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第44章 地下血戦



密室の奥でぎっしりと灯る赤い光点を前にして、ルーアンはめまいを覚えた。

逃げるべきか? 戦うべきか? 大声で助けを呼ぶべきか?

無数の考えが頭の中でぶつかり合うのに、身体はその場に固まったまま、手足がまったく言うことをきかない。

呼吸は浅く早くなり、心臓は胸から飛び出しそうなほど激しく脈打っていた。


「深呼吸しろ」

ガスパールの低い声が耳元で響く。

その口調は、今まさに危険の只中にいるとは思えないほど落ち着き払っていた。

「初めてこういう場面を目にすれば、誰だって怖い。だがな、恐怖はお前を殺す。いいか、俺たちは夜巡隊だ。お前の想像より、はるかに多くのモノを見てきてる」


その言葉は警鐘のようにルーアンの意識を揺さぶり、彼ははっと我に返った。

そうだ、自分の手には聖徽がある!

フィリップ神父は言っていた。これで神術を放てる――光明術、軽傷治癒、聖光の盾。

それがあるなら、決して丸腰というわけではない。


ルーアンがまさに呪文を唱えようとしたそのとき、ガスパールが一歩踏み出し、松明を前方へ突き出した。


橙色の炎が暗闇の奥を照らし出す――

「目」の正体が姿を現した。


黒いネズミの群れだった。


だが一匹一匹が異常に大きい。

ほとんど中型犬ほどのサイズで、その目は炎を受けて血のような赤い光を放ち、毛並みは油を塗ったようにギラギラと光っている。

しかしその光沢はどこか病的で、密室の隅や壁の割れ目、さらには天井の梁から逆さにぶら下がるものまで、びっしりと空間を埋め尽くしていた。

ざっと数えただけでも四、五十匹はいる。


チーチーチー――


耳をつんざくような甲高い鳴き声が響き、狭い空間の中で反響し、人の鼓膜を震わせる。


先頭にいた数匹の巨大ネズミが動いた。

だがすぐに飛びかかってくるのではなく、ゆっくりと巣穴から這い出し、その口元に汚物まみれの鋭い牙を覗かせた。

牙は異様に長く尖っていて、炎を受けて冷たい光を放ち、先端には正体不明の粘液がべっとりとついている。


「下水道の巨大鼠か」

珍しくシプリアンの声に警戒の色が混じった。

「クソッ、なんでこんなに多い? こいつらには毒がある。一度噛まれりゃ感染して、傷口が腐り落ちるぞ」


シプリアンは痩せた男で、年は三十五前後。

こけた頬、高く張り出した頬骨。

その目つきはいつも鋭く、あらゆる潜在的な危険を値踏みしているようだった。


「陣形を組め!」

ガスパールは無駄口を叩かず、すぐに命令を下す。

「レオナール、右を押さえろ! シプリアンは左! ルーアンは中央に立て、俺たちの背中を守れ!」


それは夜巡隊標準の三角防御陣形だった――

三人のベテランが三方向を守り、その中央に新人を置く。

新人は後方警戒と支援を担当する。

狭い空間で多勢の敵と対峙するとき、最も効果的な戦術だ。


三人は素早く動き、互いに寄り合って陣形を作り上げる。


ガスパールは警棒を握って最前列に立つ。

もう一方の手で腰から短剣を引き抜いた――それは夜巡隊の標準装備で、刃渡りは一尺ほど。

接近戦に適した武器だ。


レオナールは丸い木製の盾を掲げる――これは彼の私物で、表面には鉄板が張られ、縁には鉄の鋲が打ち込まれている。

シプリアンは両手で延長型の警棒を構え、その先端は鉄の輪で補強されていた。


レオナールは寡黙な大男で、身長は六フィート近く、肩幅も広く、腕は丸太のように太い。

口数は少ないが、その動きはいつも安定しており、自然と頼もしさを感じさせる男だった。


これが、1780年のパリ夜巡隊の標準装備――

華美な鎧もなければ、騎士のような長剣もない。

あるのはただ、路地裏の喧嘩で役に立つ、実用的な武器だけだ。


その言葉が終わるか終わらないうちに、一匹の巨大ネズミが壁の隙間から飛び出し、ルーアンの顔めがけて跳びかかった!


その動きは目を疑うほど速く、空中に黒い軌跡を描きながら、ぱっくりと開いた口から、三インチはあろうかという門歯がのぞく。

そこから滴り落ちる唾液は、鼻が曲がるほどの悪臭を放っていた。


ルーアンは本能的に腕を前に突き出して顔を庇い、その拍子に聖徽の鎖が大きく揺れる――


シュッ!


