん……ごめん、ガスパール……本当に……どうにも、できない……」
黒い液体は、ついにガスパールの顎を覆い、唇を塞ぎ、鼻を飲み込んだ。
そこで、彼の声は完全に途切れた。
呻き声も、助けを求める声も、一切、聞こえなくなった。
密室には、不自然なほどの静寂が降りた。
さっきまで耳をつんざいていたグールの鳴き声でさえ、今は低い唸り声に変わり、背景の一部になっている。
聞こえるのは、二人の荒い息づかいと、黒い液体が粘ついた音を立てながら動き続ける音だけだった。
ルーアンはその場に立ち尽くし、全身を震わせた。
指先に力を込めすぎたせいで、爪が掌に食い込み、痛みが走る。
だが、その痛みさえも、自分が生きていることを確認するための、かろうじての証拠に思えた。
彼は見た。
シプリアンが喉を引き裂かれて死ぬのを。
レオナールが血を流し尽くし、崩れ落ちるのを。
ガスパールが黒い何かに飲み込まれ、最後の一言すら奪われるのを。
三人。
三人の、ついさっきまで隣で呼吸をしていた仲間が、
まるで灯を吹き消されるように、次々と消えていった。
そして、自分は――何もできなかった。
今、血だまりの中に立っているのは、
こちらを見据える二匹のグールと
そして――黒い液体に全身を覆われた「人型」の何かだった
それは、明らかにガスパールの体格をしていた。
背丈も、肩幅も、シルエットすべてがガスパールそのものだ。
だが、皮膚にあたる部分は、すべてあの黒い物質で覆われている。
表面は絶えずうごめき、波打ち、ところどころから泡が生まれては弾けていた。
粘液が床へと滴り落ちるたび、石がじりじりと焼けるような、かすかな音が聞こえる。
二匹のグールが、彼らに向かって一歩、また一歩とにじり寄ってくる。
赤い目が、獲物を逃さぬようにじっと見据えていた。
そして――黒い人影も、動き始めた。
首が、ぎこちなく持ち上がる。
顔というべき部分には何の造作もなく、ただ黒い液体がぐねぐねと形を変えているだけだ。
それでもルーアンにははっきりと分かった。
――そいつは、自分たちを見ている。
「エティエンヌ」
ルーアンは声を絞り出した。
喉は乾ききっていて、声は掠れ、今にも消えそうだ。
「ここから……出る。今すぐにだ」
「でも……」
「もう、みんな死んだんだ!」
ルーアンは彼の言葉を遮り、振り返りざまに叫んだ。
目の縁は赤く腫れ、視界は滲んでいる。
「ここで全員死んだら、本当に何も残らない! 俺たちは生きて、ここで見たことを外に伝えなきゃならないんだ!」
短剣を握りしめる手に、再び力を込める。
彼はグールと黒い人影から目を離さない。
「祭壇のほうへ下がる」
ルーアンは低く告げた。
「ゆっくりだ。走るな。背を向けるな。走った瞬間、あいつらは飛びかかってくる」
床には血と黒い液体が混ざり合い、踏み出すたびに靴底がぬるりと滑る。
それでも、彼らは一歩ずつ、慎重に後ずさりを始めた。
決して、目を逸らさないようにしながら。