鋭い光がひらめいた。


ガスパールの短剣が、見事にその巨大ネズミの腹を貫き、そのまま持ち上げるように突き上げ、壁へと叩きつける。

黒赤い血が噴き出し、ルーアンの顔に飛び散った。

血はねっとりとした感触で、さらにひどい悪臭を放っている。


「突っ立ってるな!」

ガスパールは痙攣する死骸を蹴り飛ばし、短剣を引き抜いた。

「呪文を唱えろ! 光明術だ! 密室全体を照らせ!」


そこでようやく、ルーアンは我に返った。

慌てて袖で顔を拭い、聖徽を握りしめて精神を集中し、呪文を唱える。


「ルクシス!」


まばゆい白光が聖徽から放たれ、一瞬にして密室全体を照らし出した。


光が届いた途端、巨大ネズミたちは甲高い悲鳴を上げて後退する。

どうやら強い光が苦手らしく、赤い目を細く細くすぼめている。


しかし、その光の中ではっきりと浮かび上がった光景は――

ルーアンの想像をはるかに超えていた。


そこは一辺十メートルほどの地下室で、天井は低く、二メートルほどしかない。

四方の壁には無数の亀裂と穴があり、それらは全てネズミの巣になっていた。

床には骨が山のように積み上がっている――獣の骨もあれば、人間の骨と思しきものも混じっている。

隅にはいくつかの腐乱死体がころがっており、そのぼろぼろの衣服から、かなり昔に死んだものだと分かる。


だが何よりも恐ろしいのは、巨大ネズミの数が、彼らの予想をはるかに超えていたことだった。

四、五十匹どころではなく、少なく見積もっても百匹以上!

ネズミたちは折り重なるように密集し、密室の隅々にまでうごめいていた。


「くそったれ」

シプリアンが吐き捨てる。

「完全なネズミの巣だ……!」


ルーアンがその言葉を飲み込む暇もなく、さらに多くの巨大ネズミが四方八方から押し寄せてくる――

最初の混乱から立ち直り、今度は一斉に攻撃をしかけてきたのだ。

三匹や五匹などではない。

数十匹単位で、黒い波のように襲いかかってくる。


「来るぞ!」

レオナールが低く言い、盾を大きく振りかぶって、突っ込んでくる先頭の巨鼠を叩きつけた。


ゴンッ、ゴンッ、ゴンッ――


三匹の巨大ネズミが弾き飛ばされる。

だがすぐさまその空白を埋めるように、次の群れが飛びかかってきた。


シプリアンは警棒を横薙ぎに振るい、鉄輪で補強された棍先が巨大ネズミの頭蓋をとらえ、鈍い破砕音を響かせる。

一匹の頭骨がへこんだが、それでもまだ死なず、逆に狂ったように噛みつこうとしてきた。

シプリアンはさらにもう一撃叩き込んで、ようやく息の根を止める。


「こいつら、しぶとすぎる!」

シプリアンが叫ぶ。

「頭を完全に潰さねえと死なねえ!」


ガスパールは何も言わず、ただ黙々と短剣を振るい続ける。

彼の剣技は徹底的に実戦向きだ――

飾り立てた動きは一切なく、すべての一撃が巨大ネズミの急所だけを正確に狙っていた。

心臓、喉、目。

一突きごとに、一匹ずつ確実に仕留めていく。

これは夜巡隊が路地裏の喧嘩や乱闘の中で身につけてきた戦い方だ。

多勢の敵と相対するとき、派手な剣技など不要。

必要なのは、素早く、正確に致命傷を与えることだけ。


だが、それでも数が多すぎた。

一群を片付けても、すぐに次の群れが押し寄せてくる。

終わりが見えない。


「ルーアン!」

ガスパールが叫ぶ。

「聖光の盾を使え! 自分を守りつつ、前に押し出せ! スペースが必要だ!」


ルーアンは深く息を吸い、呪文を唱える。


「プロテーゴ!」


金色の盾が再び彼の周囲に展開された。


「前へ進め!」

ガスパールが命じる。

「盾で押しのけろ!」


ルーアンは覚悟を決め、一歩前へ踏み出す。

数匹の巨大ネズミが盾に飛びかかるが、触れた瞬間、ジュッと肉の焼けるような音を立てて悲鳴を上げ、そのまま床に転がり落ちた。

聖光を帯びた盾の光は、こうした邪悪な生き物に対して、天敵とも言える効果を持っていた。


「そのまま! さらに前だ!」


ルーアンはさらに二歩進む。

盾は移動する壁のように鼠の群れを押し分け、西側へと道をこじ開けていく。

ネズミたちは狂暴ではあるものの、本能的に聖光を恐れているようで、直接触れることは避けていた。


「よくやった!」

ガスパールはルーアンのすぐ背後について行き、盾を回り込もうとする巨大ネズミを次々に短剣で突き倒していく。

「その調子だ! スペースを稼げ!」


ここで夜巡隊の戦い方がはっきりと姿を見せる。

彼らは騎士ではなく、突撃する勇者でもない。

街の守護者であり、狭い路地や建物の中で戦うことに慣れた兵だ。

数で勝る敵と向き合うとき、彼らは地形を活かし、陣形を崩さず、少しずつ敵を削っていく。


だが、そのときだった。


状況が一変したのは。


天井の梁から、ミシッと嫌な音が響いた――

そこには少なくとも二十匹の巨大ネズミが逆さにぶら下がっていたが、その重みで腐った木がついに悲鳴を上げたのだ。


「上だ!」

ルーアンが悲鳴のような声で叫ぶ。


梁が折れ、二十匹の巨大ネズミが黒い雨のように一気に降り注いだ。

四人の真上へ!


レオナールは驚くほど素早く反応し、盾を上向きに構えて五、六匹をまとめて受け止めた。

巨大ネズミが鉄板に叩きつけられ、鈍い衝撃音が立て続けに響く。

数匹はその場で気絶し、数匹は盾の縁をずり落ちていった。


だが残る十数匹は、別の場所へと落下した。


三匹がガスパールの上に落ちる。

彼は即座に警棒で二匹を叩き飛ばしたが、三匹目が左腕に噛みついた。

鋭い牙が袖布を突き破り、肉深くまで食い込む。

ガスパールはうめき声をあげ、短剣を逆手に取ってその巨大ネズミを突き刺し、さらにそのまま引き剥がそうとする。

だが獣は死んでもなお顎を離さず、彼は仕方なく剣の柄で頭を何度も打ち据え、三、四度叩きつけてようやく動かなくした。


血が腕から滴り落ち、床にポタポタと染みをつくる。


二匹がシプリアンの背中に落ちる。

彼は怒号を上げて背中ごと壁に体当たりし、巨大ネズミを壁と自分の体の間に挟み込む。

骨の砕ける音がして、獣はぺしゃんこになって潰れたが、同時に彼の背中には深い爪痕がいくつも刻まれ、服は無残に裂けていた。


最も危険だったのはルーアンだった――

彼には聖光の盾があったが、それは半球状で、完全に頭上を覆うものではない。

一匹の巨大ネズミが、彼の頭上にずどんと落ちてきた。

するりと毛を掻き分ける爪が頭皮を掴み、大きく開いた口が、そのまま頭蓋に食らいつこうとする――


「クソッ!」

ルーアンは悲鳴を上げ、両手でその獣を掴もうとする。


だが巨大ネズミの毛皮は油でぬめっていて、指は滑り、うまく掴めない。

牙がどんどん近づいてくる。

獣の口から立ち上る腐臭が、鼻を突いた――


ドンッ!


レオナールの警棒が横から飛び込み、巨大ネズミの頭を正確に殴りつけた。

ネズミは弾き飛ばされ、壁に叩きつけられて脳漿を撒き散らす。


「気をつけろ」

レオナールは低く言う。

今夜、彼が一度に話した言葉としては最長だった。

「新入りはいつも、頭上を忘れる」


ルーアンの全身から冷たい汗が噴き出した。

あと一秒反応が遅れていれば、牙は彼の頭蓋を貫いていただろう。


戦いは、狂乱の極みに達した。


頭上からの奇襲で陣形は崩れ、四人はやむなくばらばらに散り、それぞれ近くの巨大ネズミを相手取ることになった。


ガスパールは負傷し、左腕はほとんど上がらない。

だが片手だけでも短剣さばきは乱れなかった。

刃は相変わらず正確に急所をとらえ、巨大ネズミの眼窩に突き入れ、脳を貫いた。

引き抜いて、また突き刺し、また引き抜く。

その動きは機械のように効率的で、一切の無駄がない。

これが夜巡隊の古参の戦い方だ――

激情も、怒りも、無い。

あるのはただ、冷静さと効率だけ。


シプリアンの戦いぶりは、もっと荒々しかった。

彼の警棒は、ほとんどハンマーだった。

一度振るうごとに、重い一撃が巨大ネズミを襲う。

ゴン――一匹の頭蓋が砕ける。

ゴン――別の一匹の背骨が折れる。

背中から血が流れているが、彼はまったく意に介さず、ただひたすらに棍を振り続ける。


レオナールは、四人の中で最も安定していた。

盾で正面を守りながら、足で蹴り、膝で突き上げ、盾の縁で殴りつける。

敵を華々しく倒すことより、とにかく噛まれないことを最優先する――

これが、夜巡隊の防御のエキスパートの戦い方だった。


ルーアンはというと、ひたすら聖光の盾を維持し、光明術の光で巨大ネズミたちを牽制していた。

武器は持たされていないし、戦闘経験もない。

ただ、飛びかかってくるネズミを拳で叩いたり、盾にぶつかるように動いて追い払ったりすることしかできない。


足元には、死んだネズミの死骸が山のように積もっていく。

黒赤い血は床を薄い水たまりに変え、

空気は血の臭い、焦げた臭い、ネズミの体臭が混ざり合って、吐き気を催すほどに濃く淀んでいた。

壁も床も天井も、血しぶきで斑に染まっていく。


ルーアンの腕は一度噛まれた。

聖光の盾が大部分の衝撃を和らげたものの、うっすらと牙の跡が残り、その周囲はじんわりと痛んでいる。

シプリアンの頬には三本の爪痕が走り、もう少し深ければ目をえぐられていたところだ。

レオナールの脚にも爪がかすり、じわりと血がにじんでいる。


「あと何匹だ……?」

ルーアンは荒い息を吐きながら問う。

聖徽の力が底をつきかけているのを感じていた。

盾の光は目に見えて弱まり、輝きはかすれ始めている。


「知らん……」

ガスパールの声にも疲労の色が滲む。

「だが、確実に減ってる。踏ん張れ!」


それから、どれくらい時間が経ったのか分からなかった――

五分かもしれないし、十分かもしれない。

生死を賭けた戦いの最中では、時間の感覚など簡単に狂う。


やがて、巨大ネズミの攻勢は明らかに弱まってきた。


最初は数十匹が一度に押し寄せていたのが、十数匹に減り、やがて数匹ずつになっていく。


最後に残った三匹は、何かに気づいたように突然踵を返し、逃げ出そうとした。


「逃がすな!」

シプリアンが怒鳴る。

「他の奴らを呼びに行かれたら厄介だ!」


レオナールはすぐさま飛び出し、盾で一匹を叩き潰す。

ガスパールの短剣が一直線に飛んで二匹目の背に突き刺さり、そのまま壁に縫いとめる。

三匹目は最も素早く、すでに壁の穴へと半身を滑り込ませていた――


ルーアンは反射的に手を伸ばし、呪文を叫ぶ。


「ルクシス!」


強烈な白光が、穴の奥まで射し込んだ。

中からは悲鳴が響き、そのまま重い何かが倒れる音が続く。


静寂が訪れた。


残ったのは、四人の荒い息遣いと、どこからともなく聞こえてくる水滴の音だけだった。


ルーアンはその場にへたり込み、全身汗だくだった。

腕は鉛のように重く、もう持ち上げることすら辛い。

足元に積もったネズミの死骸――少なく見積もっても五、六十はある――を見下ろし、現実感を失いそうになる。


「お、俺たち……生き残ったのか……?」

声はかすれていた。


「よくやった」

ガスパールが近づき、無事なほうの右手でルーアンの肩を軽く叩く。

「初陣でここまで持ちこたえたのは上等だ。少なくとも、俺の新人時代よりずっとな」


だが、すぐに彼は眉をひそめ、ルーアンの腕に残る牙の跡を見つめた。


「噛まれたな?」


ルーアンが見下ろすと、歯形の周囲の皮膚は赤く腫れ始めており、うっすらと紫色に変色しつつあった。


「下水道の巨大鼠には毒がある」

ガスパールは言う。

「唾液に腐敗菌が混じってる。処置をせずに放っておけば、傷口が腐り崩れる」


彼は自分の左腕を見下ろす。

こちらはさらに酷い。

二つの深い噛み跡からまだ血がにじみ、周囲の皮膚は不自然な青紫色を帯びていた。


「まだ治癒術は使えるか?」

ガスパールが問う。


ルーアンは頷いた。

疲労困憊ではあるが、聖徽の中には、まだ治癒の力が一度分ほど残っているはずだ。

彼は聖徽を握りしめ、精神を集中し、呪文を唱える。


「サナーレ」


柔らかな白光が聖徽から放たれ、ガスパールの左腕に降り注いだ。

紫がかった毒素は徐々に引いていき、腫れも少しずつ収まる。

裂けた皮膚が、目に見えてゆっくりと閉じていく。


「ずいぶん楽になった」

ガスパールは左腕を回してみせる。

まだ少しこわばりは残るが、動かすことはできる。

「助かった」


続けて、ルーアンは自分の腕にも治癒術を施した。

白光が一閃し、歯形とその周囲の赤みはあっという間に消え去る。


「シプリアン、レオナール!」

ガスパールは振り向き、声をかけた。

「そっちはどうだ? 治療が必要なら言え!」


沈黙。


誰も答えなかった。


「シプリアン? レオナール?」

ガスパールの声に警戒が滲む。


ルーアンも振り返る――


背後には、誰もいなかった。


あるのはネズミの死骸の山と、揺らめく光、そして血まみれの壁だけ。


あの痩せて精悍なシプリアンも、無口で、何度も盾でルーアンを救ってくれたレオナールも――

影も形もない。


「さっきまで……さっきまでここにいた!」

ルーアンの声は恐怖で裏返っていた。

「確かに、すぐ後ろに……レオナールが盾でネズミを叩き潰すのを、俺は見た……」


ガスパールの顔色が、見る間に険しくなっていく。

彼は短剣を握り直し、素早く周囲を確認した。


密室は広くない。

光明術の光が隅々まで行き届き、死角はほとんどない。

ネズミの巣穴を除けば、出口も隠れ場所もなかった。

一番大きい穴でさえ、直径はせいぜい半メートル。

成人男性が通れるはずもない。


二人の人間が――

筋骨逞しい夜巡隊員が二人も――

たった今まで同じ場所で戦っていたのに、ほんのわずかな間に跡形もなく消え失せていた。


「最後にあいつらが喋ったのはいつだ?」

ガスパールの声は低く、だが極度の緊張を隠しきれていない。


ルーアンは必死に記憶をたどる。

「シプリアンは……『逃がすな』って叫んで、それから……

レオナールは『気をつけろ』って……あれは、ネズミが上から落ちてきたときで……」


「レオナールのその一言は、もう十分前の話だ」

ガスパールは短剣を強く握りしめ、目を細めてありとあらゆる影を睨みつける。

「そのあと俺たちは戦いに集中してて、いつの間にいなくなったのか、誰も気づいちゃいねえ……」


そのとき、密室の奥から、鈍い音が響いた。


ドン――


重く、不気味な響き。

まるで何か重量のあるものが、壁にぶつかったような音。


二人は反射的に音のしたほうを振り向いた。


そこは密室の最深部にある壁で、鼠の死骸と骨の山の向こう側だ。

他の壁と大差ないように見えるが、よく見ると、表面に奇妙な紋様が刻み込まれている。

それは非常に古い符文で、キリスト教とはまったく異なる意匠だった。

むしろ、どこか異教の呪文を思わせる。


ルーアンの光明術に照らされて、その符文が不気味な暗赤色の光をぼんやりと放っているのが見えた。


ミシッ――


壁面に、一本の亀裂が走った。


そして、その亀裂はゆっくりと広がり始め、その隙間から、氷のように冷たい「死」の気配が流れ出してきた。


ルーアンは本能的に一歩後ずさる。

彼の聖光の盾は、とっくに消えていた。

光明術の光も弱まり始めている――

聖徽の力は、ほとんど使い切ってしまったのだ。


「戦う準備をしろ」

ガスパールが低く告げる。

短剣を握り直し、姿勢を整えた。

「あるいは、逃げる覚悟もだ」


「でも、あの二人がどこにいるのか分からない」

ルーアンの声は震えている。

「ここで置いていくなんて……」


壁の亀裂はさらに大きくなり、石片がぽろぽろと剥がれ落ちる。


その向こうから、下水よりも、死体よりもなお強烈な悪臭が吹き出してきた。

何十年もの間、無数の生き物が密閉空間で腐り続けてきたかのような、濃縮された死のにおい。


ルーアンは吐きそうになった。


そして、二人はそれを聞いた。


壁の向こう――

あの暗く未知の空間から――


聞き覚えのある声が漏れ聞こえてきた。


「た、助け……て……」


それは、ガスパールの声だった。


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